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2010年1月

2010年1月28日 (木)

エコなテレビを探すお話

 我が家では、そろそろテレビを買い替えようという話になっている。2011年7月から地デジ化するから、ではない。
 ちなみに、冒頭から脱線するが、このブログを書くために地デジについて調べておこうと検索したら、「地デジで元気!音頭」なるプロモーションビデオにヒットした。あのサブちゃんこと北島三郎氏が「クッキリ、ハッキリ スッキリ、バッチリ♪」などと唄っているのだが、私はこれまでその音頭を一度も耳にしたことがない。社団法人デジタル放送推進協会というところが「景気低迷で沈みがちな地域に“元気”を出前し、地デジの魅力で日本全体を活気づける」ことをねらいに行っているキャンペーンの一環のようであるが、疲弊しきった地域経済に「テレビを買って元気になろう!」というのは、ちょっと酷ではなかろうか。プロモーションも到底成功しているとは思えない。その予兆を感じ取ってか、「まつり」を唄ういつものサブちゃんのキレがない(笑)。

 閑話休題、買い替えの理由は我が家のテレビ氏の“老化”である。まず、半年ほど前からリモコンが使えなくなった。だから、自分の子どもの頃を彷彿とさせるように、テレビの真ん前まで行き、手動でチャンネルや音量を変えなければならない。だが、症状はさらに悪化し、チャンネルを変えようとすると音量が大きくなり、逆に音量を変えようとするとチャンネルが変わってしてしまう。これはもう“ボケ”が始まったと言わざるを得ない。

 そもそもこのテレビは義兄のものであった。結婚した当初は、一人暮らしをしていた私の14型のテレビを持ち込んだのだが、自分が上京した時から使っているものなので、さすがに少し経つと画面の色がおかしくなり始めた。どんなにきれいな女優さんもすべて宇宙人的な肌合い(今であれば『アバター』をイメージしてもらえばいいだろう)になる始末である。ちょうどその時、義兄夫婦が家を購入し、薄型のテレビを手に入れていたので、不用になったブラウン管のテレビを棚からぼた餅で頂戴できることになったのだった。
 もちろん使おうと思えば映らないわけではないので、ぎりぎりまでこのテレビ氏と心中してもいいのだが、ここまで買い控えてきたのだからそろそろ良しとしようということにした。

 決心して以来、いくつかの電器屋を気にしてまわりだしている。ただ、あまりに数がありすぎて、正直、どの製品がいいのか判断しかねていた。そこで、時流に乗った感じで安直だとも思ったが「とにかくエコなテレビがいいんですけど」と店員に切り出すことにした。我が家は消費電力量さえ少なければ、とりあえずいい。

 幸い、その切り出しでだいたい絞られてきたが、店々の対応がそれぞれで面白かった。ある電器屋では、バナナの叩き売りのごとく、身振り手振りを加え、弁舌を振るう店員に出会った。エンターテイナーとも思える彼の口上はこうだ。

「お客さん、このテレビの画面の“黒”のところを見て下さいよ。30m、いや50m離れたら“黒”の見え方が断然違うことが分かりますから」
「こちらとこちらでは残像の見え方が違いますよねぇ。通常、1秒間に60枚の映像で構成されるんですが、これは2倍の120枚で表示するフルハイビジョンを実現してるんですよぉ」

 彼の熱意は痛いほど分かったが、残念ながら我が家では(もちろん他の家でも)50mも離れてテレビを観ることはないだろうし、私も妻も残像の違いに気づくことはできなかった。

 日本のものづくりが評価されてきた背景には、「50m離れても違いが分かる黒色を出したい」「残像を極限までなくしたい」という作り手のこだわりがあり、人間(消費者)の飽くなき欲求に応えようとしてきた気概がある。無理とも思えるゴール設定があったおかげで、それを是が非でも実現させようという血のにじむような過程において、こんなにもの高度な技術が次々と開発されてきたわけだ。
 そこは当然認めたい。その作り手のたゆまぬ努力と引き換えに、便利な生活の恩恵に私たちは預かっているのだから。ただ、人間(少なくとも私)が認知できる範疇を超えたものは日常生活においては必要ない。

