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2010年5月18日 (火)

一年更新の結婚

 以前、このブログで「なんかこの夫婦嫌だわ…カサカサしてる」と書かれたことがあった(参照:「賢くなろう」)。正直、能天気なわたしでさえ結構凹むものだ(たとえ事実だとしても)。匿名性はネット文化のマイナス面だが、それ以上のプラス面があるのだから目をつぶらなくてはいけないのかもしれない。だとすれば、批判覚悟で性懲りもなく、また我が夫婦の“カサカサ”ぶりを書いてみようと思う。

 私事で大変恐縮だが、先週結婚4周年(5年目突入)の結婚記念日を迎えた。4年前の結婚式前夜、てんやわんやで徹夜したことが今でも思い起こされる。「結婚式」は私たち夫婦の“所信表明”であり、これからの生き様を象徴するものだと考えていたため、「フツーにやっては意味がない」と凝ったものにしたことが準備の大変さに輪をかけた。
 その結婚式のスタイルをあれこれと二人で話し合った結果、私たちは書類上で結婚を承認してもらうことにはあまり意味を感じず、親類・友人らにこそ結婚を認めてもらえれば十分と、人前式で列席者全員からの承認を得るという形をとった。だから、いまだに籍は入れていない。住民票上は、結婚当時、安定収入のあった妻を世帯主とし、私は「夫(見届け)」という記載になっている。つまり、法律上、私たち夫婦は「夫婦」ではない。

 私たち夫婦の出会いは「地球市民アカデミア」という国際協力/国際教育分野の人材育成を目的とする通年の講座である。はじめは受講生として関わり、その後、私は事務局スタッフとして、妻は運営委員として第11期(2004年度)まで企画運営に携わった。そこでは部落や在日の問題を取り上げることも多く、自ずと戸籍に対する問題意識が醸成されていったのだった。知った者の責任として「見て見ぬ振り」はできず、今の私たち夫婦のあり方に反映させているというわけだ。

 話はそれるが、そもそも私(岩手県出身)は人権教育、同和教育といったものをあまり受けた記憶がない。大学入学で上京してきて以来、特に西日本の人たちと話をしていると部落問題や在日問題に対する意識の温度差をかなり感じたものだった。それを裏付けるように、日曜日の朝日新聞で「人権教育 地域で濃淡 東北5県 推進計画なし」との記事が載った。文科省が2008年度に人権教育の新たな指針を示したことにあわせ、昨年1月にその活動状況について、都道府県の教育委員会などを対象に調査を実施したのだそうだ。その結果がまさに見出しの通りなのだ。それは同和地区の有無を示した日本地図とほぼ相関していた。
 私が生まれ育った地域はそうした地域だったから、(問題は見えないだけであったのかもしれないが)問題意識を持つことなく大人になってしまっていた。その人にとっての“当たり前”は「知る」と「知らない」とでは画然たる違いになる。当たり前の戸籍制度も実は東アジア特有のものであると知れば、見え方が違ってくるだろう。

 さて、話を戻そう。私たち夫婦の結婚式の話である。

 私たちには結婚指輪もない。では、何で契りを交わしたかというと、酒樽である。冗談で言っているのではない。本当にそうだったのだ。

 結婚式に向け、前年から飯能市にある酒屋「丸屋酒店」が主催する「一苗倶楽部」という集まりに参加していた。「一苗倶楽部」とは、地元農家や飯能の銘酒「天覧山」の酒蔵・五十嵐酒造などの協力を得、〈田植え→草刈り→稲刈り→仕込み〉の酒造り一連の作業に参加し、最後にその年の新酒をみんなでたしなむという上品な!?集まりである。一苗倶楽部が手塩にかけたお酒の銘柄は「飯能風土季」。会員限定であるため、出来上がる前から“幻の名酒”なのだ(笑)。ただし、実際、第一回「インターナショナル酒チャレンジ」に出品、純米酒部門にて銅メダルに選ばれたのだから、看板に偽りなしである。

 私たち夫婦は丸屋さんにお願いし、その“名酒”を樽酒にし、それで鏡開きをすることにした。列席者全員に酒樽へサインをしてもらい、さらにそれぞれの両親にサインを書き加えてもらった。その101名分のサインが我々夫婦の結婚承認の証である。それを確かめた上で、最後、二人の名前が彫り込まれた焼印をその酒樽に押した。

 その酒樽はいつもわれわれ夫婦の目が付くところに置いてある。そして、一年に一回、結婚記念日に私たちは“契約更新”をする。「本当にこの人ともう一年一緒にいたいのか」を互いに確か合う夫婦の儀式である。双方ともにOKであれば、結婚後に二人でつくった檜の大きなテーブルに、その焼印を押していく。4年前の結婚式を思い起こすように。
 おかげさまで今年も焼印をひとつ増やすことができた。
Img_0609

【参考】
・ 地球市民アカデミア http://academia-gc.org/
2008年度(第15期)で通年での講座運営を一時休止し、受講生募集を停止している。その代わり、有志がこれまでの修了生向けに年に数回の単発講座を企画・実施している。また、修了生が親世代になっており、「親子アカデミア」という親子で参加できる場を他の有志が自主的に企画してもいる。

