骨髄バンク支援

  • 走り続けて、骨髄バンク支援!
2016年11月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      

« 2010年8月 | トップページ | 2010年10月 »

2010年9月

2010年9月30日 (木)

ニクいサプライズ

 大学とはのんびりしたところで、長い長い夏休みが終わり(私が通っていた東京学芸大学は、この時期に教育実習をやる関係で、10月中旬まで“夏休み”が続いていたはず)、私の場合、本格的に授業が始まったのが今週からである。
 とはいえ、始まってしまえば、アイドリングなしにギアを全快にせざるを得ない。特に、後期は月曜日に2限から5限までびっしり授業が詰まっており、バタバタと落ち着かなかった。残暑のない日だったにもかかわらず、結構、汗をかいて仕事した。他の曜日に振り分けておけばよかったと、今、思っても後の祭りである。

 昼休みもやはり慌ただしく、駅前のスーパーで買ってきた助六寿司を急いで口に放り込み、3限の3年ゼミのクラスに向かう。私はゼミを持ってまだ2年目で、この3年生たちが「石川ゼミ第1期生」ということになる(拓殖大学国際学部は2年からゼミが始まる)。だから、本当に可愛く、憎めない。ただ、時々ガッカリもさせてくれる…。

 2限の「観光と開発」という私の講義を「先生、授業取りましたよ」と以前かなり聞いていたので、相当数、履修しているはずなのだが、教室に入るとゼミ生は僅か2名。すると10分ほどすぎた頃に、大教室の後ろの方からぽつりぽつりと知ってる顔が入ってくる。次から次へと遅刻する学生が我がゼミらではないか!
 呆れてすらくるのだが、けじめはつけないといけないので、まず3限の冒頭で注意する、「俺をガッカリさせるなよ」と。ただ、偉いのは(って、当然なんだけど)結構聞き分けはよく、一度注意すれば、次からはちゃんと修正してくるもんだから、そんなに激しい雷は落とせない。

 しかも、その後、ゼミに入ろうとすると、ソンちゃん(韓国からの留学生)が「先生、ちょっと時間をください」と手を挙げ、それを合図にしてか、みんながコソコソし出す。百均で買ってきたらしい、園児がクリスマス会でかぶるような紙製の三角帽をみんなでつけ、机の下に隠していたケーキを私のところまで持ってきた。
 「石川先生、娘さんの誕生おめでとうございます!」とニクいサプライズだった。

 生クリームの上にビスケットが乗っかり、ポッキーを指したその手作り感あふれるケーキには、麦チョコのようなもので我が愛娘の名前「ひづき」がハングルでデコレーションされている。安易にさっきの怒りを葬ってはいけないと思いつつ、それが融け去っていくのが抑えられない。
 きっと彼らは、私がそうなるであろうことを見越して、2限を堂々と遅刻してきたのであろうか。2年間の付き合いで、私が彼らのことを把握するよりも、ゼミ生たちのほうが私のことをもっと把握しているようである。本当に可愛く、憎めない。

 だから、来週は絶対に遅刻しないでね♪

2_3

3_2

2010年9月21日 (火)

チューちゃんはどこ?

 親バカ永久宣言をして早3週間、宣言どおり、親バカを貫いている。「目に入れても痛くない」とはまさにこのことで、むしろ「目に入れたい!」ぐらいだとややM的になっているほどだ(笑)。

 名前は日月生(ひづき)と名付けた。妻がお日様とお月様が大好きであり、陰陽といった考え方に深く共感していることが何よりも影響している。無論、私もそれには賛同している。
 で、とりわけ彼女は月のほうが好きなのだ。いつも燦々と燃えたぎっている太陽よりも、影があり、満ち欠けのある月が好きなのだそうだ。人の心も人生もそうだということで、有為転変なさまを表しているところに価値を感じているのだろう。月がもつ「影」というところへも、「“見えていなかったもの、目を向けてこなかったもの”にこそ、大切なものがあり、そういったものへ思いを馳せられる、耳を澄ませられる人になってほしい」との意味を見出しているようだ。

