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2010年6月

2010年6月25日 (金)

世界遺産“非公式”認定

 いい仕事をした後は、自分にご褒美をあげたくなる。自分にとっての“イイシゴト”とはたいてい講師依頼を受けたワークショップがうまくいった時のことなのだ。特に急いで帰る必要がないのに、“イイシゴト”をした後は、わざわざ410円の特急券を買い足してレッドアロー(西武池袋線の特急。全席指定)に乗りたくなる。そして、走り出した時に、夕日を見ながら缶ビールをクイッとやるのだ。走り出す前にプルタブを引き抜いてはいけない。その時間は余韻に浸るべきなのだ。量は500mlではなくて350ml。喜びは分散させてはいけない。間延びは幸福感を薄めてしまう。濃縮した時間の中で、至福を噛みしめなくてはいけない。

 昨日は浦和で丸一日のワークショップを行った。毎年、この時期に呼んでもらい、ボランティ向けのスキルアップ研修をお願いされている。毎年のように依頼を受けるので、同じことができないし、向こうの要求もだんだんと難題になっていく。
 4〜5年目となる今年のお題は相当に私を悩ませた。実践者、研究者の間でも結論が出ておらず、かつ、これからだって答えが出る類のものではない。禅問答のようなテーマだったといっていい。それでも、私なりに考え抜いて組み立てたプログラムだったので、いい時間を参加者の皆さんと共有できるのではないか、と半ば願望にも近いが、そんな予感を持つことはできていた。幸い、終了後に紙片に書いてもらった感想は概ね肯定的なものであった。イイシゴトであったと思いたい。

 これは、朝、会場に向かう時から考えていたことだが、もし、自分が納得のいく思いで今日の仕事を終えることができたのであれば、秋津の立ち呑み屋で一杯やろうと決めていた。我が家から浦和方面に向かうには西武線の秋津駅で降り、徒歩でJR武蔵野線の新秋津駅に乗り換えることになる。距離にして1kmとないであろう距離だが、これを「乗り換え」と言っていいものかが微妙ではある。だが、この微妙さが【秋津–新秋津】間を面白い空間に至らしめているのは間違いない。いつも行き来するたびに、「帰りはここであれをしよう、うふふ」と小さな悪だくみを誘発させる通りなのである。

 昨日の私の悪だくみは、フットマッサージと立ち呑み屋で「せんべろ」(千円でベロベロ)のゴールデンコース。身重の妻を待たせてのこの悪だくみは、後ろめたくもあるのだが、無性に立ち寄りたかったのだ。ちょっぴりの悪さであれば、つまみ食い同様、むしろビールもおいしく感じるものであり、許してもくれるものなのだ。妻には、(家計のためにも)イイシゴトをしたのだから、ご褒美なんだと許してもらえるはずだ、と思い込むことにした。

 世間一般的な終業時間である17時をまわっているとはいえ、夏至を終えたばかりであるから、日はまだまだ高い。そんな時分から飲むアルコールは格別においしい。
 フットマッサージの20分コースを終え、秋津駅の真ん前にある、モツ煮が売りらしい立ち呑み屋に入った。秋津には「野島」という人気の立ち呑み屋があるが、あえてまだ入ったことのないこちらの店にした。店内には、「東村山ご当地グルメ」の文字が踊っている。今流行りのB級グルメだ。“A級グルメ”と言われるよりおいしそうに聞こえるのだから不思議なものだ。

 私は、「ビールにモツ煮、それにレバーとねぎ間を塩で」と注文する。Img_0663 立ち呑み屋としては至極まっとうなオーダーなのだが、場(店)に慣れていない私の注文はどことなくぎこちない。カウンターに10人ほど並んだ客の8割方が、ホッピーを飲んでいるのも私の肩身を狭く
させた理由かもしれない。勝手な推測だが、長年飲み過ぎて、これ以上プリン体を体内に摂り込んではいけないと医者に言われた面々の、それでも飲みたい一心に、唯一残された選択肢がホッピーなのか、少しでも安く長く飲みたいがため、つまりここ立ち呑み屋にいられる口実がホッピーというやつなのか、いずれにせよ、こよなく立ち呑みを愛する人たちがカウンターを占拠していることにはちがいない。

