骨髄バンク支援

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2011年2月

2011年2月23日 (水)

森聞き

 先週、『森聞き』という映画の試写会に行ってきた。最近、共存の森ネットワークというNPO法人へ転職した知人が、「ぜひ観てほしい」と招待券を送ってくれたのである。

 共存の森ネットワークでは、10年ほど前より「森の“聞き書き甲子園”」を主催している(他に、林野庁、文部科学省、社団法人国土緑化推進機構が主催団体となっている)。毎年、全国から100人の高校生が選ばれ、森の名手・名人を訪ね、一対一で聞き書きをしてくる取り組みが「森の“聞き書き甲子園」である。森を育て、森とともに生きてきた伝統的な暮らしの中にひそむ智恵や技、そして彼らの生き方そのものが埋もれてしまわないよう、高校生に聞き書きをさせている。
 その高校生たちの姿を追ったドキュメンタリーが、この『森聞き』なのだ。

 映画には4人の高校生が登場する。4人とも見ていてまさに“今時の高校生”なのだが、それぞれが違う“今時”の光を放っている。それは若者に宛てがわれがちな「軽さ」などという言い回しではなく、彼らなりに“今を必死に生きている”という意味合いでだ。
 映画の冒頭では、「なにか今、世界が変わる時期に来ている気がする…」と鋭敏なことを口にした高校生がいたが、自分が18の時を思うと、それほどの嗅覚を社会に向けていたかと言えば、甚だ自信がない。彼女は母親から「今は受験を優先して、森に行くよりブランド校に行ってほしい」と懇願されるが、それには苦笑いするだけで、結局、足は森へ向かう。田舎育ちの私の色眼鏡でもあるが、都会育ちの彼女が有名校への進学だけを是とする親を振り切り、自然へと興味を向ける姿には快哉を叫ぶ思いで、頼もしく見える。

 しかし、それをも圧倒するのが森の名人たちである。森の空間において、彼らは哲人である。発せられる言葉もそうだが、立ち居振る舞いがそう思わせてしまう。
 登場する森の名人たちは皆が高齢で「引退」がもうすぐそこに迫っている(日本の林業の現状を物語ってもいる)。そうした哲人たちと無垢な高校生の鮮明なコントラストは、映像としても美しい。そのバランスの悪さが、双方になんとか言葉を紡がせて、そうした言葉のひとつひとつが珠玉となっていく。

 『森聞き』を観た翌日、たまたま『ソーシャル・ネットワーク』を観ることになった。マーク・ザッカーバーグの頭の中の回転が、そのまま現代社会の回転の速さとなっているのだと感じる。Facebookで紡がれる言葉たちも素敵だが、そこへ偏りがちになっていくことを憂いてしまう。高校生だけでなく、自分たちも。
 言葉の多様性は、何も言語や方言の多さといったものだけではなく、言葉として内面から紡ぎ出されるまでの時間の多寡にもよるのだろう。そうした時間を時折取り戻してみなくてはなるまい。そうしたバランスを取り戻すことで、身体も、社会も、文化も健全さを失わないでいられるのだと思う。ましてや森はそうした土壌の上にこそ、青々と木々を育んでいけるのだと思う。

※監督は『ひめゆり』の柴田昌平監督。試写会後の話では、全国の高校に「森の“聞き書き甲子園」ポスターを送るなどして宣伝しているが、あまり反応がよくないとのこと。高校の教員をやられている方々、来年度は是非高校生を森へ送りましょ♪

※映画のバックに流れるラヤトン(Rajaton フィンランドの人気アカペラ・ボーカルグループ)の曲すべてが非常に素晴らしい! 私は試写会後、すぐさま購入。最近はヘビーローテーションで聴いています。
このCDは日本向けに特別に組まれたもので、お得感もあり(笑)。しかもCDジャケットが絵本になっていて、ページをめくるたびに全曲の歌詞が絵とマッチしていて、見てて楽しい。

※3月5日よりポレポレ東中野でロードショー。その後、名古屋、大阪でもロードショーになるようですが、全国の皆さんに観てもらう、、、というのはアクセスの点で難しそうですね。

Morikiki_2

 

【参考】

2011年2月20日 (日)

“命のタスキ”をつなぐ〜目標金額10万円!!