 これは全くの余談だが、月好きが高じて、「結婚をしよう!」と二人で確認しあった日、彼女が「満月の日に式を挙げたい」と言い出した。それぐらいの我が儘は聞き入れてやろうと「うん、いいよ」と生返事したのが運の尽き!? 多くの友人らに祝ってもらいたかったので、当然、式は週末に挙げることを想定。即座に二人でカレンダーを覗き込んで土日に重なる次の満月を調べたところ、それがなんと約1年後…。有無を言わせず、春夏秋冬、季節が一回りして我々の式は執り行われた。

 さて、では「なんで“日月”ではなく、“日月生”なのか?」という疑問が当然湧いてこよう。自分もできることなら、出席をとる先生を困らせるようなややこしい名前を付けるのは止そう、と常々言ってきた。が、どうも“日月”だとあまりにシンプルですわりが悪い。しかも私の苗字も妻の苗字も画数の少なく(私に至ってはすべて小学校一年生で習う漢字になる)、4文字トータルで見るとなおシンプルになるのだった。
 そこで、3文字案が浮上し、「生」の字を付け加えることになった。妻は「みんなに“生かされている”んだという思いを大事にしてほしい」との願いをそこに込めていた。妻の提案を私は自分と重ねあわせ、自分も“生かされてきた”我が人生を、娘へとつなげられた万感を「生」の字に託そうと、最終的にはその案を承諾した。
 難病を克服し、2004年のアテネオリンピック聖火ランナーをさせていただき、NHK「おはよう日本」の特集で取り上げられた際、奇しくも「“生”をリレーすることができた」とインタビューに答えている。「生」とは、なんともいい字を最後につけられたなと納得して出生届を出すことができた。

 ただ、これは出生後のお話である。出生前は二人とも決め込んだ案はなく、なんとなくお腹に向かって「チビちゃん」と呼んでいた。僕たちは人工授精で子を授かったので(このことは後ほどブログで詳しく取り上げる予定)、ミクロの段階から日月生を見ている。だからなのか、本当に本当に小さな小さな生命で、どちらからともなく「チビちゃん」と呼んでいたのだった。
 しかし、妊娠後期になってから「次の診察日までに2500g相当に大きくなっていないとねぇ…」と担当医にプレッシャーをかけられ、妻はその日からチビちゃんと呼ぶことを躊躇うようになった。

 さぁ〜て、呼び方がなくなり、はたと困る。そこで、もうじき4歳になる甥っ子に無茶ぶりだとは重々承知で訊いてみた。「なんて呼んだらいいかね?」と。すると「チビちゃんじゃないなら、中くらいのチューちゃんでいいじゃん」と言う。我々夫婦に妙案はないので、可愛い甥っ子の提案をそのまま採用することにした。
 名付け親である甥っ子は、それからというもの、お腹をこわごわ触りながらも「チューちゃん♪」と何度も呼びかけてくれた。お腹がどんどん大きく成長していくさまに目を丸くしながら、甥っ子は赤ちゃんの誕生を待ち焦がれている、、、もんだと思っていた。

 日月生が産まれて少し余裕が出てきたので、この連休中に妻の実家でBBQをやることになった。もちろんあの甥っ子も来る。
 その話を事前に義母が甥っ子にしたところ、「BBQには9人来るんだよね?」と訊いてきたという。実際には、義父母、義姉夫婦と甥っ子、そして我々夫婦と日月生の8人である。義母が「8人でしょ」と諭すと、それでも「違うよ、9人だよ」と甥っ子は言いはる。そこで、指折り数えていくのを義母が聞いていると、最後に「ひーちゃん(日月生)とチューちゃん」と言ったのだそうだ。彼の中では、お腹の中の胎児が今は赤ちゃんとなっていることがどうもつながっていなかったらしい。

