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2010年8月

2010年8月27日 (金)

「全日本冷やし中華愛好会」再結成!?

 仕事を終えて、とっぷりと日が暮れた夜道を帰ってきた。もうすっかり秋の虫が我が物顔で鳴いている。視覚が十分に働かない分、聴覚が意気揚々としているようだ。

 日中は「今日は35℃以上になる予報なので熱中症になる恐れがあります。こまめに水分をとりましょう」と徒に親切な市の屋外放送が聞こえてくるが、秋は確実に近づいてきている。ただでさえ火照っている我が妊婦は、夏と秋が同居し始めたことにすこし安らぐ思いではなかろうか。



 そうは言っても過ぎ去って行くと思うと、この猛暑にも同情したくなる。いや、やはり猛暑は早く過ぎ去ってほしいと思っている人がほとんどか。それでも、 「夏」という季節には、日本人であれば、賑々しさ、切なさ、ほろ苦さ、自由さ…等々、何かしらの感傷を抱き、このぐらいのタイミングでとても名残惜しいものに感じてくるのではないだろうか。



 さて、唐突だが、これから冷やし中華について書こうと思う。それは冷やし中華が“夏の風物詩”だからではない。むしろ、“夏の風物詩”扱いされることに異議を唱えたいからだ。


 私には“三大夏感知物”というようなものがある。つまり「あ〜、(日本の)夏だぁ」と感じさせる(もちろん独断と偏見の)代表格が3つあるのだ。それが、そうめんとカルピスと蚊取り線香。


 そうめんのスルスルひやっとした触感。カルピスのどんな飲み物にも真似できない清涼感のある味。なぜか「蚊を獲る」という本来の目的を忘れさせるような紫煙の漂いと芳香(と思わない人もいるでしょうけど)。その年によってどれが最初か分からないが、そのうちどれかを五感で感知した時、私は「夏到来!」 と思うのである。決して「冷やし中華始めました」などという下世話な言説が街の中華屋さんに垂れ下がった時なんぞではない。


 ちなみに、今年はGW中の少し気温が上がった日の昼に「そうめんでも食べたい気分だねぇ」と妻と話し、スルスルひやっとした時が今年最初の「夏到来!」であった。
 実は、その時にこのテーマでブログを書くつもりが、気づくと夏の終わりになっている。光陰矢の如し…。



 で、冷やし中華だが、酢好きの私は冷やし中華をこよなく愛している。言うに及ばず、春夏秋冬関係なく、食したいのである。が、ある時、一瞬にしてスーパーの店頭に並び、食堂のメニューに名を連ね始める。そして、またある一瞬に姿を忽然と消すのが冷やし中華の生態である。



 なぜ、冷やし中華は夏にしか食べることができないのか???



 「そりゃそうだよ、石川の親分。だって、冬に冷たいもんなんぞ誰も食べたかないですよ」と八っつぁんはそそっかしく言うかもしれないが、「おい、ハチ。だっ て、アイスは冬でも売ってるじゃねぇか。ありとあらゆる野菜や果物がいつでも喰える時代に、なんで我慢をしなくちゃいけねぇんだ!」とべらんめぇ調で言い 返したくなる。

 
 さぁ、「なぜ、冷やし中華は夏にしか食べることができないのか?」の謎に迫ろう。思いを巡らすと、以前、タモリ氏がテレフォンショッキングで同じように「冷やし中華をいつでも食べたいのに食べられない」と苦言を呈していたのを思い出した。

 調べてみると、ジャズピアニストの山下洋輔氏が会長となって「全日本冷やし中華愛好会」、略して「全冷中」なるものを昭和51年1月に結成!?している(ちなみに2代目会長は筒井康隆氏)。無論、タモリもそのメンバーである。
 