 シンクロニシティとはまさにこういうのを言うのだろう。


 3万5千人定員のところに335,147人(当選倍率9.6倍)もの応募があった東京マラソンに今回も当選できた。第2回(2008)と昨年第4回(2010)、そして今回で3回目の出場となる。出たくとも一度も出られない人がいるだろうに、私は本当に幸運である。


 ただ、マラソン大会に挑むようになって5年以上になり、東京マラソンも3回目の出場ともなれば、目標が完走だけというのも物足りない。かといって、自分は記録でその物足りなさを満たせるほどの“アスリート”ではない。着ぐるみを着て走る人もいるが、それもなんか違う気がする(けど、沿道からは「アンパンマ〜ン、がんばってぇ〜」とか言われ注目されるので、走っていて本気で嫉妬を覚えもする(笑))。

 骨髄移植をする直前には「病気をもし克服することができたら、まずは献血とフルマラソン完走を目標(希望)にしよう」と考えていたのだから、それが成就できている今、その恩と幸運を社会に還元すればいいではないか。思案の結末はそこへ落ち着かせることにしたた。(ちなみに献血に関しては、担当医から「大量の輸血歴があるので、しないほうがいい」といったようなことをたしか言われたので、それは叶わないままでいる)

Tokyo_marathon_2008

 実は、3年前に初めて東京マラソンに出場した際にも日本骨髄バンクさんの協力を得て、「骨髄バンクにご協力ください!」とのタスキをかけて完走している(右写真)。 今回はそれに加えて、別の形でも社会貢献できればとあれこれ考えてみたのであった。


 今、勉強会に出させてもらっている翻訳家で環境ジャーナリストの枝廣淳子氏が、最近のメルマガで「初めてのフルマラソンチャレンジでNGOへの寄付を募ります」と、たしか書いていた。そんなことを思い出し、メールを改めてチェックしてみると、JustGiving Japanというファンドレイジング・サイトを活用していていた。

 JustGivingは、2001年にイギリスで生まれたインターネットを活用したファンドレイジング・ツール。社会をほんのちょこっとでいいから変えたいと願う個人が、うねりと言わずともさざ波程度は起こせる仕組みである。
 これはいいと、自分もここにお世話になることにした。


 すると、その直後に妻からは「マドレボニータの先生からこんなメールが来たよ〜」とメールの転送。マドレボニータに関しては、非常に面白い取り組みなので、いつかブログで取り上げようと思う。が、今は詳述しない。

 2月15日のNHK『あさイチ』という番組で、新しい寄付の形としてJustGiving Japanが取り上げられ、そこで「マドレ基金」のことが紹介されたのだと言う。「あんたもこれ使ってみたらぁ」というメールだったのだが、これが私が決心した同日のこと。


 さらにその翌日には、J-WAVEでジョン・カビラがナビゲーターを務める『TOKYO UNITED』の「COME TOGETHER」というコーナー(よくNPO/NGO等の社会貢献活動を紹介する)でもJustGiving Japanの方がスタジオに来て、インタビューを受けていた。


 これはもうシンクロニシティ以外のなにものでもない。


 私は今日、JustGiving Japanのサイトに東京マラソン完走で移植者支援します!〜“命のタスキ”を石川がつなぐというチャレンジをアップした。もう残り1週間を切ったタイミングであまり期待はできないが、寄付の目標金額は大きく10万円としてみた。寄付いただいたものは、日本移植者協議会というNPOに全額寄付されることになっている。もし賛同していただけるのであれば、このブログの読者の皆さんにもご協力いただきたい。以前「伊達直人的行動」と題して“タイガーマスク騒動”のことをここでも取り上げたが、これを機に社会貢献のあり方をみんなで考えるのもいいのではないだろうか。
 世の中にはどんどん面白い仕組みができている。