 そこで、BBQの時にちょっとからかってみようと甥っ子を呼び、「チューちゃんはどこ?」と訊いてみた。すると5秒ほどじっくりと考えた後、一休さんがひらめいた時のように、ニッと笑い、「チューちゃんはひーちゃん!」と自信をもって回答した。
 甥っ子は、後に義母からお腹の中の胎児が外に出てきてひーちゃんになったのだということを聞いたらしい。その義母の言葉を彼なりにゆっくりと解釈し、やっとのことでお腹の中のチューちゃんと日月生がつながったのだった。

 子どもの思考回路というのは本当に面白い。「合理的に考えよう」などとはしないところに、時々大人は驚かされる。そして、それを「嘘だ」「事実でない」と決め込んでしまうところに大人のつまらなさがある。
 赤児を取り出すところを実際に見た私であれば、チューちゃんと日月生はつながりやすいかもしれないが、その瞬間に立ち会っていない甥っ子からしてみれば、それを俄に信じるわけにはいくまい。あるいは、そういうリアリズムではないにせよ、“形而上の胎児”と“形而下の赤児”を区別した甥っ子の哲学的発想は賞賛すべきでもある。

 一方、甥っ子のその発想を大事にしつつも、彼が社会の中での学びを一歩進めることができたというのも認めてあげたい。
 “学び”とは何かと何かがつながっていく現象である。無限に広がる道をあちこち歩いていると、不意に「この道はあそこにつながるかもしれない」「ここは抜け道かもしれない」という直感が走る。もちろんそれが見当違いであることもあるのだが、信じてみたその道が思い通りの空間に拓けた時、新たな境地に至る。それが“学び”というものではないか。

 以前、あるメーリングリストで「学びとは バラバラなことが つながる快感」という標語のようなアフォリズムに出会ったが、まさに言い得て妙。甥っ子はチューちゃんと日月生がつながることによって、自然の神秘や生命の尊さをきっと感じ取ってくれたと思っている。

2010年9月18日 (土)

22年前の53連勝

 みんながジャイアンツの野球帽をかぶる中、私はタイガースの帽子をかぶっていた。掛布の大ファンだったということもあるが、誰もが好きな「一番」に位置しているものに与することが、子ども心にとても嫌だったのだ。ゴレンジャーであれば、真ん中を陣取るアカレンジャーではなく、アオレンジャーが好きだったと言っていたし、ガッチャマンであればコンドルのジョーが好きだと言っていた。本当はそんなに好きではなかったのだが。だから、ただ単に、出席番号が幼稚園から中学校までずーっと2番だったという愛着から、虚勢を張っていただけかもしれない。

 でも、大相撲だけは例外だった。誰よりも強かった昭和最後の大横綱、千代の富士貢が大好きだった。小兵でありながら、右手で相手の頭を押さえつけ、かなり強引に左からの上手投げで土俵に叩き付けたり(「投げる」ではなく、まさに「叩き付ける」の表現の方がふさわしい)、必要以上に派手に吊り上げたりする、あの相撲スタイルが痛快だった。
 彼は紛れもない「一番」ではあったが、体格差をはねのけて勝ちを重ねる姿が、2番好きの私の信条とシンパサイズするものだったのかもしれない。

 その千代の富士が打ち立てた53連勝という記録が、今日、破られようとしている。九月場所六日目、横綱・白鵬は琴奨菊をあっけなくはたき込みで敗り、とうとう千代の富士に並んでしまった。今日の取り組みに勝てば、双葉山に次ぐ、単独2位の連勝記録54(但し、昭和に入ってからに限る)がカウントされることになる。
 しかし、今の大相撲に対しても、白鵬に対しても、一向にワクワクしてこない。子どもの頃、天敵・隆の里と優勝をかけての一戦ともなれば、両者が土俵に上がる前から心臓がバクバク緊張し、「どうか千代の富士を勝たせてあげてください」と神様に祈ってテレビを観ていたはずなのに、あの時のワクワクな昂揚感はまったくない。
 当然、子どもの頃のスポーツ観戦と同じ心情で見られるはずはない。昨今の相撲界の不祥事続きにうんざりしている部分もあろう。しかし、一番の理由は、過去が美化されてしまっているという心象にあるのかもしれない。

