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2010年11月25日 (木)

Kazuyoshi Ishikawaは俺じゃない!

 私はことあるたびになりふり構わず投げかけてきた問いがある。それは居酒屋の席であったり、旅先の宿でだったりするのだが、とにかくしっかりと腑に落ちたためしがなく、私にとってのフェルマーの最終定理となっている。その問いというのが、「なぜ、(日本の)女性は脇毛を剃るのか?」というものと、「どうして"My name is Kazuyoshi Ishikawa."と言わねばならぬのか?」という二つである。前者は「低俗だ」「下品だ」と毛嫌いして取り付かない人もいるだろうから、おいおい本ブログで取り上げるとして、今日は、私は「石川一喜(いしかわかずよし)」なのに、どうして海外に行くと「Kazuyoshi Ishikawa」といった“別人”にならなくてはいけないのかということに関して愚痴っておきたいと思う。

 私は特段書き方に指定(枠に書き込むなど)がなければ、英語表記はこれまでIshikawa Kazuyoshiとしてきた。今はGmailを使っているので、設定上、自動的にメールの宛名がKazuyoshi Ishikawaになってしまっているが、前にOutlook Expressを使っていた時はIshikawa Kazuyoshiとしていた。何度も言うが、私はイシカワカズヨシであってカズヨシイシカワではないからだ。つまりそれは、来日した際に「ハ〜イ、ジャクソン・マイケルで〜す」とか、「私が第44代アメリカ大統領のオバマ・バラクです」(オバマ大統領は正確にはもっと長い名前です)と彼らがわざわざ言い替えますか?ということであって、明らかにそれはおかしいではないか!と言いたいのである。それは重要なアイデンティティの問題であって、ないがしろにしていいものではない、と少なくとも私は思う。

 「少なくとも」と書いたが、それが私ひとりの頓狂な考えでないことが裏付けられてうれしかった。ちょうど昨日(2010年11月24日)の朝日新聞のオピニオン面で、「名ー姓か、姓—名か、それが問題だ」との見出しで、和歌山大学の江利川春雄教授が、私とほぼ相容れる主張をしていたのである。小見出しには「自分の名前を大事にできない人は、他人の名前も大事にできない」とあり、まさに正鵠を射ている。

 彼の主張は大まかには次の通りである。

  • 「名ー姓」の言い方は英語教育の影響が大きく、日露戦争の年に発行された国定教科書以降のこと(それ以前の英語の教科書では「姓—名」だった)
  • 当時、欧米人は「文明開化人」で、日本人は「半文明人」。西洋は自分たちより優れていて、向こうに近づきたいという思いがあった。
  • 名前はその人を表現する重要な情報(創氏改名はそれを軽んじた例)。自分のアイデンティティに一番関わる名前について自覚的になる時期に来ている。

 江利川教授は「名前をひっくり返すことを定着させてしまったのが英語教育とメディアの仕事なら、それを元に戻すのも英語教育とメディアの仕事」とも言ってるが、普通に個人個人がどんどん「姓—名」で自己紹介すればいいのである。その順番も含めて日本の文化であり、考え方であり、何よりそれが「あなた」なのだから。

 なんて書くとすごく名前にこだわりがある奴のように思われるのだろうが、子どもの出産に伴い、あっさりと石川姓を妻の吉田姓に改姓してしまった。もともと夫婦別姓の事実婚で通してきたのだが、「子どもが産まれたら、考えないとね…」と言ってきてはいたのだった。昨年夏に民主党が政権交代を果たし、一気に夫婦別姓の法制化に勢いがつき、「出産前に間に合いそうだね」なんて喜んでいたのだが、ご存知の通り、ぬか喜び。民主党政権のもたつきぶりにトバッチリを受ける羽目となった。

 そういう意味でも「Kazuyoshi Ishikawaは俺じゃない!」というわけなのだ(笑)。

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コメント

姓と名の順に関しては、たしか本多勝一さんの本で、一度読んだ
覚えがあるなと思って探したのですが、すぐには見つからず、
ちょっと誰かとまちがっているかも知れません。
30年ぐらい前の話だったと思います。

私自身は、それ以来、日本語の語順に意識的にすることが
あったように思います。
朝日の記事も読みました。
学校の英語教科書も変わってきていたのも、職業柄知っていました。
時代の流れにそった発言で、「本多さん」ほどの感銘はなかったです。

ただ、今思うのは、相手に合わせて変えることができるのも、いいなと
思います。名前、何ほどのものか?自分も、まわりとの関係性で、辛うじて
自分と名乗っているぐらいじゃないか?などと思わないでもありません。
一貫したひとつのアイデンティティをあまり信じていない私は、
名前もどんどん変えていた昔の人の方が、実際的だと思っているのかも
知れません。
実際、名前を変えた方がいいぐらい、人は変わっているからです。
19歳の自分の写真が今たまたま目の前にあるのですが、(母によると)
今の私自身よりも亡くなった父の若い時に似ているそうです。

イカが干物になったらスルメと呼んだ方がいいかなという感じです。
イカがスルメになっても、やはりタコではなく、連続性もあるし。

ところで、石川さんは公的には吉田さんなんですかね。きっと不思議な感覚
なんだと思います。石川さんは私より名前に思い入れが、ずっと深いような気が
していたので、ちょっと意外に思いました。慣れるまでに時間がかかると思います。
そういえば、「石川的徒然草」のタイトルは、このまま?


もう一度、「本多勝一氏」の本を探したら、でてきました。

『殺される側の論理』朝日新聞社 の中の

「氏名」と「名氏」 という一文です。
(pp.268-269)

彼の名刺では、
HONDA Katuiti とあり、

氏+名の順であり、氏は大文字で、またローマ字は
ヘボン式ではなく訓令式でした。

また、住所の表記の順番も、

国名(しかも Nippon)から始まり、だんだん
小さくなる日本での住所表示でした。
また、
長音には 「^」のマークがついていました。

徹底していますね。

ちなみに、この文章が書かれたのは
朝日新聞の1978年1月9日で、その前に彼はこれらを
実際にしていたことになります。


森井さん、いつも勉強させてもらっています。感謝、感謝。
ちなみにタイトルは変えずにこのまま「石川的徒然草」で通すつもりです。変化していくものもあれば、変わらず一貫しているものもある。そんな世界観が森井さんはお好きなのでは? 勝手な想像ですが(笑)

そうですね。
芭蕉の「不易流行」なんか好きです。

イメージ的には、大きな時計の歯車みたいな感じで、
小さな歯車は動いているのがわかるけど、大きな
歯車はとまっているように見える。
(でも、見ている時間の枠組みをかえると、大きな
歯車も動いているわけです)

大陸が動いたり、地球や生命の歴史を知ったり、
星座が形を変えたりするなどの事実に出会うことが、
そんなことに目を向けるきっかけになるでしょうね。

たしか、今江祥智さんの『ぼんぼん』にもそんな場面が
あったと思います。

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