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2010年12月 4日 (土)

語劇祭におもう

 楽器を演奏できる人と絵が上手に描ける人と語学に長けている人を私はことのほか尊敬する。右手と左手が違うリズムで鍵盤を叩き、その上、時折、足でなんかしている(「なんかしている」と書いている時点で情けない…)ピアニスト。見たままをカンバスに描きおとせる画家。まったく違う文字、文法を流暢にあやつるバイリンガル、トリリンガル。これらの人たちの脳内すべてにおいて、おそらく違う回路が複数同時進行しているにちがいない。その状態が到底私にはできないことで、想像に難く、尊敬に値するのである。

 昨日、学生たちと語劇祭を観に行った。今年で73回目となる拓大の伝統行事である。海外で「地の塩」となって貢献できる人材の育成を目標に創立された大学として、そうした行事が行われることは必然だったのだろう。日頃から鍛錬している世界各国の言語を駆使し、その国が抱える問題や文化を学生たちが自作自演する。彼らの重要な表現の場のひとつとなっている。
 とにかく、こうした行事が73年も続けられてきたことに手前味噌ながら甚だ感心する。そして、少し前までは知りもしなかった言語を操っている学生たちにも。

 一昨日のアラビア研究会の発表では、うちのクラスゼミ所属の女子学生が主演をはったそうで、その迫真の演技にいたく感動した他のゼミ生が、翌日のコリア研究会の発表も観に行こうと提案してくれた。そこにも私のクラスゼミの学生が2名出演するのであった。国際学部で働くようになってから観劇したいと思いつつ、授業との兼ね合いがつかず一度も観に行くことができていなかったので、渡りに船の提案だった。
 ちなみに「クラスゼミ」とは、通常の「ゼミ」とは別のものである。いわゆる初年次教育のことを拓大国際学部では「クラスゼミ」と呼び、学生番号順に機械的にクラス分けしてある。彼らとは基本的に1年だけのお付き合いだが、それも含め、今年のクラスゼミの子が立て続けに出演しているいうのは何かのご縁なのだろう。
 余談だが、出演する3人の学生は全員女子学生である。最近は(いや、昔から?)、女子学生の方が断然元気がある。

 さて、コリア研究会の演劇だが、結論から言えば、非常にいいものだった。光州事件をモチーフにした構成もよかったのだが、とりわけ我がゼミ生たちがよかったのだ。彼女らが授業とは全く別の顔で演じていたことに目を疑うほどで(本当に最初は本人であることに気づかなかったくらい)、その変容ぶりが非常に嬉しかった。しかもこちらが唸るほどのなかなかの名演技である。Img_1034
 正直、クラスの中ではガンガンと前面に出てくるタイプではどちらもないものの、時々、授業の中での発言や感想に書かれたメッセージに芯の強さは感じていた。ただ、今回の演劇を観ていなければ、その芯の強さを正当に評価し、うまく伸ばせてあげられていたかは些か自信がない。

 私は教員研修を依頼された時、必ずと言っていいほど、引き合いに出すものがある。「教育機会の平等とは何か」という話である。
 人にはそれぞれ「わかりやすい学び方」というのがある。それをコルブは次の4つに分類した。
(「コルブのわかりやすい学び方の四分類モデル 出典:吉田新一郎『効果10倍の「教える」技術』)

 

①見たり(観察したり)、聞いたり、読んだりして学ぶタイプ
 

②じっくり考えることによって学ぶタイプ


 ③動いたり、実際に試してみることによって学ぶタイプ
 

④フィーリングや感情、直感などを大切にする形で学ぶタイプ

 これに対し、ベーニス・マカーシー(Bernice McCarthy)は次のように述べている。

 「生徒の誰もが平等な機会を与えられ、積極的な自己イメージを築くためには、自分にあったスタイルで学習し、“誰もがいつでも輝くことのできるチャンスを25%与えられている”必要がある」(出典:グラハム・パイク、ディヴィッド・セルビー 『地球市民を育む学習』 明石書店)

 改めて思う。さまざま舞台を学生たちに用意してあげたいと。

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教育」カテゴリの記事

コメント

4つのわかりやすい学び方。。。自分はどのタイプかな?と思ってみましたが、
わかりませんでした。どれも、得意も不得手もない感じ。。。
どれかひとつには絞れないような。学ぶ対象によってアプローチが違っていて、
私にとってはどれも必要なアプローチだなと思いました。(そうでもないですか?)