その当時に出していた会報は、のちに『空飛ぶ冷やし中華』『空飛ぶ冷やし中華 Part2』として出版されている。これは謎を解明する貴重な研究資料と思い、Amazonで検索したら、古書でしか入手できず、しかも結構、値がはる。「ここで諦めては!」と研究者(もどき)としては血が騒ぎ、日本最大の蔵書数を誇る国会図書館へと足を運んだ。本当は、8月発行予定の本の原稿資料を探しに行ったのだが、そういう遊び心もないと仕事は長続きしないものだ(そう、遊びはまじめにするもんだ)。

 で、「研究資料」を紐解いてみたのだが、これがあまり面白くない。理論展開もあまりなく、今見ると、どうも学生運動の匂いを感じる文章になっている。おもしろがって勢いでやってしまった感が拭えない。
 しいて言えば、新宿の行きつけのバー二軒の壁面にはりつけたという山下氏の声明文には賛同するので、以下、引用しよう。

 全日本冷やし中華愛好会結成のお知らせ

 皆様には益々ご活躍のことと存じます。さて、爾来、我国の生んだ最高の食品である冷やし中華の愛好者は日に日にその数を増やしている現状であります。しかるに一部の無理解なる社会風潮が我々をして一年を通じてかの食品を賞味したいという希望を実現不可能なるものとしていることは皆様方の熟知せらるるところであります。
〈我々は何故我国の冬季においては、かの冷やし中華を賞味できないのであるか!〉
 このように間違った習慣を少しでも変えていこうという主旨のもとに私達はここに『全日本冷やし中華愛好会』を結成するに至りました。何卒皆様の御賛同を切にお願いする次第であります。
(引用:『空飛ぶ冷やし中華』まえがきより)

 さて、問題は“無理解なる社会風潮”にあるかどうかである。意外と冬季も販売してみたら、飛ぶようにとは言わないまでも一定の販売数は保てるのかもしれない。「TUBEの歌は夏にしかヒットしない」という思い込み同様、「冷やし中華は夏に食べるもんだ」という強い観念が支配しているだけではないか。真夏に汗かきつつフーフー言いながらラーメンをすするのが好きな人もいるのだから、しんしん降る雪を窓外に眺めながら、薪ストーブのやわらかい熱に包まれて冷やし中華を食するのはなんとも乙だと思う。冷やし中華にこだわる私としては、冬にはニーズがないと“無理解”の市場論理で片付けてほしくはない。

 だが一方で、365日いつでも冷やし中華を食せる状況を想像してみるとどうだろう。これほど冷やし中華を愛し続けることができるだろうか・・・。些か不安になってきた。

 ある調査によると「夏の終わりに食べたいものランキング」のダントツ1位は、スイカでもなく、ガリガリ君でもなく、男女ともに冷やし中華であるのだそうだ。それほど夏という季節において思い入れのある食べ物が冷やし中華様なのである。なにも“無理解なる社会風潮”があるのではなく、むしろ多くの日本人は崇高なる理解のもとに、冷やし中華を「夏に食べるもの」として聖域化し、夏の儀式として崇めてきたのである。そして、夏になると「あ〜、ありがたや」とそっと冷やし中華を口にして、「これぞ、日本の夏であるぞ」と感慨に耽るのである。つまり、市場原理とは別の次元で、冷やし中華をもっともおいしく食するために、秋冬春と我慢に我慢を重ね、あえて夏にだけ食していたのである(と強引に結論づけよう)。

 たしかに、その季節だからこそ、というものがあっていい。
 調布に住んでいた時、花火大会がなにか特別な事情で10月に開催されていた時があった。どんなに盛大に花火を打ち上げようが、夜空に花火が開くたび、淋しさが募っていった記憶がある。
 そろそろ冷やし中華の食べ締めをしなくてはいけない時期かと観念し始めている。

Img_0700_2                                    我が家の冷やし中華 (*^-^)

2010年8月25日 (水)

