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2010年2月 8日 (月)

「答え」のない授業(1)

 『道徳』には答えがあり、『倫理』には答えがない

 以前、そんなことを教材作成仲間が話してくれた。高校の社会科教員である彼は、「倫理」の授業の前、生徒たちへそのように説明するのだそうだ。自分の高校時代を思い起こすと、たしかに「愛とは何か」「生きるとはどういうことか」など、「倫理」の授業では哲学的な問いに向かうことが多かったなと、その説明はなかなか言い得て妙だと合点した。
 もちろん、「道徳」と「倫理」の辞書上の区別はそうではないが、小学校で受けてきた「道徳」のイメージが多分に影響してしまっているのだろう。どうも私たちは、善悪・正邪の二者択一で“いいこと”を選択し、それを教え込まれてきたという印象を拭いきれていない。それ故、冒頭の言葉はかなりの正当性を持っている。

 私が専門とする「開発教育」も、時に“答えのない教育”と言われる。参加型学習の手法を進めることの多いこの教育活動は、プロセスを重視するため、だいたいがオープンエンドで終わる。逆に言えば、「落としどころのない授業」とも受け取られ、現場では「締まりがない」と敬遠されてしまう。

 ますます複雑多様化する現代社会において、絶対唯一の「正答」を見つけることは難しい。というか、昨今のそういう状況を抜きにしても「正答」を見つけることは至難の業である。倫理の授業で習ったソクラテスやプラトンが生きた時代に抱かれたであろう問いは、
今に生きる私たちも未だ明確に答えることはできない。それが“至難の業”であることを裏付ける。
 そもそも「正答」とは存在するものなのだろうか? たとえそれがある一瞬においては「正答」だったとしても、それは常に批判的に検証されるべき「正答」であるのだと思う。だからこそ教育現場では「答えを出す」こと以上に「議論する」あるいは「思考する」プロセスに、より注力してほしいと思う。

 ただし、教育現場において答えを出す作業がナンセンスかと言えば、それは誤解である。無論、開発教育においても「答え」は出していくものなのである。

 開発教育は「答えを出さなくていい」といった消極的な教育活動では決してなく、むしろ「答えを出していく」積極的な教育活動であると自分は認識している。より正確に言えば、学習者が個々に「答えを持つ」教育であり、それをぶつけ合う教育活動であるのだと感じている。つまり、ファシリテーター(教師)が投げかける問いや仕掛け(アクティビティ)に対して、思い悩み、考え抜き、その過程で学習者はそれぞれに「答え」を持ち始める(たとえ、それが不十分な、曖昧模糊なものだったとしても)。その自分なりの「答え」を他の学習者と相互に共有しあう中で、それはさらに昇華した「答え」となっていく。

 矛盾した言い方だが、「正答」を求めて「答えのない」授業を繰り返し実践していく。その反復こそが、学習の深まりの源泉となっているのだと信じている。

【参考】
開発教育とは? http://www.dear.or.jp/de/index.html (開発教育協会HP内)

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