 別の店でも例のエンターテイナーな店員と同じテレビを紹介してくれた。そこの老練な感じの漂う店員さんは、「残像の違いが分かりますか? これを見せると『こっちは残像が少し残りますよね』って分かってくれるお客さんがいるんですよ」と話してくれた。が、少し間を置いて「でもね、私にはその違いが分からないんですよ」とにっこり笑って私に耳打ちした。私のそれに合点した表情を見取った店員さんは、「ならば」とグレードを下げたテレビコーナーへ連れていってくれた。単に私の家電に対するレベルを見極められただけなのかもしれないが、老練な店員の対応が妙に腑に落ち、好感を得た。

 帰宅し、妻にそれを話すと、その店員が最終的に勧めてくれた製品を購入することで落ち着いた。
 なのにその数日後、新聞に「環境リバウンドにご用心」との記事が掲載された。テレビなどの家電を最新のものに買い替えるとCO2の排出量が2割も減るそうなのだが、買い替え時にサイズを大きくすると削減効果は4分の1に減ってしまうのだそうだ。我が家はまさにそれだった。

 我が家に「クッキリ ハッキリ♪」なテレビが来るのはいつになることだろう。2011年7月24日というタイムリミットを知ってか知らずか、ブラウン管のテレビ氏は、未だしたり顔で茶の間に鎮座している。

【参考】
◆「地デジで元気!音頭」 http://www.dpa.or.jp/genki/song/
◆社団法人 デジタル放送推進協会 http://www.dpa.or.jp/
 
◆朝日新聞 2010年1月10日「『環境リバウンド』ご用心 TV大型化→省エネ効果4分の1に」
◆朝日新聞夕刊 2010年1月7日「テレビ『3D元年』 メーカー、一斉出品」
◆NHKスペシャル「メイド・イン・ジャパンの命運」2010年1月24日(日) 放送
 http://www.nhk.or.jp/special/onair/100124.html

2010年1月19日 (火)

学習者でありながらファシリテーター

 この週末は福島・二本松にいた。ふくしま青年海外協力隊の会(福島県協力隊OV会)から「メディア・リテラシー」をテーマにワークショップをしてほしいとの依頼があったからだ。

 講師依頼のメールが来てから、仕事上のやりとりを何度かしたが、福島の人たちがとても元気であることが伝わってくる。「グローバルセミナー」と銘打ったものをはじめ、県内で様々な開発教育の講座やイベントの企画・参加をしているようで、今回の依頼も「OV会スキルアップ講習会」との位置づけだ。現状に慢心することなく、よりよい学びの場づくりをしたいとの心意気が感じられる。

 で、なぜ今回「メディア・リテラシー」なのか?
 彼らの当座の懸念は、その元気さゆえのものとも言えるものだ。協力隊OBOGは、いざ赴任した国の話になると、自身の体験が強烈であるが故に、どうしても熱く語ったり、写真や映像など大量の資料を提示したりしてしまう。たしかにそれらは紛れもない「事実」ではあるのだが、伝え方が偏向したものになってはいまいか、ということが気がかりなのだという。その時、情報をどう読み取り、どう発信していくかを考えるメディア・リテラシーの視点は有効なのではなかろうか、というのが私のところまで依頼が来ることになった経緯なのである。なるほど、そういった活かされ方もメディア・リテラシーにはあるのだなと逆に気づかされる。

 日曜9時開始では始発に乗って埼玉の端っこ(飯能)から向かっても間に合わないこともあって、二本松市には前日入りした。実は、ちょうど県内から集まってきた派遣中の隊員の留守家族とOV会との懇親会が土曜の夜にあるとのことで、図々しくもそこから参加させていただくことにしていたのである。どんな人たちとワークショップをするのか、事前に感じておけることはプログラムの構成に活かせるし、関係性がワークショップの善し悪しを決めると言っても過言でないので、飲みュニケーションは何よりの機会となる。
 ただ、初対面ということを差し引いても、福島の隊員OBOGのプラスの空気には圧倒され、呑みこまれそうなほどだった。単身で海外に赴任し、2年の任期を全うしなければならないエネルギーがこれなんだろう。

 でも、ここで確信した! 明日のワークショップはうまくいくな、いい時間が過ごせそうだな、と。

 “ファシリテーター”という職業とも肩書きともいえない役回りを担っていると、ありがたいことに全国津々浦々で学びの場づくりに立ち会うことができる。基本的に初対面であり、その場限りであることがほとんどであるが、不思議なことに、始まる前に今回のような予知とも言える感覚を覚えることがある。それはどうもこの人たちは“学び合える”人たちだなと直感的に感じさせてくれるかどうかに因るようなのである。