フード・ルール

 「こだわり」というほどのものではないが、ほぼ習慣的にチェックしている番組、雑誌がある。

 テレビ番組であれば、『情熱大陸』(TBS,日曜23:00〜23:30)、『爆問学問 爆笑問題のニッポンの教養』(NHK総合,火曜22:55〜23:25)、『美の巨人たち』(テレビ東京,土曜22:00〜22:30)の3つ。

 

『情熱大陸』は、極みにたどり着いた人たちの生きる姿勢に考えさせられ、自らの生き方を常に見つめ直すことになっている。その上で、自分も頑張ろうという気を起こさせてくれる。だから、日曜の夜に放送するのはディレクターの意図なのか、週はじまりの月曜日に向けて勢いがつく(火曜ぐらいにはすっかりなくなっているが…)。なにより葉加瀬太郎の「情熱大陸」(オープニングテーマ)や「エトピリカ」(エンディングテーマ)がいい! 流れてくると血が躍るのが分かる(笑)。
 ちなみに、『情熱大陸』のあとに、しんみりとBGMのように『世界遺産』を観るのが週の締めくくりとしては最高だったのだが、放送時間が変更になり、騒がしい番組になってしまったのは残念である。

 

『爆問学問』は、とにかく一線級の学者たちの物言いが楽しい。概ね出演するのは大学の教員だが、自分も含め、大学教員とはヤクザな仕事であり(もちろんいい意味でね♪)、社会の通常の流れからどんどん外れていったアウトサイダーであると感じる。そうでなければ、いい研究などできやしないのだ(自己弁護だろうか(笑))。
 太田光の鋭い視点にもいつも感心させられる。どんな分野の研究者にも対等に議論を吹っかけ、一家言あるというのは、ただのお笑いではないなと思わせる。モノの見方という点で、彼の視点を参考にしてはどうだろう。

 

『美の巨人たち』は、毎回、その番組構成で楽しませてくれる。「美術」を難しく考えている人は一度観てるといい。1枚の絵、1つの彫刻に、芸術家の人生模様や生き様が刻み込まれていることがよく分かると思う。観終わった後、この番組がヒューマンドキュメンタリーでもあることに気づくだろう。
 私が自分が担当するワークショップや講義で、時折、こうした芸術家や芸術作品の話題を取り上げるのは、そこに哲学が埋め込まれているからである。

 次に、定期購読している雑誌だが、、、前置き(テレビ番組紹介)が長くなったので、紹介だけ。
 環境とCSRと「志」のビジネス雑誌『alterna(オルタナ)』、イスラエル問題に精通したジャーナリスト・広河隆一氏責任編集の世界を視るフォトジャーナリズム誌『DAYS JAPAN』、そして日本発の「世界標準マガジン」『COURRIER JAPON(クーリエ・ジャポン)』の3つである。

 今日、ブログで取り上げたいのは、この最後に挙げた『クーリエ・ジャポン』である。
 もともとはフランスの雑誌で、海外メディアの記事を厳選して編集するというアイデアにヒントを得て、日本では2005年に創刊された。どうしてもアメリカ発の情報に偏りがちな日本において、そうでない視点で事象を見せてくれるこの雑誌の意義は大きい。『クーリエ・ジャポン』創刊の中吊り広告を目にした時、その編集ポリシーに大きく頷き、すぐにキオスクかどこかで購入したような気がする。海外記事だけでなく、ここに掲載している日本のジャーナリストやコラムニストの文章も一癖ある人たちばかりで、そういった意味でも新鮮な観点を与えてくれる。

 さて、今月号が昨日届いたのだが、巻頭特集が「世界一の集中講義」。表紙には「1日で分かる“カリスマたちの新理論” 知性を鍛える『白熱講義』」とあるので、このブログでも注目したマイケル・サンデル教授の『ハーバード白熱教室』人気にあやかってのことだろう。(余談だが、Amazonでベストセラーになった『これから『正義』の話をしよう』を出版した早川書房企画のマイケル・サンデル教授の講演に応募したところ、当選したので27日金曜日に六本木ヒルズに聴講しに行ってきます!)

