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2011年8月

2011年8月31日 (水)

校舎にいだく未来

 うちの裏の踏切の向こうには神社がある。そこには境内で遊ぶ子どもたちの姿を見たいと思うのだが、なかなかそういった場面には遭遇しない。もちろんまったくないわけではなく、時折遊んでキャッキャと騒ぐ彼らの声を耳にすると、自ずとこちらの表情も和らぐものだ。甲高い子どもたちの声は、不思議とうるさいとは思わず、いつの間にか、自分の幼少期と重ねあわせ、輪に入っている錯覚さえ覚える。
 
少子化の影響もあろうが、「境内」と「こどもたち」というベストマッチは、土門拳や木村伊兵衛の写真集の中だけのものになってしまったかのようだ。それでも愛くるしい子どもたちの声を探そうとするのは、まさにそれが夢だからなのである。

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 恒例となった石川ゼミの夏合宿
(8月29〜30日)は、今年、相模原市藤野町で行った。宿泊地としたのは、人口250人程度の集落にある「篠原の里」。2003年、過疎化を理由に廃校となった小学校が、地域住民が憩える場となるよう、2005年にオープンさせたものだ。里山文化を守り、エコロジカルな暮らしの発信していくことをコンセプトとしており、地元木材を利用して改装されていたり、化石燃料の使用を減らせるペレットストーブを置いていたりする。トイレは下水完結型で、バクテリアが分解してくれるバイオトイレになっている。

 小学校としての風景は消えたものの、保育事業は行っており、教室で話し合いをしていると、やはりキャッキャと声が届いてくる。見れば、みんなでスイカ割りをしているではないか。Img_2169

 事務局を担っている後藤さんに話を聞けば
 廃校が決まった時、この場の処遇をみんなで喧々囂々とやったのだそうだ。それぞれの意見が交錯する中、結局、みんなが同じ方向を向いたのが「子どもの声がするところがいい」との声があがった時だったという。
 住民たちが拠り所にしようとしたところは、子どもたち当人は無邪気で感づいていなくとも、しっかと未来を向いている彼らを感じていたいという思いと彼らと共有できる空間だったのだ。

 廃校になるまで子どもをここに通わせていた食事スタッフの方は、「児童が数人しかいないのに、村中の人が集まってきて賑やかで、それはそれは楽しい運動会でしたよ」などと話してくれた。その記憶がとびきりの財産で、思い出すだけで幸福感が湧き上がってくるかのようだった。

 昔は、地域の要としてお寺や神社が果たしていた機能を(廃校になったものも含めて)今は学校が担っていけるのではないかと思っている。それは単なる行政的な意味合いからではない。良くも悪くも日本人の大半の記憶が学校にとどまっており、他人の記憶であっても自らの記憶であるかのように感じられるため、同じ引力が働きやすい(当然、かなりの拒絶感を抱く人も相当数いるだろうが)。それは“懐かしさ”とは一線を画すものである。

 今日、仕事で伺った清春芸術村ももとは小学校があった場所だ。校舎の周りをコの字に桜が取り囲み、それを見て、小林秀雄が誉めたたえ、「ここに芸術村をつくりなさい」と太鼓判を押したところである。

 学校という空間が持つ不思議な魅力については、また改めて書きたいと思う。

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〈石川ゼミ夏合宿アルバム〉

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 合宿初日は、パーマカルチャーセンタージャパンでお世話になった(参照:「我が家のGW」)。
 畑で草刈りをさせていただいたが、手塩にかけた土壌がここでも少なからず原発事故の影響を受けている。除染効果を期待し、ヒマワリを例年より多く植えたそうだが、異常に大きく育っている。皮肉なことにセシウムがいい養分となっていると言う。

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 小学校を改築したため、黒板はそのままで、懐かしさ全快だが、怖さも同居する。夜中、トイレに起き、真っ暗な廊下を歩いていると花子さんからの返事が返ってきそうなのである(笑)。

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 我がゼミ生たち。ワールドカフェで合宿を総括しつつ、紅陵祭(学園祭)出展など後期のゼミ活動に向けてアイデアを出し合う。

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 藤野の空はとにかく青かった。抜けるような空とその清々しさは、山あいにあったからだけではなく、すでに秋が顔を出しているからにちがいなかった。

2011年8月27日 (土)

23年前の夏、高田高校と

 私は高校球児だった。大まじめに甲子園を目指す球児だったのだ。
 今でこそ、岩手県代表はいくつかの私立高校が決まって毎年甲子園に出場するようになったが、私が白球を追ってた頃は、まだ県立高校にも出場するチャンスが多分にあった。事実、私が通っていた水沢高校は“古豪”と呼ばれ、たびたびベスト4か8までは勝ち残り、その度に「古豪復活!」などと新聞の見出しで囃し立てられた。
 しかし、“古豪”などと書かれるところは、「いい線までは行くけども」といった皮肉めいた含みが込められているものだ。私が記憶する限りでも3回ほど母校は決勝まで残っているが、一度もその先を経験したことがない。