 私を含め、ネクタイなんぞを締めている者はおらず(いずれ「なぜ、ネクタイはビジネスマンの世界標準になったのか」をブログのテーマとして書きたいと思う。乞うご期待)、解放感に満ち満ちて、みんな思い思いに呑んでいる。
 店に入るなり、「ネギ少なめモツ煮一丁!」とオーダーが入る客。同じモツ煮なのにひとりだけ豆腐に楊枝が刺されて差し出される客。どちらも常連なのだろうが、それぞれにこの空間を楽しむ流儀を持ち合わせている。
 「中(なか)、ちょうだい!」とは、ホッピー用の焼酎をおかわりする際の合い言葉。気っ風のいい言葉に思わず焼酎が余計に入る。「おいおい、社長。そんなに入れてくれちゃ〜、酔っぱらっちゃうじゃねぇの」と、注がれた方はなんだか嬉しそうだ。あきらかに社長でないその店員を“社長”と呼んでしまうのも、気分で多めに焼酎を入れるのも、立ち呑みで交わされる心憎いコミュニケーションである。

 私の隣りを陣取ったその人は、「最近はほんと仕事が半日ばっかで、お金になんないよ。今日も6000円にしかならなかったし」と続けて“社長”にぼやいている。
 日雇い労働者と思われるその人は、もしかすると日々の生活が楽でないのかもしれない。それでもいつも立ち寄るこのカウンターで、労働後の汗をシャワーで洗い流すが如く、きれいさっぱりにリセットして、帰路についていっているのだろう。
 ネギ少なめのモツ煮を食べる人も、豆腐に楊枝を刺す人も、同様に一日の最後を各々の作法で締め、また新鮮な気持ちで明日を迎えるだろう。それは礼拝堂やモスクの空間となんら相違あるものではない。大仰かもしれないが、立ち呑み屋には、人が幸福感を感じるための崇高な空間デザインが施されており、日本が世界に誇れる文化遺産だと言えなくはないだろうか。Img_0664_2
 私はユネスコに断りなく、勝手に立ち呑み屋を世界遺産に認定することにして、30分といなかった立ち呑み屋を後にした。

2010年6月20日 (日)

世界で1番幸せな国になるために!?

 参議院議員選挙の投票日が7月11日に決まった。
 昨年の劇的な政権交代から、鳩山政権の凋落。かたや自民党も要領を得ず、他党も五十歩百歩である。皮肉だが、「まったく先が読めない」という意味で、非常に興味深い選挙になりそうだ。
 自分の一票には意味があり、“投票しがいがある”と思ってくれれば投票率が上がるのだが。

 自分に関して言えば、自慢していいと思うのだが、どんなに小さな選挙でも棄権したことがない。厳密に言えば、1度だけ投票できなかったことがあるのだが、それは致し方のない、まっとうな理由だと思っている。いやいや、それはあくまで主観だから、自分で納得している欠席事由だと断っておいた方がいいだろう。

 その日、自分は『非抑圧者の教育学』で有名なブラジルの教育学者パウロ・フレイレの追悼イベントに参加し、終了後、急いで帰宅したのだが、わずか5分ほど投票時間をまわってしまっていた。当時はまだ、今ほど期日前投票の融通が利かなく、投票時間も5時とか6時までだったと思う。
 今は昔に比べ、投票しやすくなったのだから、もっと投票率が上がっていいようなものだが、問題はそこではないのだろう。繰り返しになるが、「投票したい」「託したい」と思わせる魅力的な政党がないのが、その根本的な理由にちがいない。

 さて、自分の中でもまだ「当確」があるわけではない。これからその見立てをしなければならないのだが、各党のマニュフェストやCMなどが出てきているので、ぼちぼち吟味していこうと思う。

 で、日本対オランダをテレビで観ていたら、さっそく自民党のCMに出くわした(かなりの視聴率になるだろうから、このCM枠はそうとう値が張ったことだろう)。
 それにしても、いつ見ても谷垣さんは冴えないこと極まりない。これもまた主観で本当に申し訳ないのだが、自分は谷垣さんにまったくオーラを感じることができない。見ていてかわいそうになってくるくらいだ。その不足分をカバーすべく、一生懸命にやっているのは分かるのだが、空回りしてはいないだろうか。
 ある研究によれば、「明確な判断基準がなく、選挙に関心が薄いときは、いかに候補者が『有能そう』に見えるかが影響を与える」のだそうだから、今の状況を考えると自民党は苦戦が予想される。