 学習の現場、とりわけ社会教育の現場では、どうしても講師やファシリテーターが主体で講座が組み立てられるが、それが実際有意義なものになるかどうか、つまり換言すれば、社会に還元されるかどうか(ダジャレじゃないよ)は、学習者のあり方にこそあるものだと感じている。
 これは私が携わっている「国際開発教育ファシリテーター養成コース」で受講生の皆さんに時々言うことなのだが、例えば、セミナーに参加して力量不足の講師に遭遇した場合、「あ〜ぁ、時間と参加費がもったいないな…」と無為にやり過ごすのではなく、参加者のほうから講師の潜在的なものを引き出してやろうとするぐらいほうが絶対にいい。どうせ同じ時間を過ごすのであれば、その場が最大限の成果を上げられるよう、みんなで努力したほうがいいに決まっている。わざわざ参加費まで払って、盛り上げ役まで担うのは酌かもしれないが、そうでもしないと何も得られないまま帰宅することになる。それこそ、泣くに泣けない。
 私たちはファシリテーターでありながら学習者であり、学習者でありながらファシリテーターであらなければならないのかもしれない。

 これは演劇に置き換えてみれば分かりやすいが、舞台は「ブラボー!」や「よっ、中村屋ぁ!」と声をかける観客と一緒に作られるものだ。学びの場だって同じである。力量不足のファシリテーターであろうとなかろうとそうなのだ。
 だから、正確に言えば、“学びの場”ではなく、常に“学び合いの場”であるはずで、そうなっていなければ健全とは言えないのだと思う。

 帰路の新幹線では、ほどよい疲労感で薄暮にまどろむ至福の時間を過ごした。これは自分の仕事に満足した時の方程式だ。
 “学び合い”をしてくれた福島の人たちに感謝するとともに、その過程の中で私の次なる活動につながる示唆を与えてもらい、なにより自分が一番得をしたという気分に浸っている。同じように、参加者の皆さんひとりひとりが「私が一番得をした」と思ってくれているのであれば幸いである。

2010年1月 9日 (土)

障害者or障碍者or障がい者…?

 前回のブログで登場した松崎さんの話でもうひとつ興味深いことがあった。それは「障害者」の表記をめぐる論争に関してである。
 「障害者」の“害”の字にはネガティブなイメージがあるため、昨今、「障がい者」という表記に統一しようという動きが様々な団体や自治体で多くなっている。だが、それに反し、彼はあえて「障害者」と記載するのだそうだ。

 ちょうど7日の朝日新聞朝刊でも取り上げられていたが(ニュースが分からん!「障がい者」ひらがな使うわけは?)、鳩山政権は「障がい」との表記を使い始めている。首相が本部長を務める「障がい者制度改革推進本部」がそれで、「がい」とひらがなにしたこと自体に意味がある、と初会合で強調したのだそうだ。

 私自身も前述のような動きは見聞きしていたし、たしかにその通りだなと感じていたので、「障碍者」や「障がい者」と表記したりすることがあった。ただ、直截的な表現を避けることは、逆に差別意識を助長させたり、実情から目をそらしたりすることになるとの批判もあり、どんな表記をするにせよ、違和感を覚えることは拭えなかった。ネットでいろいろ見てもみたが、やはり賛否両論あり、おそらく当事者でも意見の分かれるところだろう。

 同じように「おかま」に対する議論もあった。
 以前、“トランスジェンダー”の方を講師に迎え、世間一般に言う「おかま」や「ゲイ」「レズ」等の言い方に関して、思いを伺ったことがあった。その時は、当事者自身がそれぞれ納得のいく表現をしているのだ、と話されたと記憶している。
 ただ、「それじゃ、当事者でない自分たちはどう表現したらいいのだろう?」と仲間内でさんざん議論をしたが、結局、腑に落ちる結論には至らなかった。捉え方、感じ方が百人百様であるのだから、全員が納得のいく表現などありえない。非常にジレンマである。