■JustGiving Japan

 石川一喜の今回のチャレンジ

 「東京マラソン完走で移植者支援します!〜“命のタスキ”を石川がつなぐ」
 
http://justgiving.jp/c/1348

 

Epson002  今回も骨髄バンクさんの協力を得て、前述のタスキとさらに特製ゼッケン(左)もお借りすることができました。大感謝! ゼッケンは背面につけ、私の背中を追うランナーの皆さんに見てもらい、目に焼き付けてもらおうと思っています。せっかくなので、皆さんの目にも焼き付けておいてくださいね(笑)。
 余談ですが、改めて東京マラソンのサイトを覗いてみると、「移植者」というカテゴリー(種目)がありました。ただし、10kmの部のみ。

 昨年の優勝タイムを見てみると関さんという方が45分41秒で走っています(ちなみに一昨年も関さんで43分41秒)。私の10kmのベストタイムは44分台。これはいけるかもしれない! 来年はあえて10kmに申し込み、移植者のエントリーで優勝ねらっちゃおうかな。来年はそのチャレンジをJustGivingにアップしようかなって目論んでいま〜す。

 

 

2011年2月14日 (月)

箱根5区を走っておもう

 2月7〜8日の1泊2日でゼミ合宿を行った。場所は箱根・強羅。ここには大学のセミナーハウスがある。以前にも使用したことがあり、食事がおいしく、かつ豪華(ゼミ生は「メインがどれか分からないぃ〜」と言うほど)。しかも風呂が温泉であって言うことなし。学生にとっては「安い!」というのが一番の決め手になったようだが。

 前に話したかもしれないが、私は貧乏性で、お子様ランチ的(=あれもこれも試してみたい)な性格である。妻には「今回は何もしないでゆっくりな旅にしよう」と提案し、事前にガイドブックをあえて見ず出発するのだが、いざ現地に着くと、足が観光案内所に向かい、情報収集。「どうせなら」とあちこち出かけ、特産品をあれこれ口にしてみたくなるのである。妻と付き合っていた頃も帰りかけていたディズニーシーで、すいたアトラクションを見つけては一目散に駆け出し、多摩動物園では閉園のアナウンスが流れているにも関わらず、引き返して見逃したアリクイを観に行った。付き合わされる妻はたまったものではないが、それを熟知しているから、はなから「ゆっくり」などという私の言葉は信用していない。妻として立派である(笑)。

 今回の合宿でも「どうせなら」根性が湧き出てきて、合宿の内容とはまったく関係なく、「箱根駅伝5区を体験ランしてみよう」とダメモトでゼミ生たちに呼びかけてみた。ジョギング仲間のMさんからやはり「登りのきついあの箱根5区を一度走ってみない?」と誘われていたことがあり、都合つかずに断っていたので、時宜得たりと思い至ったのだった。(実際に走ったのは、箱根湯本駅から強羅までの約8kmで、5区の一部分)
 ダメモトであっても一人よりは複数でトライしたほうが絶対に面白いので「あの“新・山の神”東洋大の柏原が走ったところを走ってみようよ」「拓大がシード権取れた記念にどう?」「箱根登山鉄道の運賃節約できるよ」と尽くせる限りの甘言で誘い出そうとしたところ、5名のゼミ生が手を挙げてくれた。Img_1237_2 驚いたのは、最初に参加表明してくれたのが2年女子の2名であったこと。それ以上に驚いたのが、当日待ち合わせ場所に行くと、その2名はよっぽど気合いが入っているのかと思いきや、いつもよりは動きやすそうではあるものの、まったくの普段着のまま。靴もジョギングシューズではなく、スニーカーに近いもの。「これで大丈夫です」と二人とも爽やかに言うので、それ以上は言及せず、スタートしたのだった。 途中、ひとりがコースから外れ、一時的に迷子にはなったものの、事なきを得て、参加者全員が完走(完歩!?)できた。引率として危機管理のできていない私だけが別の汗を掻くことにもなったが、みんな「楽しかったです」と言ってくれたので、企画成功ということにしよう。

