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2011年6月 2日 (木)

8期生、心配ご無用!

 ひとつ書きたいテーマがあるのだが、それがどんどん後回しになっている。

 4月に開講した「国際開発教育ファシリテーター養成コース」(今年で8年目)は、今日で第7講となった。受講生同士、少しずつ名前と顔が一致し始め、場にもだいぶ慣れてきたように思う。
 今日はファシリテーションスキルの4回目。レクチャーだけでなく、そろそろ演習を入れてもいい頃合い。実際にファシリテーター役を立て、アクティビティを体験してもらった。
 ファシリテーションにどんなスキルがあるのかは、講義を重ねているので「知識」としては頭に入ったことになっている。だが、いざやるとなると頭の中がこんがらがる。最初のトライだからしかたないのだが、分かっていても悔しいものである。いつも帰宅の車中で「ふりかえりシート」
(受講生が毎回講義後に書く感想のようなもの)に目を通すが、今回はいつになく「ファシリテーションは難しい」のオンパレードだった。それを見たら、エールを送るつもりでブログを書いてみたく、ふとなったのだ。(只今、小手指駅通過中)

 人はスキルとして教えられると、徒にそれを意識してしまう。やろうと意識した瞬間、よっぽどでない限り、あらかたうまくはいかないものだ。
 当然だ。スキルは、普段、意識しないで遂行されている。前回講義では、『笑っていいとも』のタモリ氏と『徹子の部屋』の黒柳徹子氏の映像を観て、彼らがどのように場をつくり、どうゲストからコメントを引き出しているか、抽出してもらったが、当の本人たちは無論そんなことは意識していない。“意識しないで”遂行されるはずのことを“意識して”やろうとするのだから、邪念は入るわ、余計に初動が遅れるわで、ギクシャクするのは必至である。自家撞着だが、スキルは“スキル”として伝え教えられている時点では、スキルにまでなりきれていないのである。

 では、どうすればスキルはスキルに昇華できるのか? 
 それにはひとつコツがある。なにより相手に興味を持つこと。つまり、とにかく場をおもしろがる姿勢に尽きる。

 「へぇ〜、そうなんだぁ」
 「今のって、こういうことだよね?」
 「なんかもっと聞きたいんだけどぉ」
 「でもさ、こんな風にも考えられない?」
 「だったら、こういう見方もできるじゃん。ちがう?」

 これらは「頷き」「繰り返し」「興味・関心」「明確化」「ゆさぶり」...etc であって、前回と今回の講義で触れた“スキル”である。相手に、そして場に興味を持てるのであれば、あとは本能に任せるままで、概ね議論は展開していき、自ずと深まっていく。なにも「スキルを駆使してやろう!」なんて思わなくても、そのマインドが場を促進させていくことになる。ファシリテーターが人好きであることは必須の条件なのかもしれない。

 そういえば、こんなふりかえりも複数あった。
 「モヤモヤが残る…」

 今日やったアクティビティは『ちがいのちがい』

 「佐藤君はバレンタインデーでチョコレートを10個もらったが、鈴木君はもらえなかった」
 「日本の平均寿命は82.7歳なのに、アフガニスタンの平均寿命は43.8歳である」
 「先生はパーマをかけてもよいが、生徒はパーマをかけてはいけない」
 「ある高校のマラソン大会で、男子は10km走るのに、女子は5kmでいい」
 「ニュージーランドのマオリは小学校でマオリ語を習うが、アイヌは小学校でアイヌ語を習わない」

 これらに関して、あっていい違いなのか、あってはいけない違いなのか、グループで議論して考えてもらうというアクティビティだ。個人でならまだしも、グループ内でコンセンサスを得て、はっきり白黒つけるというのは至難の業だ。中には簡単に○×つけてしまうものもあるが、それだって変わった視点で読み解くと、そのひとつの意見で議論はまたもや紛糾し始める(例えば、「43.8歳という人生がどう過ごされたものなのか?というふうにみると、一概に長生きが幸せとは言えず、あってはいけない違いとも言いきれない」という意見を出してきたグループがあった)。やればやっただけモヤモヤ度が増すアクティビティなのだ。

 開発教育は、グレーゾーンに焦点をあてる教育活動だと私は認識している。否、それは厳密には正確に言い得ていない。社会の事象に対する判断は、ほとんどがそもそもグレーゾンなのだ。そうした認識のもと、どこに線引きをしていくのか、それを考えていくのが開発教育だと思っている。そして、それを深めていくのが、ファシリテーション。(これは前回の講義で触れた)
 今日の各グループの発表の中で、「中学生らしさ」とか「一般的に」といったワードが出てきたが、おそらくAさんの思う「中学生らしさ」とBさんの思う「中学生らしさ」は違うのであって、C世代の「一般的」とD世代の「一般的」もやはりどこか異なるだろう。Aさんにとってはパーマをかけたくなるのが中学生らしさであり、、Bさんにとってはオン・ザ・まゆ毛が中学生らしさなのだ。
 そうした幅のあるグレーゾーンのどこに線を引いていくか…。対話はすれど、共通の答えには至らない。「オープンエンドはどうも腑に落ちず、スッキリしない」というのは開発教育がこれまで幾度となく言われ続けてきた批判である。

