骨髄バンク支援

  • 走り続けて、骨髄バンク支援!
2016年11月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      

« 2010年1月 | トップページ | 2010年3月 »

2010年2月

2010年2月21日 (日)

小学生が「選挙」する!

 20歳になって初めて行った選挙がなんだったか、全く記憶にないが、投票所で「自分なんかが投票してもいいのかな」と気おくれした印象だけは残っている。ただ、一票入れた直後には「私は成人だぁ!」と妙な自信が湧いてきた記憶もある。

その自覚があったせいか、やむを得ず棄権した一回を除けば、これまで私はすべての選挙に自分の一票を投じている。

 

しょせんヒトなんてものは、内面から自発的に認知するのは難しいが、外的要因によってはたやすく変容し、その気になってしまうものなのだ。だから古今東西で「儀式」といったものが執り行われるのではなかろうか。それは、いつまでもあきらめ悪くモジモジしている段階から、向かうべき次のステージへの“追いだし”である。卒業式であれば「もう学校を出て社会に出なさいよ」と、結婚式であれば「独身で好き勝手にやるのでなく家庭をもってみなさいよ」と、葬式であれば「生を全うしたのだから、あの世でも達者でね」と良い意味で諦念を抱かせるための装置として機能する。

 

つまり、「初めての投票」という所作は社会へ参画するための意思表示であり、“もうひとつの成人式”と言えるものではないか。そういう意味では、20歳と言わず、もう少し早い段階でそれが行われていいと私は思っている。自覚するタイミングの問題なのであれば、翻って、“大人”になる潜在性はかなり早い段階で醸成されていると言うこともできる。

だから「18歳成人」には賛成である。さらには、その準備が小さい頃から継続的に行われるのであれば、無論いい。

 

17日の水曜日、模擬選挙推進ネットワーク 事務局長の林大介氏、桜井・法貴グローバル教育研究所の桜井高志氏、そして私の3人は玉川学園で行われた模擬選挙の授業を見学させてもらった。今日21日に行われた町田市長選挙を想定しての模擬選挙である。

 

私が観たのは小学6年生2クラスの授業であった。授業前、担当された硤合(そあい)先生は、普段は高校で授業をしているため「試行錯誤の実践です」と話されていた。正直、私も小学生の模擬選挙がどの程度の意味を持ってくるものか、観るまで半信半疑だった。しかも45分という限られた時間の中で、候補者を吟味し、投票するところまでもっていかなければならない(2コマとって実践するのがベストではあるが、やるべきことが山積している昨今の教育現場では難しいのが実状だ)。懸念は、“投票”するという行為事態が目的化して、学びがともなってこないのではないかということである。

 

実際の授業はおおよそ次の流れで行われた。

 

1.今日の授業について(5分)

2.「町田」のイメージをブレスト(5分)

3.グループワーク「選挙公報を見よう!」(10分)

 “なぜ?”をたくさん探す 各候補で最低3つずつ

4.グループごとに発表(15分)

5.投票(5分)

6.ふりかえり(5分)

 

 非常に痛快だったのは、選挙公報を分析するグループワークの後の発表だ。小学6年生が読み解く選挙公報とは次のようなものだった。

 

・○○候補は、具体的に書いていないが何をしたいのか。

・マニフェストの内容はいいが、本当に全部できるのか。

・財源は減っているのに、減税はどうやってやりくりするのか。

・中学三年生までの医療費ゼロはできるのか。

・給食費ゼロには反対。私たちにとってはいいが、給食のおばさんたちの給料が出ないのはよくない。

・減税しているのに、こんなに建設できるのか。

・○○候補は夢を持ちすぎて、(政策実施までに)時間がかかりそう。

・推薦人に鳩山首相を挙げているのは自慢? 本当に推薦しているの?

・○○候補の趣味はバードウォッチングなので、森林伐採を止めてくれそう。

・浜松市出身なのに、町田市のことを知っているのか。

 

 給食のおばさんを気づかう視点は大人にはないかもしれないが(笑)、これらコメントは大人と比べて全く遜色ない。選挙公報に対して訝しく思うセンスに、どうも大人も子どもも関係ないようだ。であれば、授業前の私の半信半疑は杞憂にすぎなかったということになる。事実、林氏の話によれば、模擬選挙の結果は実際の選挙の結果とほとんど同じになるのだそうだ(とりわけ国政選挙に関してはその傾向が強いとのこと)。

 ただ、これもまた大人にも子どもにも両方へ言えることだが、“訝しく思うセンス”をいかに“正しい投票行動”につなげていくかということが次の課題になってくる。なにが「正しい」かは、厄介な話ではあるのだが…。

