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2010年1月19日 (火)

学習者でありながらファシリテーター

 この週末は福島・二本松にいた。ふくしま青年海外協力隊の会(福島県協力隊OV会)から「メディア・リテラシー」をテーマにワークショップをしてほしいとの依頼があったからだ。

 講師依頼のメールが来てから、仕事上のやりとりを何度かしたが、福島の人たちがとても元気であることが伝わってくる。「グローバルセミナー」と銘打ったものをはじめ、県内で様々な開発教育の講座やイベントの企画・参加をしているようで、今回の依頼も「OV会スキルアップ講習会」との位置づけだ。現状に慢心することなく、よりよい学びの場づくりをしたいとの心意気が感じられる。

 で、なぜ今回「メディア・リテラシー」なのか?
 彼らの当座の懸念は、その元気さゆえのものとも言えるものだ。協力隊OBOGは、いざ赴任した国の話になると、自身の体験が強烈であるが故に、どうしても熱く語ったり、写真や映像など大量の資料を提示したりしてしまう。たしかにそれらは紛れもない「事実」ではあるのだが、伝え方が偏向したものになってはいまいか、ということが気がかりなのだという。その時、情報をどう読み取り、どう発信していくかを考えるメディア・リテラシーの視点は有効なのではなかろうか、というのが私のところまで依頼が来ることになった経緯なのである。なるほど、そういった活かされ方もメディア・リテラシーにはあるのだなと逆に気づかされる。

 日曜9時開始では始発に乗って埼玉の端っこ(飯能)から向かっても間に合わないこともあって、二本松市には前日入りした。実は、ちょうど県内から集まってきた派遣中の隊員の留守家族とOV会との懇親会が土曜の夜にあるとのことで、図々しくもそこから参加させていただくことにしていたのである。どんな人たちとワークショップをするのか、事前に感じておけることはプログラムの構成に活かせるし、関係性がワークショップの善し悪しを決めると言っても過言でないので、飲みュニケーションは何よりの機会となる。
 ただ、初対面ということを差し引いても、福島の隊員OBOGのプラスの空気には圧倒され、呑みこまれそうなほどだった。単身で海外に赴任し、2年の任期を全うしなければならないエネルギーがこれなんだろう。

 でも、ここで確信した! 明日のワークショップはうまくいくな、いい時間が過ごせそうだな、と。

 “ファシリテーター”という職業とも肩書きともいえない役回りを担っていると、ありがたいことに全国津々浦々で学びの場づくりに立ち会うことができる。基本的に初対面であり、その場限りであることがほとんどであるが、不思議なことに、始まる前に今回のような予知とも言える感覚を覚えることがある。それはどうもこの人たちは“学び合える”人たちだなと直感的に感じさせてくれるかどうかに因るようなのである。

 学習の現場、とりわけ社会教育の現場では、どうしても講師やファシリテーターが主体で講座が組み立てられるが、それが実際有意義なものになるかどうか、つまり換言すれば、社会に還元されるかどうか(ダジャレじゃないよ)は、学習者のあり方にこそあるものだと感じている。
 これは私が携わっている「国際開発教育ファシリテーター養成コース」で受講生の皆さんに時々言うことなのだが、例えば、セミナーに参加して力量不足の講師に遭遇した場合、「あ〜ぁ、時間と参加費がもったいないな…」と無為にやり過ごすのではなく、参加者のほうから講師の潜在的なものを引き出してやろうとするぐらいほうが絶対にいい。どうせ同じ時間を過ごすのであれば、その場が最大限の成果を上げられるよう、みんなで努力したほうがいいに決まっている。わざわざ参加費まで払って、盛り上げ役まで担うのは酌かもしれないが、そうでもしないと何も得られないまま帰宅することになる。それこそ、泣くに泣けない。
 私たちはファシリテーターでありながら学習者であり、学習者でありながらファシリテーターであらなければならないのかもしれない。

 これは演劇に置き換えてみれば分かりやすいが、舞台は「ブラボー!」や「よっ、中村屋ぁ!」と声をかける観客と一緒に作られるものだ。学びの場だって同じである。力量不足のファシリテーターであろうとなかろうとそうなのだ。
 だから、正確に言えば、“学びの場”ではなく、常に“学び合いの場”であるはずで、そうなっていなければ健全とは言えないのだと思う。

 帰路の新幹線では、ほどよい疲労感で薄暮にまどろむ至福の時間を過ごした。これは自分の仕事に満足した時の方程式だ。
 “学び合い”をしてくれた福島の人たちに感謝するとともに、その過程の中で私の次なる活動につながる示唆を与えてもらい、なにより自分が一番得をしたという気分に浸っている。同じように、参加者の皆さんひとりひとりが「私が一番得をした」と思ってくれているのであれば幸いである。

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コメント

ファシリテーターや教師のような人たちに、参加者や学習者が依存しすぎて、出した金額と等価の「サービス」を求める傾向がまるで当たり前のようになっているこのごろ。

それではお互いにもったいないと思うことも多く、石川さんのこの話には共感するところがありました。

私も「せっかく来たんだから、元とろう」と思うこともあります。
一度、期待して行ったある宗教関係の講演会で、あまりにつまらない話に、「何がどうつまらないか」をずっとリストアップして、時間を過ごしたこともありました。

ただ、私は「つまらない」と、さっと切り上げて席を蹴って出るのもいいなあ、と(あこがれをこめて)思います。
副産物としてですが、その方がたぶんファシリテーターや教師は「伸びる可能性」が得られやすいと思います。(別にそんなことする義務もないでしょうが)

うまくいったり、成功したりすることで学ぶこともあるでしょうが、一番学ぶ機会になるのは、その逆のときで、何かを考え始めるのも、そういう「大失敗」の時ですよね。

現在の教育もサービスに堕してしまいがちなのは、「大否定」が禁じ手のようになって、むやみに「ほめる」ことだけで、終始しているからだと残念ながら思います。否定されると自分の存在を否定されたかのようにしか取れない学習者には、怖くて、それしかできない気がします。そのあたりの共通ルールの確認や基盤づくりが再生される必要があると考えます。


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