 かなり本題に入るまでに字数を要してしまい、恐縮(今日伝えたいのはここから)。
 今月号をぱらぱらとめくっていたら、「講義」が1時限目から6時限目、そして放課後まであるのだが、「ランチタイム」の「食習慣改善」のページが目に留まった。

 講師はマイケル・ポーラン(Michael Pollan カリフォルニア大学バークレー校教授で、環境ジャーナリスト)。講義名が「米国人の体の大部分はトウモロコシでできている」だ。ここで紹介されている彼の“フード・ルール”が非常に的を射ている(気がする)ので、紹介しよう。(※印は補足説明が必要だと思ったところ)

 1.パンは白いほど早く死ぬ

 2.「低脂肪」「無脂肪」食品は食べない
  ※脂肪分を取り除くと味が落ちるため、糖分や添加物で調整

 3.4本足(牛・豚)より2本足(鶏)、2本足より1本足(キノコ類)

 4.大型の魚は避ける
  ※乱獲で絶滅の危機にある上、水銀含有量も多い

 5.フェイク食品は食べない
  ※“バターもどき”のマーガリンなど

 6.牛乳の色が変わるようなシリアルは食べない

 7.ドライブスルーで買えるものは食べない

 8.おかわりはしない

 9.商品名が万国共通のものは食べない
  ※ビッグマック、プリングス、チートスなど

 皆さん、これを見てどう思われただろうか? ドキッとする項目はなかったですか? 私は、「牛乳は脂肪分があるので、あまり大人が飲んでいはいけない」というようなことを聞いていたので、「低脂肪」「無脂肪」食品を比較的選んでいました。昨日もスーパーで無脂肪牛乳をかごに入れちゃいました…。

 ただ、あまり厳格になりすぎず、まずは食事を楽しむことですよね。いまや、米国人の19%が車の中で食事をとっているのだそうですから。

【参考】
マイケル・ポーラン(ラッセル秀子訳)『フード・ルール 人と地球にやさしいシンプルな食習慣64』 東洋経済新報社 ¥1,365

2010年8月24日 (火)

高尾山は生きている

 7月31日15時に、国道20号線と町田街道をつなぐ八王子南バイパスが開通した。私が働く拓殖大学八王子キャンパスの目と鼻の先のことだ。これで、平日の20号線町田街道入口交差点や休日の高尾山口駅前の渋滞が緩和されるとの触れ込みである。時々、大学まで車通勤をすることがあるが、実感できるほど渋滞が緩和されたとは言えない。交通量調査をすれば、5%や10%の交通量が減少し、成果はあったと結果が伴ったことになるのであろうが、何十秒か交差点を早く通過できたぐらいで私は“利便性が上がった”とは体感できない。

 それでも一般的には喜ばしいことで、心待ちにしていた人はきっと多いに違いない。まだ完成は先のことだが、圏央道八王子南インターチェンジとの連結もされるのであるから、便利さがより増え、なおさらである。私もインターチェンジができれば、圏央道を使った場合、通勤時間は半減する可能性がある。
 だとしても、複雑な思いを拭い去れないのは、高尾山を切り裂いての開通だからであろうか。たまたま勤務地が高尾山の麓にあるから、その工事の様子が目に入り、高尾山が悲鳴をあげているようにも見えてしまう。そういった思いでモノを語るのは、幼稚で情緒的すぎると言われるだろうか。

 私自身はまだこのバイパスを通ったことはないが、先日、入口の前を通った時、「トンネル内湿潤」(だったかな)との立て看板を見た。実際、私のゼミの学生は一度バイクで通ったことがあるのだそうだが、外は晴れているのに「路面が濡れていた」と話していた(すでに開通時にトンネルを通り抜ける車からの映像がYouTubeにアップされていて、それで路面が濡れている様子が確認できます→こちらから)。
 その不思議さへの解答は単純明快である。高尾山は生きているからだ。常に呼吸をし、血流がある。皮肉なことに、高尾山の体内のバランスは、ナイフを突き刺すようにトンネルが掘られることで崩れてしまい、「出血」してしまっている状態なのだ。そのことに気づかさせてくれたのは虔十(けんじゅう)の会代表の坂田昌子さんである。