 

 模擬選挙の結果はまだ明かされていない。たとえ選挙権のない小学生だろうと、実際の選挙結果が出る前にその結果を公表することは、公職選挙法の「人気投票の公表の禁止」(第138条の3)に抵触するためだ。

 しかし、その模擬選挙の投票結果を知ることが、私が観たクラスの子どもたちの目的ではない。きっともうすぐ明らかになる実際の町田市長選挙の結果が彼らの最大の関心事になっているはずである。“模擬”ではなく、“実際”の選挙結果にこそ、目が向くようであれば、模擬選挙の授業が活きてくる。彼らは、選挙権を得て初めて迎える「儀式」と同等のものを、あの授業で体験したにちがいない。

Img_0536

 実際の投票所と酷似した環境にして授業は行われる

Img_0539

 

【参考】

 玉川学園のホームページの「CAMPUS TODAY」(2月17日)で授業の様子が見られる。

 

2010年2月17日 (水)

60億の瞳とバンクーバー

 「これだけ世界中の人が注目する“お祭り”は他にないだろう」などと思っているのは先進国の人だけかもしれない。

 

 土曜(日本時間)に行われたバンクーバー冬季五輪開会式は、世界中で推定30億人もの人が観たという(注1。ただ、“身内”(バンクーバー冬季五輪組織委員会)の発表なので、その数字を鵜呑みにすることはできない。少々、煽りすぎではあるまいか。

 たしかにそのリップサービス分を差し引いたとしても視聴者は相当な数にのぼるだろう。だが、観ている大方は「北」の人たちなのだ。EARTH’S CITY LIGHTS(注2)として光っているのは、その熱狂さゆえと言ったら、皮肉にもならないか…。とにもかくにも、そうした意識の差と経済格差、そしてメダル獲得数には妙な相関があるように私には見える。

 

 なんて、偉ぶって書いたが、紛れもなく私はその熱狂者の範疇にある。オリンピックに限らず、世界選手権やワールドカップといった類のものが大好きで、どんなに時差があろうとLIVEで観ないと気が済まない。結局、そんなつもりはなかったが、今回の開会式も一部始終を観てしまったし。

 

 最近の開会式にはある傾向というか、よくされている演出がある。それに対して、違和感なのかなんなのか釈然としないが、私はどうも白けて観てしまうことになる。「先住民」が出てくる、否、出される場面にである。

 今回も序盤にその場面があり、演出としては一番鮮やかで華やいでいて、観る者を魅了していた(にちがいない)。カナダの多様性を知り至らしめるには十分過ぎるものだったろう。開催地の歴史や文化にも目をやってほしいというショーなのだし、気張ってあれこれ言う必要もない。北京五輪の口パク少女とは違い、(実況しているNHKのアナウンサーによれば)踊っているのは全国から集まった先住民の人たちだと言うし。

 ただ、それでもどこか釈然としない。

 

 こうした演出には「理解・共感を促すきっかけとなる」とみる向きと「利用されるだけだ」とみる向きとがあり、今回もその賛否は実際にあったようだ(注3)。だが、自分の違和感はそれともやや違う。観ていて感じるのは、いくら“お祭り”とは言え、普段彼らにあてる脚光と今回のとでは、あまりに光度が違いすぎやしまいか、そんな責める思いに近かった。それは演出家に対してであり、カナダの人たちに対してであり、かつ先住民自身にも対してである。そして、それ以上に、それを観てしまっている自分に対してその思いが強くある。だから、違和感はむしろ気恥ずかしさであり罪悪感である。

 

  815日になれば、 「戦争の悲惨さを忘れないようにしよう」というマインドが1年に1回でもリセットされることを私は悪いとは思わない。今回もそれと同じ「しかけ」である。そう思えばいいではないか。それを30億人もの人が観ていると言い切れるのならば、合点がいかないこともない。

 

 

(注1 NIKKEI NET「テレビ視聴者は推定30億人 バンクーバー五輪開会式」

 http://sports.nikkei.co.jp/index.aspx?n=SSXKG0207%2013022010

 

(注2)出典:NASA VISIBLE EARTH

 http://visibleearth.nasa.gov/view_rec.php?id=1438

 http://veimages.gsfc.nasa.gov/1438/earth_lights.gif

 

(注3)朝日新聞朝刊 2010214日「我ら先住民 踊って訴え」

 

【参考】

朝日新聞朝刊 2010213日 私の視点「五輪と先住民 求められるのは理解と尊重」

2010年2月 9日 (火)

