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2011年3月21日 (月)

見える「思いやり」

 思いはあっても、今、自分たちにできることは限られている。ACジャパンのCMでも「今、わたしにできること」といった被災地応援CMが流れ始めている。そこでは、「こまめに電気を消す」「デマに惑わされない」「買い占めしない」とのメッセージがあるが、あとは義援金と救援物資を送ることぐらいだろうか。

 本題に入る前にいきなり余談だが、ACジャパン(旧公共広告機構)のCMがヘビーローテーションになっていることで、「しつこい」などと抗議が殺到しているそうだ(3月19日朝日新聞朝刊テレビ欄『ウォッチ』「企業CMの自粛で激増」参照)
 ACジャパンはさっそくホームページにお詫び記事を掲載しているが、ヘビーローテーションになったのはあくまで不可抗力で、謝る筋の問題ではないと思う。苦情を寄せている人たちは、ふだんの番組がスポンサーである企業によって成り立っていて、そのスポンサーが震災後の状況を鑑み、CM(販促するわけだから、大半が明るい調子のもの)を自粛しているということに気づいていないのだろうか? いいや、気づいていても、どことなくソワソワしている現状にイライラもし、苦情のひとつでも言いたくなっているのだろう。

 震災関連でたくさん送られてくるメールの中にYou Tubeの応援動画メッセージも多数紹介される。その中のひとつにこんなメッセージがあった。(出典はこちら

 人は「+」のことも「−」の事も口から言う。
 「吐く」という字は口と±(プラスマイナス)からできている。
 だけど、苦しい時や夢や希望がある時に
 マイナスなことを言わないでみよう。すると「−」が無くなって
 「叶」という字ができる。夢や希望は「叶う」

 3.11を境に、日常が一変した。被災地から遠く離れた首都圏においてでもある。「日常」というものが、いかに薄氷の上に構築されているものなのかということを、今、まざまざと見せつけられている。
 そんな時に、プラスのこととマイナスのことを口にするのは、大きな違いなのだと思う。マイナスのことを口にされた時の負の連鎖は実感としてあり、言霊は決して迷信ではない。今こそ、“言霊の幸ふ国”とならなければいけないのだろう。

 さて、微力ではあるが、自分たちにできることとして、午前中に救援物資を届けに行ってきた。一昨日の折り込みチラシに、地元の飯能青年会議所(JC)が中心となって、家庭内に余ってある毛布、粉ミルク、生理用品など(もちろん新品、未開封品のみ受付)を市役所の駐車場で募集するとあった。義父母と義姉にもよびかけて、そんなに多くはないが、未使用の紙おむつ、タオル、カイロをかき集め、持参した。
 正直、宣伝が見落としがちな折り込みチラシである上に、9時から13時まで限定の受付、挙句の果てには
5_4朝から雨が降っており、どれだけ集まるのだろうと思って赴いたが、まったくの杞憂だった。

 駐車場には車が列をなして待機しており、倉庫のようなスペースにはすでに山積みの救援物資が集まっていた。 JCの人たちが冷たい雨に濡れながら車を誘導し、物資も手際よく仕分けしている姿には本当に感心させられた。 
 そして、みんなが「なにかせねば」という思いに駆られているのだと改めて感じ入ることにもなった。きっと、「“思い”は見えないが、“思いやり”は見える」現象が、私の地元だけではなく、全国各地で現れているにちがいない。ただ、これが一時の熱狂で、一過性のものにならないことを願う
ばかりである。

 帰り道、た7_4またまであるが東京電力飯能営業センターの前を通ることになった。休日だというのに、こちらも雨が降りしきる中、作業員たちが働いていた。はしごに足をかけ、玄関上に大きく掲げられた「低炭素」という赤地の看板を取り外している。彼らに落ちる雨の冷たさはいかほどだろう…。

 私の思いやる気持ちは、彼らには見えないのだと思うと、どうにもやるせない気持ちになった。
 ああは書いたが、「マイナスのことを口にするときもあっていいよな」、そんなことをワイパー越しに呟いてあげたくもなった。

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コメント

「思い」は見えなくて、「思いやり」はなぜ見えるの?
と思いながら、あのCMをみてました。

辞書(広辞苑)的には、「思いやり」も想像、思慮、同情
であって、心の中の活動であるからです。

たぶん、それでも思いを、「やる」(遠くの他者へ巡らす)
ことから、さらに「見える行動」に結びつけてイメージしたんでしょうね。

そして、
たとえ目に見える行動はなくても、お互いに「思いやる」ことがあれば、
心にはイメージとして見えるのかな?とも思いました。

(相手を)思いやれば、「無理もないな」とか、「お互い様ですね」と、
あまり一方的な不満もわいてこない心境になるのも事実ですね。

私もあのCMを見ていて、「思い」も「思いやり」もどっちも同じように見えないし、時に見えた気になるようなものだよなって感じていて、本当はあまり違わないですよね。

○「被災地だけど比較的メディア露出少ない茨城(計画停電に最初に指名(実施)された)、県外から心配している人に情報がなかなか伝わらない」とラジオで言っていました・・テレビ的に画がよくないからかな・・民放テレビも各社同じようなリポートが・・いつかの五輪では連携してやっていませんでしたっけ?まあしょうがないならNHKで頑張ってほしい
○うちのオヤジ、説明者を追い込むような等等の記者の振る舞いに対して文句言ってやろうと久しぶりに各民放に電話トライ!→つながらなかったが、同志がいるのだろうと安心してた
○被災地茨城ではガソリンを待つ人のモラル枯渇とのニュース→
http://www.ibaraki-np.co.jp/news/news.php?f_jun=13007182080102
残念です(T_T)。
○水は大丈夫でしょうか?ミネラルは赤ちゃんにまわそう!できるか?!
なんか性悪説(でしたっけ?)寄りになっています・・

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