 先週19〜20日、1泊2日で石川ゼミの合宿を開催したのだが、初日にゲスト講師として坂田さんにご協力いただき、高尾山フィールドワークを実施してもらった。ゼミでは「Sustainability(持続可能性)」をテーマにしているのだが、テーマが大きすぎるためか、捉えどころがなく、どうしてもまだ自分たちの問題としきれていない。そこで今年は自分たちの身近なところのSustainabilityを考えてほしい(あわよくば活動につながってほしい)との思いで、高尾山に焦点を当てることにした。

 高尾山には、1300種を超える植物が自生しており、これはイギリス一国分に匹敵する多さである。そればかりでなく、昆虫が5000種いて、日本三大生息地となっている。鳥の数は150種で、日本にいる鳥の3分の1が高尾山で見られることになる。標高600mにも満たない小さな山にこれだけの生物多様性があるのである。ミシュランで評価されることよりも、学生たちにとっては遠足で登るような身近な高尾山がそれだけの包容力を持っていることに驚きを覚えたようである。
 その多様性が保持できているのは、坂田さんによれば“水の豊かさ”が何よりの理由であるらしい。山を上り下りして15kmほどに及んだフィールドワークは、普段、運動不足の学生にはかなりこたえたようだが、ところどころにあった湧水は一服の清涼剤となったし、岩肌にある苔から滴り落ちる水は、15年の歳月を高尾山の中を巡り尽くして出てきたものだと聞いた。そうした環境が動物、植物を違えることなく森羅万象を支えている。修験道がここで滝行をする理由のひとつもそこにあるのではないだろうか。(余談だが、坂田さんが「高尾山の沢の水が涸れ、滝行ができなくなったらどうします?」と建設サイドの人に訊いてみたところ、「水道を引けばいい」と無下に回答されたそうである。この感覚の違いを埋めるのは並大抵のことではない)

 合宿2日目には、フィールドワークのふりかえりを行った。彼らもまた情緒的な思いと実際の合間にジレンマを抱き、複雑な思いに至っている。それでいいのだ。たやすく答えなど出さず、どんどん悩み、とことん思考するがいい、と私は思っている。
 ただし、その時、周りが言う「実際」や「現実」などいう言葉に惑わされずに、幼稚といわれようが情緒的に感じた最初の“第一感”をスタートに自信を持って思考を始めてほしい。情緒的な思いは、問題解決をする際に程度が低いものと脇へ追いやられるが、本質的なものが隠されていると思う。事実、子どもが思うような第一感がこれまでないがしろにされてきたせいで、社会に存する多くの問題は解決されていないではないか。
 君らの第一感は単純なものかもしれないが、本質は非常にシンプルなものだと私は思っている。


自然災害で倒れた大木を横目に、高尾山フィールドワーク

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                                  虔十の会でつくったツリーハウスの上に登って、はしゃぐ

2010年8月11日 (水)

シゴトのシカタ

 1週間ほどマレーシアに行っていた。マレーシアと行っても少し前まで世界一の高さを誇っていたツインタワーのあるクアラルンプールへではなく、さらに国内便に乗ってサラワクへと渡った。数日間、イバン族のロングハウスで生活を共にするためである。
 旅の濃さ故、その詳細は機会を改めて筆をとることにする。今回は、その行きの道中でふと感じたことを記そうと思う。

 私は、飛行機が好きである。機体マニアなのではなく、乗ることが好きなのである。なにか特別な空間にいる気がするし、これから旅が始まる高揚感がそのムードを後押ししているとも言える。閉所や高所の恐怖症の人は耐え難いだろうが、私は眼下に広がる無限大の雲をぼうっと眺めているのが、なにより心地いい。イヤホンからイージーリスニングを流し、脳みそを空っぽにするのである。時には立て続けに映画を観ることもある。どれも普段の生活ではできないことだ。