 今回の期待薄だった企画に5人ものゼミ生が参加してくれたのは喜ばしいことであった。ちなみに荷物を持ってくれるボランティアを募集したところ、こちらも走る人と同じぐらいの人数が集まってくれた。本当にありがたい。

 前のブログで「人を動かす」ことについて書いたが、自分の存在意義を感じられる重要感を人は必要としている。自己肯定感(私たちの業界では「セルフエスティーム」という横文字を使うことが多い)と言い替えてもいいだろう。自己を受け入れ、認めたいという思いが、年末のあの「タイガーマスク騒動」を下支えしているのだと私は捉えている。引用した投稿記事の方は、「善意がある限り、幸せの輪は広がっていく」といった旨のことで結んでいたが、「人を動かす」という点においては、善意という利他的なものよりも利己的なもののほうが威力は大きい。あの騒動は、決して利他的なものではなく、ほとんどが利己的なものが原動力になっていたのではないだろうか。世はもっとエゴイズムに溢れている。

 エゴと言うと語弊があるかもしれない。ただ、ゼミ生たちが5人も箱根5区を試走しようと手を挙げてくれたのには、やはりエゴが根底にあったのだと思う。しかし、それは「タイガーマスク騒動」を下支えしたエゴのもうひとつ上の次元のエゴである。きつい5区を走ることで賞金も賞賛ももらえるわけでなく(ましてや単位にだってなりやしない)、何の得にもならないことなのに、2時間近く、ただひたすら歩を進めていくことは、自分の存在意義だとかセルフエスティームだとかいうもの以上に、もっと本能的に感じるワクワク感が先立ったからではないだろうか。
 人には「楽しむ」というDNAが、他のどんな動物よりも大きく埋め込まれているちがいないと科学者でもない私は確信している。そしてそれが最も本質的な人間の原動力になっていると信じて疑わない。

 2週間ほど前、ある研究所の設立記念シンポジウムに申し込みをしたのだが、そこの“参加費”が今までにないもので、いたく感心してしまった。その“参加費”とは、『ビッグイシュー』1冊(300円)の提示だったのだ。当日までに手に入れられなければ受付で1,000円を支払えばいいので、手段の選択は担保されているのだが、おそらく多くの参加者は、(コストの安さということではなく)『ビッグイシュー』購入を選択し、受付で提示することになるだろう。この方法には、「いいことをした」という自身の存在意義を感じられるとともに、手段そのものがワクワクさせる要素を多分に含んでいる。ひとつにはお金が対価になっていない通常ではない斬新さに、ひとつには野宿生活者との(一瞬かもしれないけれど)語らいがあることに、ひとつにはそんなアイデアが思いつく集団とそこに魅力を感じて集う人々に出会えることに、ワクワクさせられるのだ。遊び心があることが非常に憎く、普段使わない(しかし重要な)筋肉を刺激されたようで、今までできなかった動きがポッとできそうな気がしてくる。

 ゼミ生たちは、この合宿のプレゼンで一段落つき、とりあえずはファーストステージを終えたところである。新学期になれば、各々のグループはさらに次のフェーズへと移行していく。だから、今は充電期間のタイミングとしているのだが、それでも春休み期間中にそれぞれ活動を続けていくと言ってくれている。私からの「やらされ感」が、面白み、楽しみにつながりかけているのであれば、嬉しい限りである。Img_1241

 「人を動かす」のは容易ではない。しかし、「社会を動かす」のは、それ以上にたやすくない。その克服へのリバリッジポイントは、個々人を動かす原動力であるエゴイズムをどう変容させていくかであろう。利己的なものをどう利他的なものへ移行させていくか。「社会を動かす」原動力はそのプロセスの上になっているのだと思う。

 私のゼミの最終目標はそこに据えている。少し大きすぎるかもしれないのだけど。

【地球の食卓(石川編) No.7】

グリーンパッタイ 福生店
東京都福生市大字福生2212
042-551-3303

Img_1153 休みの日に車でちょっと足を伸ばして、見つけたお店。国道16号線沿いで横田基地第2ゲート前にあり。
店員さんはカフェにいるような雰囲気で気さくだった。ちょうど娘と同じくらいのお子さんがいるらしく、そんな話で盛り上がる。
大ぶりの生春巻きがおいしかった。