 それでも不思議なのは、「害という字の否定的なイメージを考慮し、また障がい者の人権を尊重し、障害を“障がい”と表記することにしました」と宣言する自治体はあっても、松崎氏のようにその逆を謳う自治体は見当たらないことだ。それはこれまで通り「障害」と表記することが配慮に欠け、無神経であるかのごとく受け取られることを避ける安全策のようにも見える。もし、「障がい」への変更が世の風潮にだけ倣ったものであるのなら、いっそのこと変更なんてしないほうがいい。“思考なき判断”は社会にとってマイナスである。このことだけははっきり言える。

 さて、冒頭の松崎氏のこだわりの話に戻そう。
 視覚障害者にとって「障がい者」という表記は、まったくもって迷惑極まりないのだそうだ。パソコンを使用する際、視覚障害者の方たちは音声変換して読み取るのだが、「障がい者」と表記されてしまっていると、コンピューターは「サワリガイシャ」と読んでしまう。もし「彼は障がい者です」なんていう文章があったとすると、彼がいかがわしい会社にでも勤務しているように思われかねない(かな?)。

 そうであると、今回のブログは視覚障害者の方にとれば、大変読みづらいものになっているだろう。今回ばかりは、文章の内容上、使い分けが必要であったので、どうかご容赦いただきたい。
 以後、WEB上で表記されるものに関しては、「障害者」と私は書きたいと思う。WEB上の「障がい者」という表記で、確実に迷惑がかかる人がいると分かっているのだから、はっきりしていることはきちんと行動に移したい。ジレンマは未だ解けないが、ピースをひとつひとつはめ込めば、きっと見えてくるものがあるだろう。

2010年1月 7日 (木)

振り向くな 君は美しい〜ブラインドサッカーアジア選手権決勝観戦記

 今年をワールドカップ南アフリカ大会の年として待ち焦がれている人はきっと多いだろう。そういう意味で、昨年は日本代表がアジア予選を勝ち抜き、4大会連続でワールドカップ出場の切符を手にした年であったとも言えよう。昨年であれ、今年であれ、日本代表の勝敗は多くの耳目を集めるのだ。
 ただ、“もうひとつのサッカー”日本代表の活躍をどれだけの人が知っていただろうか(注1)。その“もうひとつのサッカー”のアジア選手権が、ここ日本で昨年12月に熱く開催されていたのだが。

 日本視覚障害者サッカー協会・事務局長の松崎英吾氏を私のゼミに招いたのは、昨年11月の下旬である。アジア選手権を控え、多忙を極めていたはずなのに、唯一都合がついた一日を私と学生らのために時間を割き、わざわざ八王子キャンパスまで足を運んでくれた。そこまでして私が彼に声をかけようと思ったのは、“もうひとつのサッカー”、つまり「ブラインドサッカー」という世間一般にはマイナーである競技に魅せられ、職まで辞した彼のこだわりが聞いてみたかったからである。その“こだわり”には必ず意味があることを、経験上、よく知っている。それ故、その一端に触れさせることは学生たちの今後の人生にとって、また別の意味となって残ってくれるだろうと感じていた。

 松崎氏から時々ブラインドサッカーについての情報をメールではもらっていたので、私自身はなんとなくイメージはあったが、学生たちが持つ情報は皆無に近い。そもそも「目が見えない」ということ、そして「目が見えない中でどのようにしてサッカーをするのか」ということのイメージができない。松崎氏の話とそれを疑似体験するワークすべてが、驚きを持った新鮮さで学生たちの五感に響いていった。

 そうした“新鮮さ”で捉えられてしまうのも無理はない。ブラインドサッカーの歴史は世界的にみてもまだまだ浅いのだ。統一ルールがIBSA(国際視覚障害者スポーツ連盟)によって制定されたのは1996年。日本代表が初めて世界選手権に出場するのは2006年のことである。しかも、松崎氏の話によれば、盲学校(視覚特別支援学校)でサッカーが行われることはほとんどないのだそうだ。ましてやサッカー部など存在しない。普及と認知の道程はかなり長い。

 その背景には「危ない」という先入観がある。これまでの障害者スポーツは「いかに安全に行うか」ということに並々ならぬ配慮をしてきた。そのため、障害者スポーツに携わってきた人からは「あんな危ないスポーツ」と敬遠されてきた。盲学校へサッカーボールを持っていった時には「ボールって、蹴ってもいいんですか?」と訊ねられたこともあるそうだ。盲学校の生徒たちにとってボールとは「手で持つもの」であったからである。