 その空の旅を演出しているもうひとつが、フライトアテンダントたちである。彼らが着る制服や彼らに出される機内食は、その航空会社のお国柄を象徴するものとなるし、なによりその仕事の仕方に国民性や文化が滲み出てくる。それらが機内全体の雰囲気を醸し出すことになる。
 今回はマレーシア航空を利用しての旅となったが、優しげな笑顔が印象的だった。それらは客である私たちだけに向けられるものではなく、仕事中の同僚にも向けられており、それが普段からのものであることが分かる。

 昨年、妻とコスタリカへ旅した時に出会った初老のフライトアテンダントも印象深かった。どこの航空会社だったか記憶が定かではないが、洒落っ気のある所作は長旅の疲れを忘れさせてくれた。乗客から見えるところで、同僚とふざけあってもいるが、それに我々夫婦が眉をひそめることはなかった。むしろ、その楽しげな空気感がこちらに伝播してくるようで、旅を「旅」たらしめてくれているようでもあった。初老のフライトアテンダントは、entertain(もてなす)の文字通り、もてなし上手のエンターテイナーであったと思う。

 日本の航空会社のフライトアテンダントたちの仕事ぶりは非常に誠実で、評価に値するものだと私は思う。ただ、彼らが楽しげに仕事をしているように見えるかというと、すんなり「うん」とは頷けない。どこかで演じているヨソユキの所作に感じられるからだ。
 海外旅行をしていて、レストランやバーに入ると、あるいはスーパーのレジに並んでいると、楽しげにおしゃべりしながら仕事をしている場面に頻繁に遭遇する。そうした人たちを見ると、とても羨ましくて仕方がない。それは翻せば、私たちの働き方がそうなってはいないという現状を再認識させられるからであり、かつそれへの憧れがあるからである。たしかに仕事が遅くてイライラさせられることは少なからずあるが(笑)、それでも羨ましさや憧れを抱くのは、ひとつには彼らが自らの仕事を心底好いていることに対してであり、二つにはそうした仕事の仕方が自然であり、それを自分も周りも受け入れていることに対してであろう。

 もし、日本でお喋りしながら仕事をしていたら、「なんて不謹慎な!」「もっとまじめにやらんか!」とお叱りが飛ぶのであろう(実際に口に出さずとも内心そう思っていることが多々あるはずだ)。そうした風潮ができてしまったのとできなかった境目がどこにあるのか、残念ながら検証することも推察することも難しい。が、少なくとも、自分の仕事のあり方を考えた場合、おしゃべりできるくらいの余裕は持っていたいと感じる。それは、客としての立場となってもそうで、楽しげに働いている人たちのほうを見ていたいと思う。
 よく言われることだが、いい加減がまさに良い加減なのだ。それは自分に対しても、周りに対しても。つまり、社会全体に対しても、といっても過言ではない気がする。

 では、自分の仕事は“いい加減”になっているであろうか? 是非考えてほしいのだが、もし今の仕事を(一瞬たりとも)楽しめていない、あるいはこれから楽しみを感じられるイメージが持てないというのであれば、続けるべきか再考してみてほしい。「仕事」は自分の人生の大半を費やすのである。今、改めて時間をかけて考える意義はある。このご時世、仕事があるだけで恵まれていると思えば、それを思考すること自体、躊躇するのだろうが、果たして人間性を否定してまで続ける必要があるのだろうか…。