2011年2月13日 (日)

人を動かす

 今月はJICA(国際協力機構)さん依頼の仕事で忙しい。先週土曜は東京・広尾で、翌日曜日は千葉で、一昨日は筑波で、研修やワークショップの講師をさせていただいた(写真は、広尾のJICA地球ひろばで、マイケル・サンデルばりに講演(笑))Cimg2361 来週土曜には群馬でもその予定がある。事業仕分けで大変な最中、こうして仕事をもらえるのは光栄である。

 それぞれに講演だったり、ワークショップだったり、指導者研修だったりする上に、テーマも微妙に違っていて、別個の準備をしなくてはいけないのだが、「開発教育」や「ファシリテーション」という私の専門から大幅に逸れることはない(当然逸れては立ち行かなくなるし)。自ずと重なるワークをプログラムに入れることにも時折なる。
 以前、本ブログで取り上げた“タイガーマスク騒動”
(参照「伊達直人的行動」は、国際協力現場の「援助」という側面に置き換えて考えることができるゆえ、アクティビティ化してみた。タイムリーな話題であることは興味を持って考えてもらえるし、賛否両論あって議論になりやすいことから格好の素材であったのだ。
 すすめ方としては、今回の騒動に関連する投稿記事を読んでもらい、それをどう感じるかというところを切り口に、その時の感じ方と国際協力に置き換えて考えた時の感じ方に違いがあるのかを考えてもらった。そこの議論から国際協力のあり方がぼんやりとでも見えてくればなぁというのがねらいで、東京と筑波で実践してみた。興味深かったのは、どちらの参加者も多くが「理解はできる」としながらも、その先からの思いになると判断が分かれたことだった。

 「理解はできる」

 つまり、“いいこと”ではあるのだろうけど、なにか腑に落ちない。同時多発的に津々浦々で登場した“伊達直人”の言動に反対はしないけれど…かと言って諸手を挙げて賛成するわけでもない、というのが本心のようなのだ。

 世界的にロングセラーとなっているデール・カーネギーの名著『人を動かす』(創元社)では、「人を動かす三原則」として次の3つを挙げている。

  1. 盗人にも五分の理を認める(批判も非難もしない。苦情も言わない)
  2. 重要感を持たせる(率直で、誠実な評価を与える)
  3. 人の立場に身を置く(強い欲求を起こさせる) 

 詳細は本を読んでもらえればと思うが、この3つの中で私が特に共感し、身をもって感じるのは「重要感を持たせる」だ。“重要感”とは、詰まるところ、「自分は今ここにいていい」という“存在意義”のことだ。人は自分の存在意義さえ感じることができれば、損得勘定なしに動いてしまう。敷衍すれば、存在意義を見出せるのであれば、これっぽっちも自殺を頭に思い浮かべることなどないはずで、人生を謳歌できてしまうのだと思う。
 ただし、そんなにやすやすと自分の存在意義を見つけることはできまい。北極星のように見つけ方が提示されているのであれば見つけるのはたやすいが、それができないから、みんな、迷える羊となっているのだ。

 『人を動かす』の中では、スティービー・モリスという少年のエピソードが紹介されている。
 デトロイトのある学校の教師は、授業中に逃げた実験用のねずみをスティービーに頼んで探してもらった。その教師がそれをスティービーに任せたのは、彼が目は不自由でも素晴らしく鋭敏な聴覚をもっていることを知っていたからであった。素晴らしい耳の持ち主であることを先生に認められた少年の人生はそこを境に変化していく。新しい自分の人生を見い出した少年は、天賦の聴力を活かして、後に「スティービー・ワンダー」として一世を風靡することとなる。
(※ちなみに、著者のデール・カーネギーは1955年に死去しているので、このエピソードを知る由がない。『人を動かす』は、あまりのロングセラーとなったため、カーネギー協会が古めかしい実例を現代の読者に親しみやすい事例に変え、改訂を重ねていっている)
 自分の存在意義というのは、自分よりもむしろ他者からの指摘で気づかされるのかもしれない。しがない一教員である私も学生たちが自身の存在意義を感じとれるようなプロセスを提供できたらと思う。 

