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2010年8月 2日 (月)

パリ20区、僕たちのクラス

 8月に埼玉で行われる「国際理解教育セミナー」に講師として呼ばれている。私の役目は「参加型授業のコツ」を体験を交えながら話すことらしい。講師依頼をするほうは私をそういった類の専門家として見てくれているのだから、もちろん、その自負を持って面前に立つつもりである。それでも、こうした機会をいただくことに感謝するのは、専門とされるテーマに対し、改めて対峙できるということである。
 今日は池袋のジュンク堂本店へ行き、2万円以上も参考となりそうな文献を購入してきた。これからそれらを渉猟し、ゆっくりと自分の考えを再整理していきたい。どうしても忙しさにかまけて、我々大学教員のシゴトである“探求する”ということを雑然とした日常の中にやりすごしてしまうが、こうした機会でも与えられないと、意外にゆっくり思考することなどないのである。

 そんなことを思うと、私は、骨髄移植を受けるために入院した半年間の豊かさを思い出さずにはいられない。なんとか「生」をつなぐことができ、退院した私に対し、決まって「大変だったね」「よく頑張ってたね」と激励されたのであるが、私には大変だった思いもそれほどなかったし、頑張ったつもりもない。そんなことを言っては、今、同じ病気に罹り、闘病している方には無礼となり、軽んじているように思われるかもしれない。快復したからこそ、苦しいことは忘れ、楽観的に物が言えるようになっただけなのかもしれない。
 そうだとしても、私がその半年間の闘病期間を幸福感に満ち、充実感をもって送られたのは、“思考する”時間が十分にあったからである。それは、死が一時ではあったが迫ってきたからこそ、誘発された環境であったのかもしれない。たしかに、そこで自分の人生をふりかえり、またこれからの自分の人生に思いを馳せ、深い気づきの到達点に至ることができた。それは偶然のことではない。ただ、九死に一生を得た境遇にいたからでは決してなく、単に十分に思考する時間に恵まれただけなのである。
 私がその時、強く実感したことが、現代人にはあまりに思考する時間に欠乏しているということである。心の貧困は、そこに起因しているのだと私は確信して疑わない。

 先週木曜日、私が担当している講座「国際開発教育ファシリテーター養成コース」の現7期生2名と神保町にある岩波ホールで『パリ20区、僕たちのクラス』を観た。これは、パリ北東部20区に実在するフランソワーズ・ドルト中学校の全面協力をとりつけ、演技経験のない24名の生徒に対し、1年間のワークショップを続け、その上で撮った“ドキュメンタリーのような”映画である。その手法含め絶賛を浴びたローラン・カンテ監督は、第61回カンヌ国際映画祭のパルムドール(最高賞)を受賞することになる。

 前評判の高さにかなり期待して観たのだが、フランス映画特有と言っていいのだろうか、伏線らしきものが明快につながっていくわけでもなく、やや混沌としたままストーリーを閉じてしまった。鑑賞後、喫茶店(道を挟んで向こう側の小道にある「さぼうる」は、雰囲気があって感想を言い合うにはとても良い。作家や文化人が好む空間らしい)に入り、3人で感想を言い合ったが、3人とも要領を得ず、歯切れが悪い。映画では、教師と生徒がだんだんと対立していき、教室は険悪な雰囲気になっていくのだが、不自然にも校庭でサッカーを楽しげにしあうラストとなる。場面、場面がどうしてもつながっていかない・・・。

 どうもこの映画にストーリーを求めていこうとすることには無理があるようだ。これはフランス映画特有の「混沌」をひとつの仕掛けとして思索を誘うものではなく、教育現場そのものの実際が、こうしたつながりあわない個々の現象の連続なのでないだろうか。フランス映画だから分かりづらいのではなく、教育現場であるから分かりづらい、としたほうが合点がいく。それがローラン・カンテの表現したかったことなのではないかと今になって思う。

 映画のパンフレットには、教育学者である佐藤学氏(東京大学大学院教授)が寄稿している。その最後を抜粋する。

 教育の真実は、答えのない問いの探求の中にあり、埋めることのできない溝を乗り越えようとする教師と生徒の協同の痛ましい問いの中にある。その真実をこの映画は他のどの映画よりもリアルに私たちに提示している。

 私がこの映画を観て、唯一、明確に感想として言えたことが、教師フランソワの人間臭さである。それは、日本の教育現場からすると教師の振る舞いとして不適切にも思えるものかもしれないが、教師も一人の人間であって、必至に煩悶している姿には甚だ共感を覚えた。不器用にも見えたが、彼は煩悶の中に思考していたのだと思う。
 それに比して、日本の教育現場はあまりに時間に追われている。教材研究すらする時間が確保できないと聞く。それは果たして健全であるといえるだろうか。もっと静かにゆったりと思考する時間が教師にあってほしい。そうした時間の中から紡ぎだされた言葉には、子どもたちの心を揺さぶる何かがあると思う。

 私は明日から1週間マレーシアに行ってくる。仕事なので完全にゆっくりするわけにはいかないが、イバン族の住むロングハウスでゆるい風に吹かれながら、あれこれふりかえる時間をできるだけ持ちたいと考えている。

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コメント

木曜日に行ってたんだ、自分はその前日に観たよ。
娯楽活劇とは違うんで、軽快なテンポで進むというもんではないけど、それなりに面白かったと思うけど。

サラワクに行くんだ。荒川大先生の御引率かな。

「パリ20区」観ようと思っていたので、東京に出てきた
ついでに観ました。

意外にも驚いたのは、「え、これで映画になるのか~」
ということでした。

数年前、自分が体験した中学での経験とかなり
似ていました。その点、リアルだと思います。
対立しているようでいて、頼っているようなところ
もある関係だと思います。

もっと良い関係が作れると思いますが、ああなって
しまう要素もたくさんあったように思います。
ちょっと途中で寝ちゃうぐらい「平凡な」感じがしました。

私は女生徒を三人称の「彼女」と呼んだところ、そんな
日本語はないと、訂正を求められ糾弾されたりしました。
今となれば、なつかしい思い出です。


このブログを見て、8月5日午後から少し時間があったので観てきました。結構年配の方が多かったですね。女性の方が数からすると多いのかな?
教育現場に携わっている人間としては、フランスと日本との文化の違いに驚いた。成績判定会議に生徒代表が参加するのはありえない。今年は42人から48人くらいの人数のクラスでの授業をやっています。高校の1,3学年はティームティーチングなので、複数の教員が入っての授業。中3はひとりで教えていますが、結構発言があり、楽しんでやっています。高校生は、時々小論文やグループでの活動をやっています。フランスの場合、植民地支配があった関係で移民の子弟が学校にいました。生活環境が多様な生徒たちと対応するのは、現場としては気を遣うところです。

確かに成績会議に生徒の代表が入っているのは
驚きで、フランスらしいですね。

「子どもの権利」ということを考えると、これは
確かにありかなと思う反面、情報が安易に、また
変形して伝わることも充分あるわけで、危険でも
ありますね。ただ、そういう場合でも、誤解は言葉
を尽くせば解けるはずだという信念もあるのかなと
感じました。

日本もフランスに似た状況が広がるだろうとも
思っています。準備や訓練が必要になるように
思います。

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