 それに加え、キャッチコピーがなんとも解せない。CMでアピールしているのが「日本がまた世界で1番幸せな国になるために」である。

 昨年、サステイナビリティ(持続可能性)をテーマにしてきた私のゼミでは『世界一幸福な国 デンマークの暮らし方』(PHP新書、2009年)をテキストのひとつとした。社会が持続可能であるということは、幸福な状態が定常化していることが前提だと考えたからだ。
 幸福度に関しては最近いろいろ言われるようになってきていて、その指標もいくつかある。その度に“世界一幸福な国”がさまざまに挙げられるのだが、北欧の国や中南米の国が上位にくることが多い。それらは、あえて言えば恣意的な何かしらの指標で数値化されているので、客観的ではあるのだろうが、絶対的なものではない。ただ、そこに住まう人々が主観的に「幸せだ」と思う感覚が必要条件としてはある。それが世界で一番であるかどうか、当の本人たちにとってはどうでもいいことなのである。

 翻って自民党のCMでは、「世界一の幸せ」を絶対的な価値として掲げている。あたかもそれが崇高な理念であるかのように。
 しかし、その言葉からにじむニュアンスは「他を蹴落としてでも自分たちは幸せになろう。世界の誰よりも幸福になろう」といったものだ。少なくとも私はそういう印象を受けた。そのメッセージは、「理念」を背景にしたものではなく、「センス」(しかも「ナンセンス」)に裏付けられたものであろう。
 勘違いしないでほしいのは、今求められるのが、ピラミッドの頂点に立つことではなく、そのピラミッド構造こそを是正し、公正さへとならしていくことである。自民党にはその視点が全くないことを自らのCMで露呈した。

 その点では、菅連立内閣のほうに軍配が上がる。彼らが謳った「最小不幸社会」とは、他者との競争という視点ではなく、自分たちへ課した挑戦という位置づけだからだ。

 もし、自分が蓮舫だったら自民党にこう言うだろう。
「どうして1番じゃないといけないんですか? でも、2番でもいいというのもおかしな話です。順位じゃなくて、自分たちがどう思えるかじゃないですか」

【参考】
■自民党HP:「『いちばん』の国づくりを訴えるテレビCMが完成」
 http://www.jimin.jp/jimin/daily/10_06/16/220616a.shtml
■東大法・蒲島郁夫ゼミ『選挙ポスターの研究』木鐸社、2002年
■朝日新聞夕刊2010年6月19日「今解き教室」

2010年6月17日 (木)

レインボーパラソル

 梅雨入りした。水不足を解消する意味では、必要不可欠なものと理解はできるのだが、5月のあの爽やかさの後だとどうしても受け入れがたい。しかも自分は汗かきときた。いや、前はそうでもなかったと記憶している。
 担当医からは「病気の治療で足の汗腺がつぶれていて、その分を他のところで代替して機能させている」と聞いたことがある。つまり上半身で下半身分の汗を出そうとするので、結果、びっしょりとなってしまうのだ。外に出るたび、じっとりとインナーやシャツが汗で滲むのには閉口してしまう。
 気持ちの悪いこと、この上ない。あ〜、梅雨よ、早く明けてはくれまいか。

 梅雨とは傘の季節でもある。
 今の天気予報の精度はかなり高いものの、入梅してしまっては、朝に「晴れ」と聞いても鵜呑みにはできまい。常に傘は手放せない。
 ただ、多少の雨なら、傘をさす面倒さよりもいっそのこと濡れてしまった方がいい。自分の場合、冬であれば、どうせ外に出ている時間は少しなのだから(ほとんど電車の中か室内にいるので、外気に触れるのは一日の中でほんの数分にすぎない)、かさばるコートは、極力、着ていかない。そんなんだから、傘は折りたたみのコンパクトなものに限る。