 話が逸れたので戻すことにしよう。
 年末に登場した“伊達直人”たちは、寄付行為を通じて、自分の存在意義を見出そうとしたのだと思う。千にものぼったと言われる“伊達直人”の中には、誰からも自分の存在意義を感じてもらえず、自らが力ずくでそれをつくり出さなくてはいけないギリギリの人がいたかもしれない。
 それほどまでして人は「存在意義」を食い物とし、生きながらえている。そしてそれを消化してしまうと、また新たな存在意義を見つけなければいけなくなる。そう思うと、私たちは淋しい動物であるように思えてならない。

 私がワークで使った投稿記事の最後はこう結ばれている。

 「いつでも誰にでも公平に幸せを贈ることは難しい。しかし、他人の喜ぶ顔が見たいとか、誰かの役に立ちたいという善意を人々が常に持ち続ける限り、幸せの輪は広がってゆくのではないか」

 世界はそんなに純真ではないような気が私はしている。(次のブログでそのことに触れようと思う)


【地球の食卓(石川編) No.6】

HACHIOUJI BAL
東京都
八王子東町1-11 久保田ビル1 101
042-649-8357

Img_1242同僚の先生に連れていってもらったイタリアン。
こじゃれた感じの雰囲気の店で、店員さんの対応(気遣い)がとってもいい。なおのこと、ピッツァとワインがおいしく感じ、たのしい夕げとなりました。

2011年2月 2日 (水)

エゾシカ肉のお味

 2月27日に出場する東京マラソンに向けて、突如、練習のペースを上げている。期末試験対策は決まって一夜漬け、長期休暇の宿題は残り3日で片付けていた(帳尻を合わせていた!?)幼少時の私は、大人になっても変わるはずがない。人生において首尾一貫した方法論をとらせていただいている。それが成果を上げるとは到底思えずとも、とりあえずやろうとするのは虚しさ極まるけど、偉いじゃないかとも思う(ようにしている)。

 近頃、八王子キャンペスへ出講する際は“出勤ラン”だ。自宅から箱根ヶ崎駅(最寄より二つ先)までの9.5kmと、高尾駅から八王子キャンペスまで2.3km。帰りはその逆といきたいところだが、気力がもたないので箱根ヶ崎のひとつ先まで行き、金子駅から自宅まで4km弱のコースに短縮して帰宅している。
 もちろん仕事道具と着替えを持っていかなくてはいけないので、パンパンのリュックを背負ってのランであって、かなりの負荷がかかっている。最近はゼミ合宿が迫っているため、グループ活動が佳境にあり、PCだのハードディスクだのそれ関連で持っていく荷物がいっそう増えている。
 傍目に観たら、私がどんなシチュエーションで走っているのか、まったく想像できないだろう。しかも茶畑のド真ん中を突っ切っていくので(自宅は狭山茶の産地近く ※写真参照「夕日に映える茶畑とボクの影」)、「ヤツはどこに向かって走っているんだ?????」となおのこと訝しがられるだろう。Img_1227 以前、テレビで聖地バラナシまで手だけで進むインドの修行僧(のような一般人?)を紹介していたのを観たことがあるが、彼を見る目と私を見る目は、奇異であるという点において一緒である。

 通勤ランはおススメだ。「仕事前に走っては疲労困憊で本末転倒」とお思いの方が大半かと思うが、むしろ仕事の効率が上がっている気がする。通勤ラン後はほどよい疲労感が襲い、それがいずれスッキリ感に変わる。頭がミントガムを噛んだような感覚である。その勢いで一気に仕事に入り、ギアを上げる。前までは昼下がりのウトウトは必至だったが、その回数と時間は減少に転じている。

