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2011年7月10日 (日)

「○○風」という看板

 どうでもいい話をひとつ。
 今日、妻とランチを食べるところを探していたら、「カフェ 風(ふう)」という看板を発見! 結局、入ることはせず、概観を眺めるだけだったが、ログハウスっぽい建物で良さげな感じではあった。が、よくよく考えると、決して「カフェ 風(ふう)」などというカフェではなく、あくまでカフェっぽいだけの自称“カフェ風”だったのかも…って、わざわざそんな看板を自宅の前に掲げないか(笑)。

 数日前、米大リーグのレンジャーズ対アスレチックス戦で、観客席へ投げ入れられたボールを捕ろうとした男性ファンが、転落して死亡する事故があった
(CNN.co.jp 7月9日「米大リーグ、レンジャーズ戦でファンが転落死」。ファウルボールや3アウト後のボールをスタンドに投げ入れるのは、ファンサービスとしてメジャーリーグではお馴染みの光景だが、そうした慣習が今回のような事故を招いたのは皮肉以上の不条理である。

 今回のような事故がもし日本で起こったら、おそらく次の試合から「スタンドへのボールの投げ入れ禁止」の通達が出て、事故再発のみを最優先し、選手とファンとをつなぐ慣習を完全にシャットアウトしてしまうのではないだろうか。しかも、それは事故が起こった球場だけでなく、プロ野球全試合において徹底されてしまうように思う。

 事故後に開かれた会見では、レンジャーズのノーラン・ライアン球団社長が、「自分自身、球場に行く楽しみはファウルボールを捕ることだった。選手の立場としては、ボールを欲しがる子どもに機会があればあげたいものだ」と自粛しない方針を示した
(2011年7月9日朝日新聞夕刊スポーツ面「大リーグ転落事故、投げ入れ続行へ 『ボールねだる子 大事にしたい』」)。

 ノーラン・ライアンと言えば、160kmを超える速球を武器に、通算5714個の三振を奪い、7度もノーヒット・ノーランを達成した豪腕で知られる。当時、大リーグ中継がほとんどなかったにも関わらず、僕ら世代で彼の名を知らない野球少年はいなかったと思う。
 そんな豪腕で知られた名選手が、いつしか辣腕を振るう球団社長になっていた。

 事故再発を最優先するのは当然であるが、そこにしか想像力を働かせないのはどうかと思う。そこには、最悪の事態のみを避け、それに対する非難さえ免れることができれば、責任は負わされないという保身の姿勢をムンムンに感じる。事故を取り巻く考慮すべき要素は他にもあるのに、それを思考からは完全にシャットアウトしてしまう。そうした言動をとりがちなのは、結局、周りもそこしか評価の対象にしないからではないか。 
 一方で、ノーラン・ライアンが事故直後に「自粛しない」と強く言うことができるのは、それにしっかりと賛辞をおくる文化があるからだと言わざるを得ない。

 私たちは、悪いものを悪いとは容赦なく言うことができても、良いものを良いというのには勇気がいる文化のもとにいる。以前、知り合いのジャーナリストが「番組には苦情のFAXはあっても、良かったと評価するFAXは皆無に近いんです」と話していたことが思い出される。
 悪いものを悪いと言うのは、どこか“上から目線”的な立ち位置にあって言いやすく、良いものを良いと言うのは、“媚びへつらい”が背景にあって、本心でない場合が多いように思う。そうなると本当の評価はなかなか表に出てこないことになる。知らず識らずのうちに言動が評価されるもののほうだけに向くのは、悲しいかな、当然の帰結なのだろう。

 そんな文化はどうにかならないものかと思う。だから、豪腕を辣腕にした文化に学ぶべきなのだろう。
 ライアン自身の努力もさることながら、彼が名選手でありながら、名経営者になり得たのは、周りの風土が育て上げていったからだと言いたい。それが正しければ、“名選手、名監督にあらず”といった箴言は、日本にはあっても、アメリカには存在しないものかもしれない。
 結局、変化は1人のカリスマが起こすのではなく、そこが持つ文化が導いていくものなのだ。つまり、私たちひとりひとりの心がけ次第なのであって、そこから発する勇気が積もり積もって、なにがしかの文化へなっていくにちがいない。

 あ、ただし、本当にノーラン・ライアン氏が辣腕の球団社長で、日本が誉めない文化のもとにあるのかは、定かではありませんよ。ここまで書いておいて言うのもなんですが。あくまで、記事から察する「こうだろう」という私の先入観で語られているものであって、「○○風」といったステレオタイプの認識かもしれません。
 悪しからず。

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日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

いろんなことを次々と考えさせられた内容でした。

(石川さんのはいつも複数の内容が盛りだくさんで、
田中先生のと好対照?)

1.「~風」:
我々は、ぼやかすの好きですよね。
「こちらコーヒーになります」も「きゅうり3本ほどください」
などの表現もそのあたりが原因らしいし。

2.転落事故:
at your own risk(自分の責任において)
ということをよくいう文化がある、と鈴木孝夫氏が書かれて
いたのを思い出しました。

3.ほめない
ほめると自分の位置が下方に移動するように感じるので
しょうかね?けなすと逆の効果はありそうですね。

追記1:
昨晩の「白熱教室」(東京工業大)を見ていて、
「危ないつり橋を渡ろうとする人を止めるか」は、
かなり自己責任の問題かな?と思いました。
日本では「自己責任」は冷たすぎると思われるでしょうね。

宇佐美教授、なぜ講義のあとに意見をいわせるのかな?
あれ、その順序を逆にするだけでも感じが変わってくるように
思うんですが。。。
あの授業で意見や疑問を自由にだすのはかなり困難な気が
します。でも、日本の学校では、あれでも先生は白熱していて
かなりいい授業なんだと思います。(希望者が残って議論する
なんて、今どきそんな学生がいることだけでも素晴らしい!)

追記2:
MLで紹介されてた和歌山での国際理解教育の大会。
船で行こうかなあと。。ちょっと考えたりもしてます。根性が
ないのでわかりませんが。。


リスクはつきものの世の中だとは思っていても、
最近は、(ずっと以前からの願望もあるので根深いが)
「完全に安全」というのを、理想や建前ではなく本気で
求める人が増えたように思います。

(原発などは影響が大きいのでその分しっかりとすべき
点が多く、ボールの投げ入れとは別次元の話ですが)、
このボールの話のようなレベルのものにも事故の可能性
を除こうとするあまりに全面禁止にして、まずは責任から
のがれようとする動きが出るのは、残念。

天気予報があたるようになってから、人々が(偶然性など
に対して非寛容な)傲慢さをいやましに増したような気が
しています。

水清ければ魚棲まず。とかくこの世はすみにくい?

さらに付け加えれば、

(日本的なものとして?)
良いも悪いも、その時勢による。。。みたいな
ところが、良い意味でも悪い意味でもあるような。

普遍的な真実よりも、相対的な流れに身を寄せて
いかば、それが一番賢いのだ。。。。みたいな。

私も自戒する必要があるところです。

とりあえずの処方箋は、多数派にならない。
完全につぶされない程度に?天の邪鬼で
いる、ぐらいでしょうか。

問題点は、時流が変わると別のことを言って
るので、信用されない。結局は、時勢にあわせて
(反対のことを)言ってるいるだけ。

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