 記憶というのはかなりあやしく、且つもろい。圧倒的な量の記憶は消されていくものの、逆に選り分けられて残された記憶は良いものであれ、悪いものであれ、どんどんと増幅されていく。テレビにかぶりついて大相撲を観ていたあれほどの昂揚感はもう二度と味わえないものなのかもしれないし、二度と味わえないような高みに記憶を移行させただけなのかもしれない。
 いずれにせよ、あれほどドキドキしていたというクオリアは、私にとって紛れもない「事実」なのである。

 昨晩は連休前で気持ちに余裕があったので、録りためていた番組をDVDで見ることにした。以前、ブログでも取り上げた『爆問学問』で、法心理学者の高木光太郎教授(青山学院大学)を紹介しており、時宜よく、記憶がいかに曖昧かということを取り上げていた。彼は、「足利事件」の菅谷さんが冤罪である可能性を示唆していた人である。

 彼の話の中で、非常に興味深い話があった。強姦にあったオーストラリアの女性の例である。
 彼女は、犯人には逃げられるのだが、被害を受けた後、テレビを観ていて「映っているこの人が犯人だ」と確信し、警察に通報する。そのテレビに映っていた人(心理学者だった)は逮捕されるが、アリバイがあることが分かり、すぐに釈放された。というのも、彼女がレイプされていた時、彼はテレビに出演していたのである。彼女はレイプされている最中、目に入ったテレビ画面に映っていたその心理学者を、記憶のどこかで「犯人」に仕立て上げてしまっていたのである。高木氏によれば、記憶は無意識に転化することがあるのだという。

 高木氏は「記憶はワインのようなもの」だと言っていた。ワインそのものはワインであることに変わりはないのだが、年を経るにつれ、味はどんどんと変容していく。記憶という「事実」も時が経つにつれ、別の「事実」へと、しかもあらかた自分がいいようにへと変えられていく。多くは無意識的に。
 それでも、結果として、自分にとって“いい記憶”で埋め尽くされていくのであれば、いいではないか。人はそうして、我が人生をますます豊かなものへと、無意識的にではあるが、懸命にしていっているのだろうから。(無論、それが冤罪を引き起こすような致命的なものであってはいけないが)

 千代の富士が勝つことを信じてテレビの前にいた石川少年の昂揚感は、これからもう味わうことができないだろう。ただし、それは、私の曖昧な記憶の箱の中で、ますます増幅され、その時以上のクオリアとなり、ずっと残っていくに違いない。

【参考】
・千代の富士 53連勝ダイジェスト http://www.youtube.com/watch?v=KYO5i-IWDKk
・NHK『爆問学問』6月11日放送分 「記憶に吠えろ」
 http://www.nhk.or.jp/bakumon/previous/20100601.html

2010年9月16日 (木)

ほっこりな気分

 いきなりでImg_0830すが、写真は群林堂の豆大福。知る人ぞ知る(というか、自分は昨日まで知らなかったのだが)大人気の豆大福らしい。護国寺のすぐ側で、講談社が近くにあることから松本清張や三島由紀夫への手土産として重宝したとも聞く。

 これをありがたいことに昨日打ち合わせで行った国際協力推進協会(APIC)で戴くことができた。豆をふんだんに使ってあり、甘さが上品であるのがとにかくいい。すぐに売り切れになるというのは合点がいく。だから、こうしてご相伴にあずかれるのは運がいいということらしい。
 これを買っておいてくれたのが、私が担当している「国際開発教育ファシリテーター養成コース」の第2期受講生であったKさん。当時は妊娠しながらも受講を続けてくれたのだが、あのとき出産した子はすでに4歳になっていると言う。APICに職場復帰していたKさんとの久しぶりの再会に人気の豆大福付きでほっこり幸せな気分になった。

