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2010年2月 9日 (火)

「答え」のない授業(2)

 “「答え」のない授業”について改めて考えるきっかけとなったのは、「国際開発教育ファシリテーター養成コース」の修了生からのメールだった。もともと会社員であった彼は、奥さんのイギリスへの海外転勤を機に、会社を辞め、“専業主夫”として家事をサポートすることにした。そのかたわら、大学院へと入学し、国際政治経済学を専攻したのである。かねてより抱いていた「日本社会の今のぎくしゃくさがグローバリゼーションとなんらか関連があるのでは?」との引っ掛かりを解きたかったのだそうだ。
 その引っ掛かりが完全にはなくなってはいないだろうけども、メールでやり取りしていると、その端緒は間違いなくつかんでいるようである。しかもその端緒は、私たち開発教育実践者が見逃してきたもの、あるいは分かっていたけども踏み込んでこなかったところのものである。

 私のような教育畑の人間は、どうしても学校や公民館などの場が前提となる。しかし、彼のような会社員は常に実社会が現場である。
 誤解を恐れずに言えば、教育とは、例えば教室のような “仮想の場”をどれだけ現実の社会に近づけて思考していくかという実験場である。アフリカで飢餓にあえぐ人々や戦火を逃れて着の身着のまま難民キャンプに辿り着いた人々へ思いを馳せ、他人事をできる限り自分事へと意識変容させていけるかという試みであると言っていい。それが行動の変化へとつながることが最終的なねらいとして期待されるのだが、実際には「共感」するところでほとんどが満足してしまっている。それが時間的制約や発達段階のせいともされるが、その実状は認めざるを得ない。「今は種を撒いたばかりだから。きっとここでの学習が5年後、10年後には花開いてくれるはずだから」という常套句を口にしたくなるのは、「共感」に留まっていることへの自己弁護なのかもしれない。

 きっと、そこへのもどかしさからだろう。ある時、イギリスから「答えがない」ことへの“異議申し立て”のメールが届いた。

「私は“答えがないことを良しとする”という考え方には非常に賛成です。が、石川さんの中にさえ答えがないのではないか? もしくは答えを用意するつもりがないのではないか?という懸念を持っています。」

 痛いところを突かれた。
 当然、講義・ゼミであろうが、講師依頼を受けたセミナーであろうが、設定されたテーマに真摯に向き合ってきた自負はあるものの、私の実践がどこまで現実社会に迫り、行動に結びつく「答え」となっていたかは評価しづらい。「答え」を用意するつもりがなかったわけではもちろんないのだが…。
 
 食事時、こうした「大人の文通」の始終を妻へ話し、彼女自身の「答えのない授業」の話を聞くことにした。その時してくれたのは、「命の重み」をテーマにした授業で出生前診断のことを取り上げた時の話だった。(ちなみに妻は高校の家庭科教員です)
 「出生前診断を受けたいですか」との問いに高校生はややYESが多いものの、どのクラスでも意見が分かれる。おおよその理由はこうだ。

〈YES〉
・ 健康な子どもが欲しいから。自分の子どもは元気に育ってほしいから。
・ 障害を持った子を育てられるほど経済的に余裕はないと思う。
・ 生まれてくる赤ちゃんに苦しんでほしくない。
・ あらかじめ知ることは大切だ。生まれてくる子どもを育ててあげる覚悟をするために受けたい。
・ 産む前にいろいろ知ることができるし、安心感が持てる。

〈NO〉
・ 産まれるまで楽しみにしたい。
・ ありのままで生まれてきてほしい。
・ どんな子でも関係ない。どんな子でも自分の子ども。
・ 生まれる前から障害があると分かったら、一部の人は愛せないと思う。
・ 結果を知ったところでどうしようもない。

 これら生徒の意見に○も×もない。ただし、これらは感情的なものだったり、社会の一般認識をなぞるものであったり、場合によっては既存の偏見・差別意識に基づくものであったりする。あくまで自分の経験値の範疇にあるものにすぎない。
 授業では、そこから妻が様々な素材を提示し、生徒が吟味し、考え抜いていく。そうして、再度、現時点で精一杯の「答え」を出すのである。その過程は、自分の経験値に他のクラスメイトや素材の中の人物の経験値、つまり彼らの「答え」と重ねていく作業となる。それは、さっきまでの自分とは違う自分へと成長する過程と言えるものだ。