・ asahi.com 「人権教育 地域で濃淡 東北5県、推進計画なし」
  http://www.asahi.com/edu/tokuho/TKY201005170137.html

・ 丸屋酒店 http://maruyasaketen.com/

・ 一苗倶楽部 http://maruyasaketen.com/hitonaeclub

・ 五十嵐酒造株式会社 http://www.snw.co.jp/~iga_s/index.html

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日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

ご結婚4周年おめでとうございます。先生達のような、契りもあるんですね。とりあえず結婚といえば婚約指輪しか思いつきませんでした。どんな形であれ、夫婦は夫婦なんですよね。(法律上違っても)。最近ですが、おそらく中国かどこかで裸結婚?とか呼ばれてたような、おそらく法律上の夫婦にはならずに、結婚のような形になる若者が増えているようなことを耳にしました。(うるおぼえなので間違ってるかもですが。)やはり式をあげるとなると費用もかかりますし、日本もそういった夫婦が今後増えてくるんでしょうか?

とりあえず、
先生の樽のテーブルが焼き印でいっぱいになった頃には自分にも妻がいることを願って寝ます。

おめでとうございます。

サルトルとボーボワールのような結婚ですね。
とてもお似合いなんではないでしょうか。

「かさかさ」でも「じっとり」でも価値とは関係ありませんし、気にすることは何もないと思いました。本人の感じ方の快・不快のみ大切にしたらいいような気がします。

NHKの「ゲゲゲの女房」を見ていると、かつての結婚観や結婚生活が出ていて、おもしろいと思いました。まさに「女房」のいた時代ですね。「妻」や「パートナー」は少なかったと思います。そして、主題歌のいきものがかりの「ありがとう」の歌詞も、これが今の世代の感じ方なんだろうなあと思って、これも興味深いです。
私自身はこのふたつの世代の谷間に咲く白百合?で、理解しがたさに苦しみもせず、好奇心のみ動かされます。

「夫婦は同じ価値観を持っているよりも、違った価値観を持っていながらも、同じ方向を向いているのが一番いい関係だ」というのをよくききますが、そうだろうなと思いますし、結婚は個人だけの関係ではなく「家族、親戚、友人、知人」なども含めた「星雲の衝突」?みたいなものかもねという思いも、(現在では理解の圏外かも知れませんが)、個人的には持っています。結婚は恋愛とちがって、社会制度だと思うからです。

また、宗教的な誓いが意味を持たない社会の場合、「届け」が意味を持つのでしょうが、法的なものも必要になる場合が起きると、なるほどここで必要になるわけねと思いますが、少なくともそれまでは問題にならないと思います。形にとらわれず段階にあわせて、理性的に対処すれば、(たぶん)大丈夫だと私は(かなり)信じています。

こんにちは。
夫婦別氏については自分も少し考えたことがあります。(今の私の範囲ですと)それは個性であり何て言うことはない一つの事象ではないかと思います。(少数派だとしても今の時代が価値観多様であるのであればなおさら尊重されるし・・少数派がいつ多数派になるかもわからないというのもある)
何て言うことはない、なんて考えると石川さんのご紹介はノロケにも思えなくもないですね(^o^)gemini
焼き印も指輪よりラブラブの証に聞こえてうらやましーし。

 のろけているつもりは毛頭ないのですが、人様からラブラブに見えるというのは夫婦として喜んでいいことなのでしょう。
 ただ、小さい頃はチャーミーグリーンの老夫婦のように絶対なる!と思っていたものの、現実にはケンカも多々あり。変に落ち着くより、それぐらいのほうがいいんでしょうね。人間だもの(あれ、相田みつをみたい…)。

私も「城山に桜を見に重箱を持ってきていた老夫婦」を若いころみかけて、「かくありたし」と思ったんですが、それはまったくかなっていません。(それだからこそ)今でも夢のように美しく存在しています。

ただ、夢は夢として、現実の中で少しずつ、わかってきたこともあります。例えば、

「人の幸福は見かけにはよらない(主観的なもの)」
「(幸・不幸は)切り取り方でなんとでも見える」
「(幸・不幸は)基本的には長く続き得ない」
「生き方の上手な人、へたな人がある」
「(幸福の)全体量はあまり差がない」
。。。というようなことです。

説明すると長くなるし、説明してもわかりにくいし、わかっても(主観的な実感なので)納得できないと思うので、ここでは書きませんが、

「まったく同じ状況でも(予想をはるかに越えて)感じ方は別々だし、個人のなかでも変化し続ける」

ということなどは、かなり一般性があるかも。


(何かを感じたり、考えたりする場合)見方の「倍率を換える」だけで別のものに変化しうるという実感がとても強くなり、良い悪いや好き嫌いや美醜や自他など、反対に見えるものも実はそこには明確な境目はなく、それぞれの視野の広さや都合のよさに合わせて各自がその時々に脳内でやってることのように思えてきました。そうした虚構の中で工夫して楽しめばいいのかなと。


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