 また、打ち合わせ前には、OさんとAさんから出産祝いまでいただいた。甥っ子を連れ出す時に役立ったと使い捨てのよだれかけも袋に入ってあり、そうした心遣いがまた嬉しい。これまた、ほっこり。

 極めつけは、夜の「国際開発教育ファシリテーター養成コース」。講座終了後、7期生みんなからのクラッカーでサプライズの祝福。教室の火災報知器が反応するのではないかと思うほど、三十数個のクラッカーは盛大なお祝いであった。さらにMさんからはメッセージカード、Yさんからは可愛い花束。どう喜び、どうお礼の言葉を返してしていいのやら、とまどうのだが、ただただ嬉しい。

 お祝いしてくれる人たちは、うちの娘をまだ見ていない。まだ見ぬものへこうして気持ちを寄せられるというのは、なんとも崇高なことではないか。
 世界中で、見えないものへもう少しだけでも思い遣ることができれば、社会は変わると思うのだけど。

 きっと群林堂のおじさんは(おばさんかもしれない?)、店の奥から誰とも分からぬお客さんたちがほっこりしているだろう表情を思い浮かべ、あの豆大福をこしらえているに違いない。見ぬものへの思いを感じつつ、あちこちで豆大福を頬張る人は、平和な思いに浸っているだろう。少なくともあの上品な甘さはそんな気分にさせると私は思った。

【参考】
 ちなみに、APICでの打ち合わせは下記イベントについてでした。お近くの方、ご関心のある方、是非ご参加下さい。

◇おおいた国際協力啓発月間 in 2010 『映画×ワークショップ=観て!感じて!考えよう! 日本の国際協力と私たちにできること。』
 http://www.apic.or.jp/plaza/plaza/seminar/20101011.html

2010年9月 2日 (木)

マンディの青空

 今年の海外研修はマレーシアだった。ただし、首都クアラルンプールのあるマレー半島はほぼ経由するだけで、訪問のメインはボルネオ島サラワク州である。ここにイバン族といって、ロングハウスという形態の住居に住まう民族がいる。彼らと寝食を共にするというのが、今回の海外研修の大きなねらいであった。

 私たちが3泊4日でお世話になったのが、ルマ・パンジン(Rumah Panjing)村。Rumahはイバン語で「家」という意味で、 Panjingは村長さんの名前。つまり、“村長パンジンさんの家”というのが、村名なのだという(だから、村長が変われば、その都度、村名も変更される)。一戸のロングハウスが村そのものであり、村が彼らにとっての「家(home)」なのである。
 ルマ・パンジン村のロングハウスには18世帯が居住している。ロングハウスは文字通り長屋であり、ひとつ屋根の下にコンパートメントのように分けられた18家族それぞれが住む空間と、それらに連なる長い廊下で成っている。プライベートとパブリックが同居する不思議な空間である。長い廊下では、儀式や宴会もするし、作業や会合もする。Photo_2 子どもたちが走り回って遊べば、大人は大の字になって昼寝をする。村の誰かが起きて廊下がミシミシ鳴る音は、滞在中の私の目覚まし時計であった。

 はじめ、戸別に空間が仕切られているとは言え、プライバシーが十分に保証されているようでもない特異な居住スタイルに、勝手ながら息苦しくはないかと気を揉んだ。しかし、彼らにとってそれは当たり前であり、日常となっている。それが「良い」とか「悪い」とか優劣をつけるつもりはさらさらない。そうした“当たり前”は、時々疑ってかかるべきだし、変化していく猶予は常に担保していなくてはいけないが、それは文化や生き方といった有り様を彼ら村民が問い続けた上での帰結であって、それ自体を否定すべきではない。

 むしろ、プライベートとパブリックな空間を平然と行き来するイバンの人々には懐かしさを覚えるようになった。それは、私が幼き時の親戚が一堂に会する盆や正月の空気感であり、異年齢集団で道草しながら下校する昂揚感と重なる。それが単なる郷愁であってはいけないと思うのだが、村の人たちと円くなってどぶろくを飲み、庭先で子どもたちとセパタクローをする時間は、人が生きていく上で必要不可欠な滋養分であるように思えた。それが今の日本社会でだいぶ失われてしまって、ありきたりに「私は危惧している」と言おうとは思わない。ただ、「もう少しだけは取り戻そうよ」とは言いたい。