 ある日、妻が真新しい折りたたみ傘を差し出し、「使わない?」と気前よく言った。自分が今使っているものより、さらにコンパクトな上に、スタイリッシュだ。嫌味のない水色のカバーで、取っ手のつくりもしゃれている。
 シンプルなデザインを好む、まさに妻好みの傘なのに、なぜ「くれる」と言うのだろう。明らかに怪しい、おかしい、何かある。
 おもむろに傘を開いてみると、その真相が判明した。外見からは想像だにしないレインボーカラーの傘だったのだ。彼女がもっとも好まない下品な配色だったのだ。彼女だけではない。さすがの私も人前で使うのははばかれる代物だ。

 彼女はそのレインボーパラソルを職場近くの百貨店で買った。そして、雨中、それを差そうと天に向けたところで反射的に引っ込めた。すっかり水色だと思った傘が、まぶしいぐらいのレインボーだったからだ。結局、彼女はそれを差すことなく、家路についた。

 それ以来、自分はまったく使わないくせに、時折ふざけて、出がけの慌ただしい私にその傘を差し出す。どうせそんな傘は差さないのだから、「からかうんじゃない」という目で毎回拒否していたのだが、ある時、面倒になって持っていったことがあった。すると不思議なことに、持っていった日に限って、雨が降らないか、あがってしまう。
 いつしかそれは夫婦の間のジンクスとなり、「レインボーパラソルを持っていく日は雨が降らない」法則が確立した。

 そして、今日。
 朝方には屋根がうるさいくらいのざんざん降りの雨だったのに、私が出ようとする時には弱まり、念のために持っていったレインボーパラソルは、一日、開くことはなかったのだ。

 それでもジンクスはいつか必ずやぶれてしまう。その時が来たら、雨で沈んでいる心に堂々と「虹」をかかげようと思う。

 “No rain, No rainbow”

 これはハワイの言葉だそうだ。彼らはしゃれたことを言うもんだ。

 雨がなければ、虹はかからない。

2010年6月15日 (火)

岡田ジャパンは対話ができる

 単純なもので、にわかに岡田ジャパン、つまりサッカーワールドカップ・日本代表への期待度が高まってきた。オリンピックやワールドカップはお祭り的要素もあるのだから、一喜一憂するぐらいがいいのだろう。また、「4年に1度」という微妙に人間の心理をくすぐる長さもお祭り気分を演出している。

 我が相方は、ふだんスポーツ中継もスポーツニュースも、ましてや新聞のスポーツ欄なんかまったく見向きもしないのだが(これに関しては話がまったく通じず、夫婦の会話が成り立たなくて淋しい)、そんな彼女でもさすがに4年に1度はほんの少し興味を示す。前回ワールドカップでは、とりあえずブラジルのロナウジーニョの名前だけは覚えた。今回は覚えたのはカメルーンのエトー選手である。ただ、言い慣れない彼女がそれを言うと「江藤選手」になってしまい、日本戦では非常に紛らわしい。

 似た話が今日聴いていたラジオでもあった。とても微笑ましい話である。サッカーにあまり興味のない小学生の息子が、ニュースで繰り返される「本田、先制!」との実況の声を聞いて、親に「どこの学校なの?」と訊くのだそうだ。息子には「本田、先制!」が「本田先生」に聞こえたらしい。

 さぁ、そんな関心も本来持たないはずの人までも間接的に巻き込んで、オランダ戦を迎える。土曜の夜のゴールデンタイムとあって、視聴率はかなり上がるだろう。日本中が視線を向けるその試合で、岡田ジャパンの真価が問われることになる。

 昨日の勝利は、前回、ドイツ大会でオーストラリアに逆転負けした一戦としばしば比較されていた。
 前回は中田英寿の個性があまりに強く、チームがひとつにまとまらなかった。結果、オーストラリアに同点に追いつかれた後、残りの時間の戦略に対する意思統一が図れなかった。今回の日本代表はほとんど期待されていなかったが、対話のできるチームである。残り10分は、テレビで観る私たちのヒヤヒヤとは裏腹に、「チームの状況は非常に冷静だった」とのコメントが何人かの選手から聞かれた。ブブゼラで声がかき消されても、ふだんから対話を重ねてきたチームにはつながる「声」があるのだと思う。

