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2011年5月 8日 (日)

我が家のGW

 "permanent(永久な)"と"agriculture(農業)"
 その二つををあわせた造語が"PERMACULTURE"(パーマカルチャー)。オーストラリアのビル・モリソン氏が、持続可能な環境をつくり出すためのデザイン体系として確立させたもののことを言う。

 GW後半は、前々から気になっていたそのパーマカルチャーという考え方に触れたくて、神奈川県の旧藤野町(現相模原市)にあるパーマカルチャー・センター・ジャパン(PCCJ)を訪れた。Img_1520_2GW中に開催されていた出入り自由(部分参加可)のゆる〜い企画「仲間づくり講座」に、8ヶ月になる娘もおんぶして家族3人で参加してきた。
 例年であれば、もう少し実践的な企画をしていたらしいのだが、震災の影響もあり、というか震災があったからこそ、“つながり”をつくることをしたいとの思いで企画されたもので、きっかけを作りたいと思っていたうちの家族にとっては好都合の企画だった。

 私たち家族がPCCJに到着したのは、圏央道の渋滞で予定より2時間遅れ。それでも自然とプログラムに入っていけたのは、ゆる〜い企画だけあってのことか? 日程最後の3日間だけの参加であっても、スタッフ・参加者の皆さんはすんなりと受け入れてくれた。
 到着後最初のプログラムは、取り置きしてくれた昼食をまずとることだった♪
(笑)

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 PCCJ創設者の設楽さんが、日本のパーマカルチャーの拠点として古民家を改築し始めたのが15年前の1996年。
 ハシゴのように上るアスレチック感覚抜群な急階段。人の気配を決して消すことのできない、歩くとミシミシ音を立てる床。一発では閉まらない建て付けの悪い障子。その不都合さすべてが母親の実家を思い出させ、心地いい。

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 最初にやったのが酒まんじゅうづくり。これはれっきとした「発酵」のレッスン。生きることのデザインには「おいしい」「楽しい」「美しい」などなど、幸福感と笑顔は必須である。

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 朝起きてまずやることは農作業。パーマカルチャーの農場は雑然としていて美しい。
 最初の朝はマルチ(mulching)作業(土壌表面をビニールや藁で覆うこと)。ここでは、切り取った雑草をそのまま使ってマルチにする。
 マルチの効用は、地温を保ち、乾燥を防ぎ、土壌浸食を防止することなどなど。実際の森でも落葉が同じ効果を果たしている。というか、それは森の専売特許であって、森のほうが大先輩だ。パーマカルチャーは、基本的に先輩である森に学んでいるにすぎない。マルチに関していえば、森の偽装ということになる。

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 農作業のあとの朝ご飯は、この上なく美味い!

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 源流を見つけにみんなで遡行。娘を背負っての山登りは、この上なく楽しい!


 みんなでコンポストトイレの製作にも挑戦。後日、東北の被災地に持っていき、実際に使ってもらうようだ。

Img_1538

 とりあえず枠組みだけは完成。素人としてはこれだけで感動!
 ただ、パーマカルチャーの実践者たちは、自分の住まいもデザインし、自分らで手がけることが多い。

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 講座期間中、グループに分かれて絵本づくりにも取り組んだ。「“デザインすること”は自己表現」とは設楽さんの思想で、創り上げる作業にこだわる。通年の講座でも毎年なにかしらの表現活動に取り組ませていると聞いた。今年の受講生は映像づくりに精を出すらしい。

 そんなこんなで3日間はあっという間に過ぎた。こじんまりとした集まりだったが、それ故に濃密でもあった。それはスケジュールがタイトだったということではなく、あくまでゆる〜い時間の流れだったからか。その心地よさは人にとって適度であるからで、適度さは豊かさとイコールなのかもしれない。おおよそ、どちらか寄りに常に過度であるのが普段の生活だから、“ほどほど”という適度さが贅沢に感じられるのだろう。
 今回は、乳飲み子を抱えての参加だったので、夜遅くまでお酒を酌み交わしながらという交流は叶わなかったものの、パーマカルチャーに共感する人と寝食をともにし、生活空間を共有したことの意味は大きい。妻は「本やネットじゃ、同じ学びはできないよね」と帰路の車中でしきりに話していた。結論、収穫あり!

 パーマカルチャーは農的な生活をすることと勘違いされがちだが、トータルに生き方をデザインすることなのだと、改めて感じることになった。
 日々、瞬間瞬間、デザインすることを求められていて、その連続が日々となっている。そしてそれが「自分」を形づくっていくことにもなっている。それに気づくと、明日起きて、納豆にするか、目玉焼きにするか、それは極めて重大な決断だということにも気づくことになるわけだ。

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コメント

(たぶん)、
「適度」と感じられたのは、そこに、別方向の
「過度な」ものがあって、中和されたからでは
ないかな?と想像しました。

また、同じように
本やネットとはちがうものがあったことで、いつもの
本やネットでは得られないものが、補給されたこと
で「快」が得られたのかなと思います。

田舎暮らしの人にとっては、たぶん、都会でのありようが
(両極端のものとして)同じような働きをするかも知れません。

ただ、都会での生活は短距離走みたいなところもあって、
続けていくのは厳しいかも。田舎暮らしはゆる~いジョギング
みたいで、長くはできそう(ただし「ドキドキ」はしない)。

一見、関係ないようだけど、原発推進派も反対派も、深いところ
では、それぞれの「快」を求めての行動のように思えます。
(個人差や立場の差とかありますが)平和や戦争もそうかも。
「欲望や快」をもとに考えると、ヒトの持っている行動原理が透けて
見える気がします。

瞬間瞬間にデザインしていきたいと思ったり、メンドウだと思ったり。
同じ人間でもいろいろと変わるのも、よく理解できるように思います。

快を発生させるには、変化し、補い、バランスをとることが必要で、
そうやって「ほどほど」になると、再び「極端」をめざすことでバランスをとる。。。
そのくり返し。

歳をとると、体力・気力の減退により、それらすべてが「面倒」になり、
「ほどほど」でのみ快を感じるように「変化」する。。。みたいな感じでしょうか?
(孔子の老境の到達点もそのようにみる説あり)

蛇足的追記:
個人的には、赤ちゃんを背負って山に登るのは。。。見てるだけで
もコワイです。
私は子どもを抱えたまま階段で転び、病院へ直行した覚えがあるので、
どんな他人にでも思わず(一度は)注意してしまいます。

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