 とはいえ、1時間近くも走っているのだから、そこで何もしないではもったいない。Podcastで英語学習をしたり、ニュースやビジネス情報番組を聴いたり、落語を楽しんだりしている。
 先日はラジオ片手にJ-waveを聴いていたら「エゾシカフェ」というカフェが紹介されていた。毎週金曜だけ三軒茶屋で営業している自称“日本初のエゾシカ専門カフェ”である。店主はエゾシカ肉の卸業をしており、鶏・豚・牛しか肉の味を知らない皆さんにエゾシカ肉の美味しさを分かってもらい、「エゾシカLOVE♪」になってもらうのがコンセプトなのだそうだ。いわばアンテナショップ的なカフェである。

 どうしてこの話題に引っかかったかというと、我が家でも以前エゾシカ肉を購入し、ハンバーグにして食したから。(下記の【地球の食卓(石川編) No.5】参照)

 今、北海道にはエゾシカが64万頭棲息していると言われている。この数字が彼らにとって適当なのかどうか分からないが、少なくとも人間にとっては農作物や高山植物を食い荒らし、農林業被害が年間50億円超にのぼる厄介な動物であって、適当数ではない。しかも繁殖力がハンパでなく、2歳以上の妊娠率はほぼ100%、毎年1頭ずつ子を産み、放っておけば個体数は4〜5年で2倍になる。
 暖冬による冬期の自然死亡数の減少やもともと天敵であったエゾオオカミを“害獣”として駆除し、絶滅したことが影響している。エゾオオカミを勝手に“害獣”と言うのもどうかと思うが、「食い荒らし」「被害」「駆除」という表現自体は“ヒト目線”である。

 エゾシカの爆発的増加の背景には、他にハンターが高齢化して駆除が追いつかないということがあるが、問題の本質ではない。1860年代以降、本土から「和人」の本格的移住にともない、外貨獲得のためエゾシカの乱獲が発生。それまではアイヌの人々が必要な分だけを狩猟する生活が脈々と続けられていたが、その自然への畏敬と理解は無下にされていく。
 その後、明治政府が狩猟規制でコントロールしようとするが、対策はチグハグで、禁猟とその解禁が繰り返された。梶光一教授(東京農工大学大学院)曰く、「1980年代までのエゾシカに対する対応は、基本的に長期的視野をもたない乱獲と禁猟の繰り返し」であった。46億年もかけて構築されたバランスで成り立つ地球のシステムは、そうやすやすと変更できるはずがない。それがマイナーチェンジであってもだ。

 ただ、これら言動を“ニンゲンの驕り”であるとして自らを戒めるのは、もはや旧聞に属する話であって、何かが変わっていくという期待感を抱かせない。恐竜という強烈な個性をもった動物が謳歌を極めた時代があったように、今、地球はニンゲンという特異な動物種を抱えた時代にあって、それもまた地球の人生における運命であろうと考える。
 そうであれば、ニンゲンの言動が変わるのは、隕石衝突説のような青天の霹靂以外ありえないことなのかもしれない。

【参考】


【地球の食卓(石川編) No.5】

 エゾシカ肉ハンバーグ(自家製)

 鹿には紅葉が取り合わせであることから、鹿肉を「もみじ肉」と言うのだそうです。味は、、、あんまりよく覚えていません(食べたのは昨年のことですし)。覚えていないぐらいなので、そんなにクセがなく、フツーに食べられるものでした。
 下写真は、左から「焼き始め」→「ひっくり返し」→「出来上がり」です。

Img_1014Img_1017_3 Img_1016_4

 我が家では「大地を守る会」から一部食料を宅配購入しています。「大地を守る会」は、「たべまも」キャンペーンを行い、それとリンクする形で「食べること(利用すること)で生態系を守る」ことをしています。エゾシカ肉の販売はその一環です。
※「大地を守る会」ホームページ:ローカロリー、鉄分豊富で女性から注目。生物多様性を守るエゾシカ肉をウェブサイトで常時取扱開始

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