 対話とは、「自分の価値観と、相手の価値観をすり合わせることによって、新しい第三の価値観とでもいうべきものを創り上げること」(平田オリザ『対話のレッスン』p.155)だというのであれば、まさに“第三の価値観”を次のオランダ戦で見せてほしい。「それができるのでは…」と思わせてくれる魅力が岡田ジャパンには出てきたと思う。

 日本の社会には、あるいは学校にはまだまだ対話が足りない。それが現代の抱える諸処の問題を引き起こしていると自分は思っている。その解決のヒントとして、岡田ジャパンの23人がひとつのロールモデルとなってくれることもあわせて期待したい。それが叶えば、かの小学生に「本田先生」と聞こえたのもあながち嘘ではなかったと言えるのだ。

【参考】

  • 朝日新聞朝刊 2010年6月14日 「選手だけで議論1時間『腹割った』 今夜カメルーン戦」 http://www.asahi.com/sports/fb/TKY201006130299.html
  • 平田オリザ『対話のレッスン』小学館 2001年
  • 北川達夫/平田オリザ『ニッポンには対話がない 学びとコミュニケーションの再生』三省堂 2008年

2010年6月 8日 (火)

女性トイレの怪

 ブログで前に紹介した「両親学級」が昨日で終了した。最終回は「パパも育児をしよう」がテーマだったので、夫婦二人で参加するところがほとんどだった。その最終回のハイライトは、妊婦シミュレーターを使っての“パパの妊婦体験”である。Img_0634_2 日々、身重になっていく姿を見て、大変そうだと思ってあげてはいたが、あくまで「思って“あげていた”」ことに気づく。想像以上に体への負担がある。
 特に寝る体勢が大変で、とても仰向けで寝られたものではない。自分のお腹の上に直接スイカを乗せたとでも思ってもらえたら想像できるだろうが、そんな状態で一晩眠れるわけがない。
 体験後、未来のパパ候補たちは異口同音に「妻の大変さが分かった」と話していたので、きっとこれまで以上に妻へ優しさをみせることだろう。ただし、「妊婦」を体験したこと以上に「女性」を体験したことに興味津々だった男衆が多く、そのインパクトばかりが強く残っていないか心配ではある。シミュレーションをする前、講師の方が「たいがいの男性が妊婦シミュレーターをつけると、まず胸を揉んでみるんですよ」と半ば注意とも受け取れる話をしていたが、たしかに半数以上はそうしていたように思う。男の悲しい性である。かく言う私もその張本人であるのだが。

 さて、最終回の締めくくりは「先輩パパママとの交流会」である。彼らの出産に至るまでの体験談を聞いたり、実際に赤ちゃんを抱かせてもらったり(次々と抱っこにまわされる赤ちゃんは少々残酷な気もしたが)、親になることを自覚するための一種の儀式めいたものとして貴重な時間だった。
 最後には、先輩パパママからエールとしてコメントをいただいたが、「今は二度とない時間なので大切に過ごしてほしい」とのメッセージが多かった。それには二つの意味があって、ひとつはこの世に生まれ来る赤ん坊に対し、愛情を夫婦でともに育む醸成期間ですよ、ということ。もうひとつは、子が生まれてからは子どもから目が離せず、夫婦二人でゆっくりなにかしようなんてことは考えない方がいい、今のうちに旅行にでも出かけておいた方がいい、という意味なのであった。

 そんな皮肉は別の人たちからもちょくちょく聞いていたので、妻のつわりがおさまった5月中旬、コンサートに出かけることにした。映画やミュージカルは二人とも大好きなので行くことはあったが、コンサートに行くなんてことは付き合っていた時代にもなかったことだ。ただ、つわりがあけたばかりの彼女にはほどよかったし、何より胎教になるだろうとチケットを確保しておいた。

 向かったコンサートは、東京国際フォーラム・ホールA で行われたLive Image(ライブ・イマージュ)。
 ヒーリング系、イージーリスニング系の音楽が流行りだし、それ系のコンピレーション・アルバムが売れ出したのが10年ほど前。その走りが、葉加瀬太郎の「エトピリカ」や「情熱大陸」を収録したアルバム『Image』で、このジャンルでは異例のミリオンセラーを記録した。その勢いに乗って(だと勝手な推測だが)コンサートまでやっちゃえと開催し続け10年。今年は運良く、その10周年記念コンサートで、揃ったメンバーも豪華でベストであったように思う。