また、いつでも輝く瞬間。。。というのも、ちょっと、正直いってよくわからないので困ります。
輝くって?う~ん、そんな瞬間あったのか?なかったのか?考えたことがありません。
発表している人は目立っているかも知れませんが、それで別に輝いているわけじゃないし。

(一度、私がプレゼンしていて、あまりに下手だったので、気の毒がって他の人が途中から
やってくれましたが、そんなマイナスに輝いていた?ときもありました。
でも、後で、「あんなに下手でも堂々とやっていて感心した」なんてコメントしてくれた人もいたし。。
輝く瞬間っていうのは何なんでしょうか?)

そしてそのチャンスが25%というのは、降水確率よりも具体的で、さすが「数字で表す文化」!と
思いましたが、これってあちら一流のジョークだと思って笑っていいところなんでしょうか?
(私はやや戸惑いつつ、86%ほど笑ってしまいましたが)


今気づいたんですが、
25%と言ったのは4つのタイプがあるので、100÷4=25%
ということでしょうか。つまり「4つのタイプに平等にチャンスを」
ということでしょうね。なるほど。

いろんなタイプの授業や活動の場があった方が、さまざまな
側面がでてきやすいので、教育的な効果がありますよ、という
ぐらいの意味なのかな。それならわかる気もします。

たぶん、教育の場で平等を実施しないとまずいものが、現実に
感じられるのでしょうね。

(私が生徒なら、平等の舞台の上でノックアウトされて、あきらめる
よりも、しょせん「教育の場」は部分でしかないと言ってくれた方が
気が楽ですが)

そういう面もないでしょうか?

「笑っていいかも」というNHK大阪の番組をみました。

その中で障害を持った人がその不得手なことで伝言
ゲームをやっていました。

得意なことで自分を輝かせるのも確かにひとつでしょうが、
不得手なこともその人の大切な一部分。得意なことで輝いても
そうした部分が、そのことでかえって見えなくなってしまっては、
せっかくの「不得手な部分」が活きてこない。。。

思わずそんなことを考えました。

(「サンデル教授」の方で書けばよかったのですが、
書き込みが終了しているのでこちらに)

横浜国大の上村先生の授業(最終回)をNHKでみました。

最後に、上村先生は、

「講義をしても、学生が自分たちで考えたあとに聴く講義は
彼らの中に入る、入り方がちがう」

というようなことを述べられていました。

そうだろうなと思います。

また、これを逆に学生からみれば、

「漫然と授業に出席だけするのではなく、
自分自身が取り組んでいるテーマや課題
だと思って授業にのぞめば、同じ授業でも
まったく別物になる」

ということだと思います。

白熱教室の温度差は基本的には、そこに
あると思いました。

森井さん、コメントありがとうございます。
 上村先生の実践は私も予約録画しています。が、きちんとまだ追えていません…。
 コルブのモデルの件ですが、これはもちろん一人の人間の中にも多様性があって、4つの学び方が(比率は違えど)内在しています。だからこそ多様なアプローチを!というような意味もあります。
 また、不得手の話もまさにその通りで、自分が得意でないアプローチが、新たに別の刺激となって、その子の魅力を掘り起こすということも考えられます。
 教員研修で話す時はそこまで触れて話をしています。

なるほど、そうでしたか。わかりました。ありがとうございます。

上村先生の授業に関しては、また、(奇跡的に)時間ができたときに

お願いします。

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