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2010年11月19日 (金)

どれがエコ?

 どんなに凡人でも毎日“ニュース”が頻発している。もちろんそれが他人にとっても“ニュース”であるかどうかは別である。
 こうしてブログを書き始めてからというもの、自分の毎日がそんな“ニュース”にあふれたものであることを意識させられる。それぞれの人生は結構カラフルで、豊かである。ただそれを意識しているか、していないかの違いだけではないかと思う。むしろ、「平凡」である、という状態こそ、なかなかありえないものなのだ。

 だから日々起こるニュースをブログに書き留めておこうと思うのだが、(以前にも触れたが)恐ろしい遅筆であることとタイムマネジメントのダメさ加減でそれが叶わない。
 いっそのこと、ツイッター的なつぶやきでいいのだと思えばいいのだろう。時々は気負わずテキトーに書き連ねることもアリにしようと思う。

 月曜4限に「開発教育」という授業を持っている。この授業は基本「参加型」で、講義を聞くこと以上に、ワークショップを体験することが肝腎である。
 前回は
『地球の食卓』開発教育協会発行)という教材をつかったフォトラーンゲージをやってみた。世界24カ国の30家族の食卓(1週間分の食料を前に家族全員が写っている)を写したその写真集は見ていて飽きない。学生たちにはそれぞれの写真から、食生活の固有性や多様性、食料の量や栄養の偏り、グローバリゼーションの影響などなど、読み取れることをどんどん挙げてもらい、その家族の食卓のイメージを膨らませていく。そこから「食」のありようを考えてもらおうというねらいとなっている。
 授業の最後、「それぞれの食卓の50年前にはなかったもの、あるいはあったけれど形態が変わってしまったものはなんだろう?」と問いかけてみた。1960〜70年代には食卓におけるいくつもの“発明”がなされている。ラップや発泡スチロールが普及し、電子レンジが開発された。ドミノ・ピザが宅配ピザを始め、ケロッグ社がコーンフレークを日本で売り出した。冷凍食品が普及し、カップラーメンが登場したのもこの時期である。

 ある学生が「50年前にはペットボトルはなかったと思う」と発言してくれた。
 「じゃ、50年前にそれはペットボトルではなくて、なんだったのかな?」
 「ビンだったと思う」
 「それがなんでペットボトルになっていったのかな?」
 「え、ペットボトルはエコだから…」

 さてはて、ペットボトルはエコなのだろうか?
 一般的に言われるのは、リユース(reuse)され、何度か使用されるビンのほうがエコであって、たとえリサイクル(recycle)されてもゴミとなるペットボトルの方がエコではない。昔、醤油やお酒などは店に直接ビンを持ち込んで買いに行っていた(ようだ)。さすがに自分の幼少期でさえ、そんな時代ではなくなっていたが、コーラやファンタを飲むと、買った先の駄菓子屋へ持っていき、10円か20円だったかを店のおばちゃんから返してもらったものだ。プラスマイナスゼロになっただけなのだが、子どもにしてみれば立派な小遣いとなり、嬉しかったものである。郷愁を覚えるそんな時代でなくなっていったのが、上記の“発明”群以来のことなのだ。

 そんなビンの再利用性が引き合いに出され、どちらがエコかと言えば、ビンに軍配が上がっていた。しかし、今の学生にリターナルビンの仕組みを話してもまったくピンと来ない(本当は、「ペットボトルがエコだ」と言われることよりもその仕組みがあった時代のことを共感してもらえないほうがショックだったりする(笑))。彼らにしてみれば、“リサイクル”されるということが絶対的善であって、それが「エコ」であることに直結し、瞬時にそれ以外の選択肢へ思いが及ぶことが遮断されてしまう。思考がパターン化しており、“思考している気分の思考停止”というたちの悪い状態に陥っている。

 しかし、だ。なぜ製造業、流通業の人たちがペットボトルを選択したかと言えば、その軽さや耐久性ゆえ。重いものを非効率に運べば、その分、CO2は余計に排出される。リターナルビンは洗浄する際のエネルギーもかかる。
 どちらがエコなのかと追究していくと、結局、素人考えでは「正解」には辿り着かない。どんなにがんばっても「おそらく〜だろう」程度なのだ。もちろんさまざまな専門家が百家争鳴に論じるだろうが、それすら「正解」とは言い切れない。そうなると “思考している気分の思考停止”に陥っているのはこの私なのかもしれない。

 環境問題を取り上げる時のこれが限界だ。細かい数値比較合戦になると、もうお手上げである。

 なら、どうすればいいのか…?
 たとえ「おそらく〜だろう」程度だとしても、最低限、その問題に対して真摯に向き合うことはしていたい。時に勘違いをすることがあるかもしれないが、その作業の繰り返しは、少なくともあるべき方向へ徐々に導いてくれるのだと思う。厄介なのは、その時々犯す凡ミスを大失態だとし、容赦なく非難する社会の非寛容さだ。行ったり来たりしながら徐々に変化するプロセスが、これまで何度となく、そうして断ち切られてきた。

 “社会を良くする”という作業はとても虚しく、やるせないものなんだなぁ。だから、凛と前を向いていたいと思うのだが。

(あれ、ツイッター的につぶやくつもりが結局いつもどおり。しかも結構時間かかっちゃったし)

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コメント

短時間、小さなことを考えることや
それをつぶやくことや書きとめることと、
長時間、考えて追求することは、ほとんど
別の活動といえるのかも知れませんね。

ただ、「思いつき」のブロックを、いくつも
蓄えていくと、それを組み合わせていかれる
し、それが、壁のようなものになったり、家の
ようなものになったりすこともあるかと思います。

泡粒のように、いろいろ生きていると、出てきますが、
それを言葉に置き換えておくと、記憶に残るし、
人にも伝えることができるので、ブログや日記やメモ
に残しておくといいのかなあ~と思います。

私はあるMLで「10行の思考」と名付けて、そんな
泡粒を勝手に連載し投稿?したりしていますが、
けっこう20字×10行ぐらいの空間でOKですよ。
(田中治彦先生のブログは、そんな感じですね)

twitter始めたら、ID教えて下さいね♪

時代の流れもどのぐらいの幅でみるかでずいぶん
違ってみえるんですね。

時代はエコに向かって進んでいるという認識からいうと、
すべての変化は、その流れの上にあるように思うんでしょう。
曲線も部分を切り取れば、直線的に感じるし。

プラスチック容器がなかった時代の記憶から始まった私には、
時代は前に進みすぎて、断崖が見えてきたものだから、後ろ向きに
とあせるけれど、ちらっと後ろを振り返るものの、体はさらに前進を
続けて、後発の人の群れも後から押してくるので、仕方なしに破滅の
淵に飛び込む。。。

そんな風に見えます。

自然界では急激に増えすぎた種は大量に死んでいくそうですが、
そういう摂理があるのなら、それもこの目で本当にそうなのか見てみたい
気さえしてきます。人間はその例外になりえるのだろうか?

パスカルは「人間は考える葦である」といって、思考の偉大さを説いた
とされていますが、滅亡するときでもその理由を知っている存在である
という、そのあとの箇所の比喩の持つ現実味も同時に感じます。


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