「答え」のない授業(2)

 “「答え」のない授業”について改めて考えるきっかけとなったのは、「国際開発教育ファシリテーター養成コース」の修了生からのメールだった。もともと会社員であった彼は、奥さんのイギリスへの海外転勤を機に、会社を辞め、“専業主夫”として家事をサポートすることにした。そのかたわら、大学院へと入学し、国際政治経済学を専攻したのである。かねてより抱いていた「日本社会の今のぎくしゃくさがグローバリゼーションとなんらか関連があるのでは?」との引っ掛かりを解きたかったのだそうだ。
 その引っ掛かりが完全にはなくなってはいないだろうけども、メールでやり取りしていると、その端緒は間違いなくつかんでいるようである。しかもその端緒は、私たち開発教育実践者が見逃してきたもの、あるいは分かっていたけども踏み込んでこなかったところのものである。

 私のような教育畑の人間は、どうしても学校や公民館などの場が前提となる。しかし、彼のような会社員は常に実社会が現場である。
 誤解を恐れずに言えば、教育とは、例えば教室のような “仮想の場”をどれだけ現実の社会に近づけて思考していくかという実験場である。アフリカで飢餓にあえぐ人々や戦火を逃れて着の身着のまま難民キャンプに辿り着いた人々へ思いを馳せ、他人事をできる限り自分事へと意識変容させていけるかという試みであると言っていい。それが行動の変化へとつながることが最終的なねらいとして期待されるのだが、実際には「共感」するところでほとんどが満足してしまっている。それが時間的制約や発達段階のせいともされるが、その実状は認めざるを得ない。「今は種を撒いたばかりだから。きっとここでの学習が5年後、10年後には花開いてくれるはずだから」という常套句を口にしたくなるのは、「共感」に留まっていることへの自己弁護なのかもしれない。

 きっと、そこへのもどかしさからだろう。ある時、イギリスから「答えがない」ことへの“異議申し立て”のメールが届いた。

「私は“答えがないことを良しとする”という考え方には非常に賛成です。が、石川さんの中にさえ答えがないのではないか? もしくは答えを用意するつもりがないのではないか?という懸念を持っています。」

 痛いところを突かれた。
 当然、講義・ゼミであろうが、講師依頼を受けたセミナーであろうが、設定されたテーマに真摯に向き合ってきた自負はあるものの、私の実践がどこまで現実社会に迫り、行動に結びつく「答え」となっていたかは評価しづらい。「答え」を用意するつもりがなかったわけではもちろんないのだが…。
 
 食事時、こうした「大人の文通」の始終を妻へ話し、彼女自身の「答えのない授業」の話を聞くことにした。その時してくれたのは、「命の重み」をテーマにした授業で出生前診断のことを取り上げた時の話だった。(ちなみに妻は高校の家庭科教員です)
 「出生前診断を受けたいですか」との問いに高校生はややYESが多いものの、どのクラスでも意見が分かれる。おおよその理由はこうだ。

〈YES〉
・ 健康な子どもが欲しいから。自分の子どもは元気に育ってほしいから。
・ 障害を持った子を育てられるほど経済的に余裕はないと思う。
・ 生まれてくる赤ちゃんに苦しんでほしくない。
・ あらかじめ知ることは大切だ。生まれてくる子どもを育ててあげる覚悟をするために受けたい。
・ 産む前にいろいろ知ることができるし、安心感が持てる。

〈NO〉
・ 産まれるまで楽しみにしたい。
・ ありのままで生まれてきてほしい。
・ どんな子でも関係ない。どんな子でも自分の子ども。
・ 生まれる前から障害があると分かったら、一部の人は愛せないと思う。
・ 結果を知ったところでどうしようもない。

 これら生徒の意見に○も×もない。ただし、これらは感情的なものだったり、社会の一般認識をなぞるものであったり、場合によっては既存の偏見・差別意識に基づくものであったりする。あくまで自分の経験値の範疇にあるものにすぎない。
 授業では、そこから妻が様々な素材を提示し、生徒が吟味し、考え抜いていく。そうして、再度、現時点で精一杯の「答え」を出すのである。その過程は、自分の経験値に他のクラスメイトや素材の中の人物の経験値、つまり彼らの「答え」と重ねていく作業となる。それは、さっきまでの自分とは違う自分へと成長する過程と言えるものだ。

 しかし、そこで自分なりの「答え」が出せたことにきっと学習者は満足しない。「答え」をぶつけ合うプロセスでは、満足する前に新たな疑問が湧いてくるにちがいないのだ。私ひとりだけが「答え」を悶々と見つけようとしていたプロセスとは明らかに違い、「答え」群に潜む共通項がぼんやりと見えてくるだろうからだ。