 こうしたモラルジレンマを問う授業は、マイケル・サンデル教授の得意とするところだ(ちなみに、今日の講座では、昨夏、マイケル・サンデルが早川書房の招聘で来日した際に行った「白熱教室日本版」のDVDを視聴している)。そのサンデル教授は、ハーバードの授業の中で、次のように述べている。

私たちは当初、なぜ永遠に解決できない質問を提起しながらも、これらの議論は続いていくのか、と尋ねた。その理由は、私たちは日々、これらの質問に対する答えを生きているからだ。

 オープンエンドとは、答えを出さないで終わる授業のことではない。個々の学習者が、他者の意見に耳を傾け、自分とつないだり、戻したりしながら、めいっぱいに思考し、その時間の授業を全うしたところで、自分なりに現時点での“とりあえずの答え”が胸の内に秘められたことを言う。それは、“とりあえず共通ということにした全体の答え”(当然、純粋な自分の答えとは違い、若干歪められ帳尻を合わせられたもの。得てして予定調和的なもの)を確認するような授業ではなく、教室内に学習者分だけ多元的に解答が出されてはいるものの、自分で出したということに関しては揺るぎないものを感じられる場となっている。

 そうした議論を常々重ねながら、自分の答えが今日と明日で違ってしまっても、それをも受け入れ、みんな、もがいて自分の中に答えを持とうとしている。そうしていることが望むべく社会につながるのだと確信しているかの如く。
 一区切りの授業の中で、どうしても答えを導きたくなる人もあろうが、答えをみんなで確認し、スッキリすることには、いかほどの意味があるのだろうか? 一瞬スッキリして気持ちよくはなろうが、刹那的すぎはしまいか? きっとその出した答えの意味合いは、明日には変わっている。流動する社会において、固定した答えはそぐわない。

 私たちは答えの中を生きている。

p.s. 帰宅し食事をしてたら、ブログを書き終えたのは翌日でした…。「今日」とは6月1日のことです。

【参考】
堀公俊『白熱教室の対話術』 TAC 2011年
マイケル・サンデル『日本で「正義」の話をしよう[DVDブック] サンデル教授の特別授業』 早川書房 2010年

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コメント

いろいろと考えさせられる内容ですね。電車の中からも
書けるんですね。(オドロキ!)お体大切に。

「答え」って何?何のため?
「線引き」ってどうして必要?「面引き」とかもあり?
スッキリするってどういうこと?何のため?

とか、石川ゼミでは考えたくなること満載ですね。

追記:
高校生の生徒にプレゼンとかさせてみると、
(普段の授業でも気になるけど)聴いている人・見ている
を意識しなさすぎだなあと思います。音量、視線に特に
基本的な問題を感じます。
聞こえない発言や発表って、とてもフシギ。
また、言っている内容よりも目に入る情報の方が「優位」
(信頼度が高い)と思うので、どう見せる/見えるかは侮れ
ません。聴かせるいい話って、耳よりも目で聴いているみたい。

思わずコメント書いています。
某教授が『石川先生はファシリテーションの天才』と絶賛されていました。

“ファシリテーションの申し子”ですね。

私たちは答えの中を生きている。。。
深く心に響きます。
哲学に傾倒した息子が「人間は思考するからこそ価値がある」と
力説していました。答えは出ずとも、思考することによって道は
切り開かれると。
今は医学の道を歩みながら哲学を追究しているようです。

そういえば、
石川さんのWSって、まだ参加したことがなかった
ような。機会があったら、一度モグリで参加するので、
ヨロシクおねがいしま~す。

たぶん、やはり申し子のような木下さんや出口さんとは
また違った味があるんでしょうね。

今、学校では教育実習生の季節。

私も社会科公民の授業をのぞいてきました。
若々しい女性が、教壇から、戦後すぐの日本の
改革について講義してました。

よく準備して勉強した成果を発表して、生徒が
それをノートしているという図式。

う~ん、もったいないなあ。というのが初発の感想。

若いのに、もっと、こんな授業はどうですか?
みたいな冒険はできないのかなあ?暴投でも
いいから、若さあふれる星飛馬のようなネットに
ささるようなものを見てみたい。。。。

技じゃなくて燃えるような理想というか理念のようなもの。

ベテラン教員が夢にも思わないような見果てぬ夢のような
もの。Impossible dream.