 ブラインドサッカーに魅せられてしまったプレーヤーたちは、「むしろ日常生活のほうがよっぽど危ない」と感じているようだ。ピッチの中にいる時よりも駅のホームを歩いている時のほうが恐怖を感じるそうである。日常生活でさえ、制限があるのに、スポーツまでも制限されてはまっぴらごめんだ!というのが視覚障害者たちの本音なのではないだろうか。
 もちろん安全性に配慮するのは当然であるが、あまりに周りが「障害者スポーツ」というものを規定してしまっては、可能性を閉じてしまうことになる。

 それから、ブラインドサッカーがなかなか普及しない背景には、圧倒的に「プレーヤーがいない」ということがある。
 日本で「障害者」と言われる人たちは800万人いるとされている。そのうち視覚障害者は30万人。ただし、その75%が50歳以上にあたり、近い仲間でチームを編成する(注2)ことが非常に困難な状況にある。「ゲームをしたい!」と思う時に気軽にできないのが嘆かわしい。
 
 そんな状況下にありながら、何度か合宿を重ね、鍛錬してきたという日本代表の勇姿をこの目で見たく、日本対中国の決勝戦を応援しに行った。会場であるアミノバイタルフィールド(味の素スタジアムに隣接)へ到着したのは、もう前半が終わりかけた14:30ごろであった。冬至が近い12月20日ともなるとだいぶ日が陰ってきていたのだが、周りの寒々しい空気とは一変、ピッチでは激しい攻防が繰り広げられていた。

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 ボールの中の鈴の音とコーラーの猛々しい指示、そして自らの空間認知力だけを頼りに、サイドフェンスに激突しつつもゴールへと向かっていくプレーは、今までにないスポーツ観戦の魅力を感じさせる。

 プレーヤーに聞けば、ブラインドサッカーには「自由」があり、「サッカーそのもの」であることが痛快で、そして「仲間との出会い」が生まれるゆえに虜になるのだという。今、眼前でプレーする選手たちの姿を見ていると、それを心ゆくばかりに感じながらボールを追っているのだろうと思う。そこにも感じ入りながら試合終了のホイッスルを聞いた時、まさに快哉を叫ぶ思いとなった。

 残念ながら試合は0対2で日本が負けた。これで2010年にイギリスで開催される世界選手権への道は閉ざされたわけではないが(注3)、サポーター席に向けて一礼する選手たちの中には号泣している者もいる。うつむいて悔しさをこらえている者もいる。
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 でも決して彼らは徒に後ろを振り向こうとはしない。しっかとゴールを見据え、前を見つめるまなざしが私には感じられる。“もうひとつのサッカー”に魅入られた日本代表イレブンにはそんな強さがあるのだ。
 松崎氏もそんなサッカー以上のものがあるところにこだわったのだと、家路につく中、改めて思うのだった。

(注1)実際には多くのメディアが報道しているので、会場に足を運ばなくともニュースで見聞きし、知っていた方は結構いるのかもしれない。 http://www.b-soccer.jp/news/2009/12/post_159.php

(注2)ブラインドサッカーは、4人のプレーヤー(障害の度合いが異なるため、公平を期すようにアイマスクを着用)とゴールキーパー(晴眼者か弱視者が担う)、そして全体に指示を出す「コーチ」とオフェンスに対してゴールの位置や距離を伝える「コーラー」と呼ばれる7名で行われる。フットサルのルールをもとに考案されているので、ピッチの大きさも基本的にその大きさになっている。
※「ブラインドサッカーとは」
 http://www.b-soccer.jp/appeal/rules.html

(注3)2010年世界選手権へは、アジアから優勝した中国、準優勝の日本、3位韓国の3ヶ国が出場する。

【参考】
・ 日本視覚障害者サッカー協会ホームページ
 http://www.b-soccer.jp/

・ 『週刊ダイヤモンド』(2009年4月11日号 特集:「社会起業家」全仕事 あなたにもできる世直しビジネス)
 http://dw.diamond.ne.jp/contents/2009/0411/index.html
 ※ この中で松崎英吾氏が見開きで取り上げられている。

・ ブラインドサッカー公式応援ソング「キミノコエ」(カズン)
 http://asia2009.b-soccer.jp/about/song.html

・ 岡田仁志『闇の中の翼たち ブラインドサッカー日本代表の苦悩』幻冬舎 2009年
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