 思い起こすと、自分たちが付き合い出したのがやはり10年前。そして、はじめて私が彼女にあげた贈り物もやはり『Image』のようなイージーリスニング系のコンピレーション・アルバムで『Feel』というものだった。(まだ正式に付き合ってなかったので、当たり障りのないCDにしたという記憶がある)
 「なんか縁があるのかな。偶然じゃない気がするよねぇ」なんて、ちょっとだけセンチメンタルな気分になる。ほんの10秒間だけだけど。

 10秒も経つと「コンサート始まる前にトイレ行ってきてもいいかな」と妻。センチメンタルは生理現象を打ち負かすことはできなくなっている。10年という時間はすべてのエゴを可能にしてしまうかのようだ。
 もちろんそれを「ダメだ」という道理も勇気もなく、「行ってきていいよ」という(優しい夫風の)僕。しかし、開演まで10分ともないのに、女性トイレには長蛇の列、いや、「長蛇」というより「長竜」である。とうてい開演までにトイレにすら辿り着かない長さの列になっている。それを目にすると、「いいよ」と言ったことが無責任であるかのようにも思えてくる。

 とりあえず、私だけが席に行って待っていることにした。だが、案の定、開演時間になっても妻は来ない。彼女が行きたいと言って来たコンサートなのに、当の本人がいないのでは、かわいそうに思えてきて気が気でない。幸い、主催者もそれを見てかどうか知らないが、若干、開演時間を遅らせてくれていた。そして、さぁ開演だと暗転する直前、やっと妻が指定の席にやってきた。
 あれだけの列の女性たち全員が、あんな短時間に用を足したとは絶対思えないので、妻は断念して列を抜け出し、せっかくのコンサートだからと戻ってきたのだとはじめは考えた(その時点で、「センチメンタル<生理現象」であったのに、「生理現象<コンサート」であることに少しショックではあったのだが…)。しかし、平然と「用は足してきた」と言う。聞けば、「開演5分前」のアナウンスがあった途端に、するすると列が急速に進み始めたのだそうだ。しかも、抜ける人はほとんどなく。う〜ん、女性トイレの怪…。

 その謎に対する私の推測はこうだ。まず、これは男性便所では絶対にありえない現象である。なぜなら、男性便所では背後からのプレッシャーが常にある。そこでモタモタしようものなら、「う、うん」と咳払いや「チッ」とか舌打ちが始まる。男性は便所ですら「戦場」にしたがるのだ。なんと悲しいことだろう。気が休まる暇がない。
 一方、女性は誰の監視下にもない自由な空間を謳歌できる。そこで化粧をしようが、メールを打とうが誰からもとやかく言われることはない。さっきまでは長蛇の列の一員だったのに、トイレに入ればおかまいなしである。
 つまり、誰かの「目」があるない次第なのではないかと思う。

 イギリスの哲学者、ジェレミ・ベンサムは「パノプティコン」と呼ばれる刑務所を設計した。パノプティコンは全展望監視システムのことであり、真ん中に看守塔を置き、その周りを取り囲むように囚人たちの個室が配置されている。実はその個室には窓が2つしかなく、ひとつは外を、ひとつは看守塔の方を向いている。個室から唯一見えるのは看守塔であるが、それも外から入る光のせいで、看守塔に本当に看守がいるのかいないのかさえ、判別がつきづらい。そんな設計になっている。
 これはつまり、看守塔に人がいようがいまいが、常に監視されている心境に立たされるデザインなのだ。最小人数で、多数の囚人をコントロールできる秀逸な!?デザインなのである。だから、囚人たちは24時間“見えない看守”に脅かされることになる。