参加型の授業とか、国内・国外での「復興」とつなげるような
ことも、できるなあ~と思いました。

でも、一生懸命やっていて、それ以上やってとは言えません
ね。お疲れ様。
(ビデオに撮ってもらって後で、冷静に「生徒目線」でみると
いいでしょうね)

「ちがいのちがい」というアクティビティは、
やったことがあります。面白いと思いましたし、
やりやすいので、自分でもやれるなと思いました。

ところで、この活動はグループでやるわけで、
そのグループ内でコンセンサスを。。。と求められる
けれども、そこにそもそもジレンマがありますよね。

どのグループの成員も「このグループ内での違いは
認められないのか?」と思っていると思います。

違いは認めるしかない。。。でも、違いがあると、ことが
進まない場合は、違いを越えてルールなど決め、線引き
をした方が便利な場合がある。。。(グループ内で時間内に
決めろと言われているのを意識すると、多数決で決まること
になる)

みたいなことに気づく。。。という活動なんですかね?

「木や葉っぱ」のちがいに注目するほど、多様性に気づきますが、
そこに(公平性とかを加味して考えると)息苦しくもなるかも。
逆に、
遠目に「森」をみると共通性が見えて、楽にはなりますね。

やはり、遠近両用めがね。。。の使い分けが、いいのかな?

「らしさ」でいうと、「グレーゾーン」や「オープンエンド」が
私の知っていた日本人は得意であったように思う。
(なんか、ほとんどそれだけ~みたいな)

でも、今どきの若い?日本人には、そういったものは
「自分らしさ」の項目にはあまりないのか、入れたくない
ものなのかも知れない。

「とりあえずの答え」をはたして「答え」と感じることが
できるのだろうか?会ったこともない8期生の人たちに
思わず訊ねたくなる。

もし、「モヤモヤが残る」のがなんか嫌なら、ある答えや共通認識
が得られて、「スッキリ」したあとに、「でも、こんなときは?」
とか「こんな反論はあり?」とかの、つむじ曲がり/ダメだし的発言
も「空気読めよ!」などと毛嫌いされそう。

でも、devil's advocate と呼ばれ、「議論を活発にするためにわざと
反論する悪役」を引き受ける知的デビルマンたちにも、君たち未来の
ファシリテーターたちは、進んでなってもらいたいなぁ。

ということで、私からの8期生へのエールの言葉は。。。
「空気は読めてもあえて読まず、悪魔の力を8期生!」である。

森井さん、たくさんのコメントありがとうございます。
しかも、会ってもいない8期生にまでエールをいただいて、恐縮です…。

昨晩(6/5)のスタンフォード大学の白熱教室で
高畑淳子に似た先生が以下のようなことを
おっしゃってました。

「グループごとに机をあてがうとグループ意識が
強くなり、グループは壊れにくいけど、イスだけだと
全体がひとつのグループになったりする」

「イラストをいれておくと、こんなものを作るんだな
という意識に自然になってしまっている」

DEARのMLでも「まわりの情報を自分の快感に
応じた形で取り込み習性」みたいなことが話題になって
ましたが、
人間ってすぐに外部からの影響を受けて、それに
適合させながら生きているんですね。

けっこう自由にやっているつもりでも、不自由に生きて
いるんあだなあと再確認しました。

ちなみに、
私もWSのとき、個人的な座学よりも、まわりとの協調/
適合が強く求められるので、マイペースがたもてなくなり、
まわりに気をつかうことにエネルギーの8割は消費されて
いるように感じるタイプです。(グループ内に、なんか気になる
メンバーなどいたら、もう大変!)

(まちがいなく総エネルギー量は増えているので、ハイになりながら、
後から疲れがドッとでる。。。パターンでしょうか)

気になる。。。といえば、このブログの木も
大きくなりましたね。もうすぐ発芽とか。

この木なんの木、気になる木~

という感じでしょうか?

そういえば、
全然関係なんですが、チカン撲滅?の歌を考えた
ことがあって、(ヒマ~)

この手誰の手、わたしの手~、みんなが気になる
手ですから、みんなが集まり~ クビになるでしょう~

とか。。。(アホですね)

たしかにスタンフォード白熱教室に出てくるティナ・シーリグ先生は高畑淳子に似てますね。そう森井さんが書いているのを見て、思わず吹き出しちゃいました。

昨夜の高畑・シーリグ・淳子?先生の授業では、クイズ形式で「ウソか本当か」を
見破るものがやられていました。

確かに盛り上がりましたが、その分、何を聞いたのか、(最後のまとめがないと)
印象が薄く、まったく思いだせないぐらいでした。

先生ご本人もその点、どうかなと思われていたように思いましたが、やはり、
シンプルでオーソドックスなものにも、充分、根拠があるようにも思いました。

また、
ウォーミングアップでは楽しんでやっていたチームのダンスを、最後では
罰ゲームの感覚で嫌がっていたのも、おもしろい変化だと感じました。
あれは、「外部の人(ゲストスピーカー)」が入ったからでしょうか?

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