 昨日、あるNPOが作成するDVDの試写をみて、コメントするという機会があり、「貧困」をテーマにしたそれは、自ずと仕事のあり方を考えさせるものでもあった。
 これは、企画の段階から主に現役大学生たちが携わった映像制作プロジェクトの成果である。不景気や就職難に直面する今の学生たちが、「貧困」をどう捉え、学生たち自身に何をメッセージとして発信できるかという思いから始まったもので、自ら東奔西走してインタビューし、何度も議論を重ねて出来上がったものであった。
 完成はまだ少々先になりそうだが、この映像制作のプロセスへ身を置く彼ら学生の煩悶しながらも確実に成長している姿が垣間見られた。自分の人生に、そして社会に真摯に向き合う姿勢に、必ずや明るい未来が到来してほしいと願わずにはいられなくなった。

 さて、試写後、ある人がこんなコメントをした。
「このDVDは非正規雇用の脆さ、危うさを問うているものの、なぜか途中で出てくる正規採用されている人たちの生き方のほうには魅力を感じませんよね」。

 これには大きく頷いた。映像に出てくる正規社員たちは「朝6時半に出社して、深夜3時頃に帰宅する」とか、「会社で自己実現なんか別にしたくない」とインタビューに答えていた。おそらく、その発言をした人たちも何かがおかしいと思いながら、会社と社会が変わらないことへのもどかしさを感じていたに違いない。あるいは、それが当たり前となり、麻痺してしまっているのかもしれない。
 そんな日本の仕事のあり方を見たら、初老のフライトアテンダントやコスタリカのレジのおばちゃんたちはどう思うだろうか? 

 日本全体に蔓延しているこの「重さ」が、もう少し「軽さ」に変わっていくことはないのだろうか? 「朝6時半に出社して、深夜3時頃に帰宅する」ライフスタイルは、100人中100人がおかしいと思い、人間らしい生活を送っていないと断言できるはずだ。それだけ明白なことがなぜ変わらないのか!

 求人倍率だけで、「売り手市場だ、買い手市場だ」と騒ぐのではなく、どんな状況であるにせよ、これから職に就こうとする人たちが会社を選択し、淘汰していくようにはならないものか。「朝6時半に出社して、深夜3時頃に帰宅する」ような会社には絶対入りませんよとのメッセージを非雇用者側から発すれば、人間らしい生活をさせてくれない会社は採用ができず潰れていくか、改善を迫られる。そうはなっていかないものだろうか。そんな声をあげたら、足下を見られ、より安い外国人労働者などが雇われるだけだろうか…。

 妙案はすぐには浮かばないが、あのDVD制作に携わる学生たちや私のゼミ生たちが社会人となり、いつかどこかで遭遇した時、楽しんで仕事をしていてほしいと祈っている。

【参考】
 まだ観てはいないが、次の映画は今回のブログテーマをより深く洞察できるきっかけを与えてくれそうである。

 映画『我らが工場 命の針社』
 http://www.bekkoame.ne.jp/ha/kook/index1.html

2010年8月 2日 (月)

パリ20区、僕たちのクラス

 8月に埼玉で行われる「国際理解教育セミナー」に講師として呼ばれている。私の役目は「参加型授業のコツ」を体験を交えながら話すことらしい。講師依頼をするほうは私をそういった類の専門家として見てくれているのだから、もちろん、その自負を持って面前に立つつもりである。それでも、こうした機会をいただくことに感謝するのは、専門とされるテーマに対し、改めて対峙できるということである。
 今日は池袋のジュンク堂本店へ行き、2万円以上も参考となりそうな文献を購入してきた。これからそれらを渉猟し、ゆっくりと自分の考えを再整理していきたい。どうしても忙しさにかまけて、我々大学教員のシゴトである“探求する”ということを雑然とした日常の中にやりすごしてしまうが、こうした機会でも与えられないと、意外にゆっくり思考することなどないのである。