 学生時代、交通量調査のバイトをしたことがあるが、会社の正社員の人に「時々、車でまわって、ちゃんとやってるかチェックするから」と釘を刺された記憶がある。コンサートスタッフのバイトでは、「バイトはステージに背を向けて、観客を見るように。一度でも前を向いたらバイト代は払わないからな。上からは全部見えてるんだぞ」とも言われた(それでもチラ見してマイケル・ジャクソンやマドンナを見たもんだ)。これらは“見えない看守”と同じ原理で制御しようという魂胆である。言う方は都合がいいだろうが、聞く方は高圧的な感じがして、あまり心地がいい気はしなかった。
 あるいは、子どもに言い聞かす際、「お天道様が見てるよ」とのフレーズを日本ではよく使う(今では廃れてきてるのかな?)。美しい日本語のひとつであるとは思うのだが、子ども心には大人の都合よさも見え隠れした。これももとはパノプティコンと同じ発想である。
 結局、人は外的要因の影響はたやすく受けるものだが、内的要因によって自らの言動を律していくのは容易なことではない。そのために“見えない目”を利用することを古今東西でしてきたわけだ。「お天道様」と崇めることにみられるように、宗教はそういった装置のひとつであると言える。

 さて、女性トイレの怪。どうしてスピードアップを図ろうか。
 ここは思い切って、中国式に倣い、仕切りを取り払った設計にしてみてはどうだろう。男性便所同様、背後の他者の目が有効に働くであろう。
 いや、そもそも「化粧室」と言っているぐらいだから、そこでゆっくり化粧ぐらいさせてあげてもいいだろう。幸せな気分でまた彼氏のもとにもどるのであれば、それもまたよしである。いずれにせよ、5分前には自動的にスピードアップすることだし。
 生理現象に勝るものは結構世の中にはあるのである。そうした価値観も大切にしていきたいものだ。

【参考】
・グーグルアースで見る全展望監視システムの刑務所いろいろ
http://web-marketing.zako.org/google/google-earth/panopticon-prisons-google-earth.html

2010年6月 4日 (金)

8ヶ月以上宣言

 追われに追われていた原稿がとうとう脱稿した!(8月上旬に『開発教育で実践するESDカリキュラム―地域を掘り下げ、世界につながる学びのデザイン』のタイトルで発行予定(共著)。乞うご期待!)。脱稿した時の気分は本当に爽快だ。高校生の時、期末テストを終え、校舎を出た時の気分がまさにそれだった。快哉を叫ぶとはこういうことを言うのだろう。
 以前にも書いたが、遅筆である私にとって、脱稿まではまさにフルマラソン完走の如くである。いや、ゴールがまったく見えないのは一緒だが、一歩一歩踏み出して、確実に前に進んでいる感覚があるだけフルマラソンのほうがいいのかもしれない。私の原稿の進み具合は、水前寺清子の如くである。三歩進んで二歩下がる。本当に非効率極まりない。

 さらに悪いことは波及するもので、「早く書かねば」という焦りだけが先立ち、他のことも手につかない。趣味のジョギングは半月ほどまったく走る気が起きなかった。せめてどれかひとつだけでもやればいいものの、不思議なことにどれも手つかずのまま、一日を終える。そして、ほぼ同じように後悔する日々が繰り返される。「1日1ページだけ書いていれば7ページも進んでいたのに」と週の終わりにふりかえると、「そんなことも俺はできなかったのか」と自己嫌悪に陥るが、ソロバンどおりに動けたら、人間、苦労なんかはしないのだ。こういう時は安易に相田みつをの「にんげんだもの」の詩にしがみつく。自分の弱さが「だって人間なんだも〜ん」で許されてしまう本当に都合のいい詩なのである。少なくとも私にとっては。

 ただ、原稿を抱えている時、唯一、抜群に発揮できた能力がある。空想力だ。あるいは妄想力、現実逃避力と言い換えていいかもしれない(笑)。
 あれこれ現実逃避で空想をめぐらせていると、ブログに書きたいネタがどんどんと膨らんでいく。「冷やし中華のナゾ」「無洗時代到来!?」「五重塔とムササビ」「おもてなしのデザイン」「ら抜き言葉、いいではないか」「由紀夫君が悪いのか」…etc
 アイデアだけは貯めておいた。今度は皆さんの空想力の出番である。私が上記のテーマで何を書くのか、お楽しみにしてもらえたら幸いだ。私は遅筆改善のトレーニングも兼ね、これからは精力的に書いていこうと思う。週に2本ペースは堅持したい。

 宣言だけは潔くした。あとは読者の皆さんからの支持率が落ちないよう、8ヶ月以上は踏ん張りたいものだ。うちの窓にはしばらくヒヨドリは寄ってこないことを願いたい。

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