 しかし、そこで自分なりの「答え」が出せたことにきっと学習者は満足しない。「答え」をぶつけ合うプロセスでは、満足する前に新たな疑問が湧いてくるにちがいないのだ。私ひとりだけが「答え」を悶々と見つけようとしていたプロセスとは明らかに違い、「答え」群に潜む共通項がぼんやりと見えてくるだろうからだ。

 障害をもった子の育児が経済的に大変な社会とは?
 生まれてくる赤ちゃんが苦しんでしまう社会とは?
 生まれてくる子どもを育てるのに覚悟がいる社会とは?
 育児に安心感をもてない社会とは? etc 

 さてはて、自分が今生きている社会はどうもどこかおかしくないだろうか…。

 そこに気づいた時、出生前診断の是非を問うことが本質なのではなく、そこから見えてくる社会のあり方を問うことが本質であるのだということに思い至る。学習者たちは、また別の次元で同じラインに立ち、再度議論をスタートさせていくことになるだろう。本質を見極めることに限りなく近づいていくために。

 妻と話をしていて、私は私自身の考えをそう整理した。そして、私は「答え」を出すことを避けているのではなく、拙速に「答え」を出すことに違和感を覚えるのであって、「答え」のない授業こそ、丁寧に問題の本質に迫っていくための壮大な仕掛けなのだと捉えている。だから、「石川さんの中にさえ答えがないのではないか?」との投げかけには、例の常套句が口を衝く。

 「今は種を撒いたばかりだから」

 こんな煙に巻いた回答で、おそらくイギリスの専業主夫氏は納得しないだろう。それは逡巡にすぎないとすら思っているかもしれない。
 それでもいい。もうじき彼は帰国する。直接、彼と議論できるのが今から待ち遠しく思えてならない。

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コメント

石川さんこんにちは。イギリスからです。
石川さんらしく、絶妙にずらしの効いた記事、楽しく読んでいます!
今回の『「答え」のない授業』についてですが、コース修了後もこうやってつながっていられる、そしてカッキある議論を交わしフカボリ合えることを非常にありがたく感じています。ありがとうございます。

さてさて、本題ですが…何か煙に巻かれたような、そんな気もしていますが…

石川さんはかなりの種まき名人です。すごいです。僕の中にもたくさん種がまかれていて、困ったことに芽がたくさん出てきちゃっています。。。
僕が知りたいと熱望しているのはおそらく、石川さんはなぜ種をまき続けるのか、言いかえれば、石川さんがこれまでに蒔いてきた種や今蒔いている種がどのような草や木となり、どのような花をつけ、どんな実を結ぶと、石川さん自身が期待されているのか、そこのところです。自分の中の芽を今後どのように育てたものか考えている最中なので。

この春には帰国です。イギリスは本当に居心地が良くて、ここを離れるのは少しさみしい気もしますが、日本での楽しみが増えてきて、帰国が楽しみでもあります。
パナスのカレーか、和のお好み焼きでもつつきながらおおいにだべりましょう!!よろしくお願いします。

私の場合は、中・高時代にそういう種を蒔いてもらった記憶はないな。人生も後半戦に差し掛かったところで勝手に芽が出てきたようなもんです。ま、どこまで育つかわかりませんが・・・。

もっと育てるために今年もフォーラムに行くつもりだったけど、残念ながら今年は断念せざるを得ません。う~ん、ホント残念です・・・。でもまあ、飲み会で繋がっていられるんでよしとしよう(笑)。

答えが何でもあると思う時期というのは、そんなに長くはないと思う。初学者は答えがあるものだと思いやすいと思うが、そうはいかないことにいずれ気づくと思う。(ものにもよるけど)

けっこう、みんな、自分の今の考えを更新させながら、同じような問題に何度も取り組んでいると思う。

ある答えというものは、たいてい、次の問いも含んでいることも多いし。

学校での学習にも、すぐ答えの見つかるものも、そうでないものもあると思う。

むしろ、答えよりも問いの方に、つまり、どんな問いを立てるか?ということの方に重要さがあるということが、わかるようになるといいと思う。

自分にとって、そういう重要な問いに出会えたら、そこでずっと問い続けることで、ひとはそのひとらしく生きられるのではないかな?と思う。

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