 障害をもった子の育児が経済的に大変な社会とは?
 生まれてくる赤ちゃんが苦しんでしまう社会とは?
 生まれてくる子どもを育てるのに覚悟がいる社会とは?
 育児に安心感をもてない社会とは? etc 

 さてはて、自分が今生きている社会はどうもどこかおかしくないだろうか…。

 そこに気づいた時、出生前診断の是非を問うことが本質なのではなく、そこから見えてくる社会のあり方を問うことが本質であるのだということに思い至る。学習者たちは、また別の次元で同じラインに立ち、再度議論をスタートさせていくことになるだろう。本質を見極めることに限りなく近づいていくために。

 妻と話をしていて、私は私自身の考えをそう整理した。そして、私は「答え」を出すことを避けているのではなく、拙速に「答え」を出すことに違和感を覚えるのであって、「答え」のない授業こそ、丁寧に問題の本質に迫っていくための壮大な仕掛けなのだと捉えている。だから、「石川さんの中にさえ答えがないのではないか?」との投げかけには、例の常套句が口を衝く。

 「今は種を撒いたばかりだから」

 こんな煙に巻いた回答で、おそらくイギリスの専業主夫氏は納得しないだろう。それは逡巡にすぎないとすら思っているかもしれない。
 それでもいい。もうじき彼は帰国する。直接、彼と議論できるのが今から待ち遠しく思えてならない。

2010年2月 8日 (月)

「答え」のない授業(1)

 『道徳』には答えがあり、『倫理』には答えがない

 以前、そんなことを教材作成仲間が話してくれた。高校の社会科教員である彼は、「倫理」の授業の前、生徒たちへそのように説明するのだそうだ。自分の高校時代を思い起こすと、たしかに「愛とは何か」「生きるとはどういうことか」など、「倫理」の授業では哲学的な問いに向かうことが多かったなと、その説明はなかなか言い得て妙だと合点した。
 もちろん、「道徳」と「倫理」の辞書上の区別はそうではないが、小学校で受けてきた「道徳」のイメージが多分に影響してしまっているのだろう。どうも私たちは、善悪・正邪の二者択一で“いいこと”を選択し、それを教え込まれてきたという印象を拭いきれていない。それ故、冒頭の言葉はかなりの正当性を持っている。

 私が専門とする「開発教育」も、時に“答えのない教育”と言われる。参加型学習の手法を進めることの多いこの教育活動は、プロセスを重視するため、だいたいがオープンエンドで終わる。逆に言えば、「落としどころのない授業」とも受け取られ、現場では「締まりがない」と敬遠されてしまう。

 ますます複雑多様化する現代社会において、絶対唯一の「正答」を見つけることは難しい。というか、昨今のそういう状況を抜きにしても「正答」を見つけることは至難の業である。倫理の授業で習ったソクラテスやプラトンが生きた時代に抱かれたであろう問いは、
今に生きる私たちも未だ明確に答えることはできない。それが“至難の業”であることを裏付ける。
 そもそも「正答」とは存在するものなのだろうか? たとえそれがある一瞬においては「正答」だったとしても、それは常に批判的に検証されるべき「正答」であるのだと思う。だからこそ教育現場では「答えを出す」こと以上に「議論する」あるいは「思考する」プロセスに、より注力してほしいと思う。

 ただし、教育現場において答えを出す作業がナンセンスかと言えば、それは誤解である。無論、開発教育においても「答え」は出していくものなのである。

 開発教育は「答えを出さなくていい」といった消極的な教育活動では決してなく、むしろ「答えを出していく」積極的な教育活動であると自分は認識している。より正確に言えば、学習者が個々に「答えを持つ」教育であり、それをぶつけ合う教育活動であるのだと感じている。つまり、ファシリテーター(教師)が投げかける問いや仕掛け(アクティビティ)に対して、思い悩み、考え抜き、その過程で学習者はそれぞれに「答え」を持ち始める(たとえ、それが不十分な、曖昧模糊なものだったとしても)。その自分なりの「答え」を他の学習者と相互に共有しあう中で、それはさらに昇華した「答え」となっていく。

 矛盾した言い方だが、「正答」を求めて「答えのない」授業を繰り返し実践していく。その反復こそが、学習の深まりの源泉となっているのだと信じている。

【参考】
開発教育とは? http://www.dear.or.jp/de/index.html (開発教育協会HP内)

« 2010年1月 | トップページ | 2010年3月 »