 日本に住んでいる私たちは、ある決まった栄養素だけを必死になって摂っている。栄養過多のそれは滑稽でさえある。しかし、ルマ・パンジン村の人たちもきっと何かの栄養分は欲しているのだと思う。川でマンディ(沐浴)をするたびに、そしてプカプカ浮かんで緑の隙間に青空を見るたびに、溶解するように体がほぐれていったのは、バランスを取ろうとした私の本能が為したものだと思いたい。

Photo_4                裏山より村の人たちとロングハウスを一望する

※担当している「国際開発教育ファシリテーター養成コース」では、毎年夏休み期間中に、カリキュラムの一環として海外研修(正式には「海外開発現場研修」と呼んでいる)に出かけている。これまで私はインドネシア('05)、タンザニア('06)、カンボジア('07)、フィリピン('08,'09)、そしてマレーシア('10)の引率をしている。

2010年9月 1日 (水)

親バカ永久宣言

 今夜は実にビールがうまい!
 ここ113年で最も暑い夏で、今夜もまた熱帯夜となろうとしているから、ではない。
 発泡酒ではなく、羽振りよくプレミアムビールにしたから、でもない。
 今日は、妊娠中でアルコールの飲めない妻の前では10ヶ月間禁酒としていたが、その禁を解く例外日となったから、実にビールがうまいのだ。

 本日、11時5分、「いい子(115)」の時刻に、我々夫婦待望であった第一子の女児が誕生した!
 彼女にまだ名前はない。でも、「我々夫婦の子ども」である、ということだけは紛れもない事実であることが、ただただうれしい。

 我が子よ。お前は助産師さんに抱かれて我々夫婦の前に初めて姿を晒したとき、なんと手足が長い子だろうと思ったよ。きっとスレンダーな女性になるにちがいない。

 我が子よ。分娩室から出てきて、タオルにくるまれたお前を、初めて父ちゃん(僕のことだよ)が抱いたとき、なんてめんこくてつぶらな瞳で見るんだい。きっと別嬪さんになるにちがいない。

 我が子よ。誰も何にも教えてないのに、ちゃんと母ちゃんのおっぱいを探し当てて、上手に吸ってる。なんてお前は利口なんだい。100点満点のテストを何回見せてくれるのかな。

 我が子よ。お前がお腹にいる間、父ちゃんが『北酒場』を何度か唄ってあげたから、きっと高いとおる声で歌も上手に唄えることだろうよ。

 我が子よ。父ちゃんも母ちゃんもリレーの選手だったから、きっと運動会のかけっこでお前は一番にテープを切るんじゃないかな。

 でも本当は、そんなことはどうでもいいと父ちゃんは思ってる。お前が父ちゃんと母ちゃんのところに来てくれただけで本当に幸せな気分になったんだから。

 お前は“奇跡の子”。

 絶対に授かれないと思っていた私たちのところにやってきてくれた。妊娠から出産までトラブル続きだったけど、その都度、必ずお前がなんとかしてくれた。お前のおかげで、今日という素敵な日に巡りあうことができたと思っている。
 だから、というわけではないけども、これからはお前に恩返しをしていこうと思う。今灯ったばかりのお前の人生を、燦々と輝けるものにするために、絶対的な愛をもって。

 我が子の写真を「可愛いでしょ」と他人に送りつける、そんな親だけにはなりたくないと常々思っていたけども、そんな縛りも誕生初日で反故にしてしまおうと思ってる。

 そして、今、ここに宣言する。
 自分が死ぬその時まで、誰がなんと言おうとも親バカであり続けることを。

 実に今夜はビールがうまい。

Img_0746_4


 

« 2010年8月 | トップページ | 2010年10月 »