 そんなことを思うと、私は、骨髄移植を受けるために入院した半年間の豊かさを思い出さずにはいられない。なんとか「生」をつなぐことができ、退院した私に対し、決まって「大変だったね」「よく頑張ってたね」と激励されたのであるが、私には大変だった思いもそれほどなかったし、頑張ったつもりもない。そんなことを言っては、今、同じ病気に罹り、闘病している方には無礼となり、軽んじているように思われるかもしれない。快復したからこそ、苦しいことは忘れ、楽観的に物が言えるようになっただけなのかもしれない。
 そうだとしても、私がその半年間の闘病期間を幸福感に満ち、充実感をもって送られたのは、“思考する”時間が十分にあったからである。それは、死が一時ではあったが迫ってきたからこそ、誘発された環境であったのかもしれない。たしかに、そこで自分の人生をふりかえり、またこれからの自分の人生に思いを馳せ、深い気づきの到達点に至ることができた。それは偶然のことではない。ただ、九死に一生を得た境遇にいたからでは決してなく、単に十分に思考する時間に恵まれただけなのである。
 私がその時、強く実感したことが、現代人にはあまりに思考する時間に欠乏しているということである。心の貧困は、そこに起因しているのだと私は確信して疑わない。

 先週木曜日、私が担当している講座「国際開発教育ファシリテーター養成コース」の現7期生2名と神保町にある岩波ホールで『パリ20区、僕たちのクラス』を観た。これは、パリ北東部20区に実在するフランソワーズ・ドルト中学校の全面協力をとりつけ、演技経験のない24名の生徒に対し、1年間のワークショップを続け、その上で撮った“ドキュメンタリーのような”映画である。その手法含め絶賛を浴びたローラン・カンテ監督は、第61回カンヌ国際映画祭のパルムドール(最高賞)を受賞することになる。

 前評判の高さにかなり期待して観たのだが、フランス映画特有と言っていいのだろうか、伏線らしきものが明快につながっていくわけでもなく、やや混沌としたままストーリーを閉じてしまった。鑑賞後、喫茶店(道を挟んで向こう側の小道にある「さぼうる」は、雰囲気があって感想を言い合うにはとても良い。作家や文化人が好む空間らしい)に入り、3人で感想を言い合ったが、3人とも要領を得ず、歯切れが悪い。映画では、教師と生徒がだんだんと対立していき、教室は険悪な雰囲気になっていくのだが、不自然にも校庭でサッカーを楽しげにしあうラストとなる。場面、場面がどうしてもつながっていかない・・・。

 どうもこの映画にストーリーを求めていこうとすることには無理があるようだ。これはフランス映画特有の「混沌」をひとつの仕掛けとして思索を誘うものではなく、教育現場そのものの実際が、こうしたつながりあわない個々の現象の連続なのでないだろうか。フランス映画だから分かりづらいのではなく、教育現場であるから分かりづらい、としたほうが合点がいく。それがローラン・カンテの表現したかったことなのではないかと今になって思う。

 映画のパンフレットには、教育学者である佐藤学氏(東京大学大学院教授)が寄稿している。その最後を抜粋する。

 教育の真実は、答えのない問いの探求の中にあり、埋めることのできない溝を乗り越えようとする教師と生徒の協同の痛ましい問いの中にある。その真実をこの映画は他のどの映画よりもリアルに私たちに提示している。

 私がこの映画を観て、唯一、明確に感想として言えたことが、教師フランソワの人間臭さである。それは、日本の教育現場からすると教師の振る舞いとして不適切にも思えるものかもしれないが、教師も一人の人間であって、必至に煩悶している姿には甚だ共感を覚えた。不器用にも見えたが、彼は煩悶の中に思考していたのだと思う。
 それに比して、日本の教育現場はあまりに時間に追われている。教材研究すらする時間が確保できないと聞く。それは果たして健全であるといえるだろうか。もっと静かにゆったりと思考する時間が教師にあってほしい。そうした時間の中から紡ぎだされた言葉には、子どもたちの心を揺さぶる何かがあると思う。

 私は明日から1週間マレーシアに行ってくる。仕事なので完全にゆっくりするわけにはいかないが、イバン族の住むロングハウスでゆるい風に吹かれながら、あれこれふりかえる時間をできるだけ持ちたいと考えている。

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