 23年前もそんな夏を私たちは送っていたのだった。

 第70回記念大会となった1988年(奇しくも昭和最後の大会となった)、我が水沢高校野球部は県予選で優勝候補の一角に挙げられていた。新聞記事の下馬評では◎をつける記者もいたほどだ。
 当時、私はまだ2年生で、ぎりぎりベンチ入りするかどうかの選手で、夏の県予選では最後の最後でベンチ入りメンバーから外された。それでもあの夏、甲子園が見えかかった記憶は、球場の空気感とともに鮮明に残っている。

 ただし、甲子園まであと2勝と迫った準決勝で、高田高校が立ちはだかった。結局、高田高校は勢いそのままに決勝でも勝利し、甲子園初出場の快挙を遂げる。秋の大会でもやはり同じ準決勝で高田高校に敗れており、雪辱を果たすつもりだったが、どうしても勝つことはできなかった。

 あの年の高田高校は強かった。バランスの取れたそつのないチームで、全く歯が立たないというわけではなかったのだが、9回終わる時にはしっかりと勝利を手にする、そんなチームだった。

 今、朝日新聞夕刊の「ニッポン人脈記」という連載では「甲子園 雨 3・11」と題して、当時の高田高校野球部員のポスト311を追っている。
 四十を超え、頭がやや薄くなったエースの写真で見る面立ちは、私のかすかな記憶を辿ってもどうしても結びつかない。それほど年月が経っているのだと改めて思い知らされる。あの夏が23年も前のことだとはとうてい思えないし、思いたくもない。が、311を境に高田高校野球部16人の悲喜こもごもの人生が交錯していく様を読んでいくと、自らの23年間もそれらと平行して浮かんでくるようである。おそらく彼らの人生と私の人生が交わることがあれ以来ないのだろうけども。

 甲子園に出場した高田高校は、兵庫県代表・滝川第二高校と対戦する。先制するもジリジリと点差を広げられ、雨脚の強くなった8回裏、56年ぶりとなる降雨コールドを主審から告げられた。
 甲子園では、どんなに点差をつけられようが、各地区の代表としての誇りをもって、原則、9回まで戦い切る権利を与えられている。その基本的に与えられている権利を果たせなかったことに対し、作詞家の故・阿久悠氏が「コールドゲーム」と題した詩を寄せた。

 初陣高田高校の 夢にまで見た甲子園は

 ユニホームを重くする雨と 足にからみつく泥と

 白く煙るスコアボードと

 そして あと一回を残した無念と 挫けなかった心の自負と

 でも やっぱり 甲子園はそこにあったという思いと

 多くのものをしみこませて終わった 高田高校の諸君

 きみたちは 甲子園に一イニングの貸しがある

 そして 青空と太陽の貸しもある

 この詩は、校舎の前の石碑に刻まれているという。校舎3階までをものみ込んだ津波にも耐え、今も阿久悠氏の思いが響いている。
 彼ら16人の人生には、青空と太陽がとびきりに輝くチャンスが、まだ残されている。

【参考】
朝日新聞 〈ニッポン人脈記〉甲子園 雨 3・11(1)
http://digital.asahi.com/articles/TKY201108110306.html?id1=3&id2=cabbaibc

スポニチ「故・阿久悠さんなど縁あって連載開始」
http://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/takata/kiji/K20110613001007790.html

スポニチ「唯一、阿久悠さんの詩が刻まれた石碑は無傷だった」
http://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/takata/kiji/K20110511000796420.html
※ここに出てくる高田高校野球部監督・佐々木明志氏は、中学校の7年上の先輩であり、うちの床屋にも散髪しにちょくちょく来ていた。また、弟が水沢高校野球部で部長をしていた時の監督でもある。

2011年8月26日 (金)

ケータイのある暮らし

 通信業界の勢いはすさまじい。卑近な例を挙げれば、プロ野球の母体企業をみればいい。昔は鉄道系のものが幅を利かせていたが、最近参入したところといえば、ソフトバンクであり、楽天であり、情報通信系の企業になってくる。

 この情勢は、世界をみても変わらない。
 私が今夏訪れたウガンダ、マレーシアでもそうだった。地元の新聞や看板広告を見れば、統計を見なくともおおよその状況は把握できるものだ。

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 これらの写真は、ウガンダ滞在中にケニアへとつながる幹線道路を移動の道中で撮ったものである。 車中から時折現れる町を眺めれば、両脇に見える商店(あるいは民家なのか?)の多くには広告ペイントが施されている。あくまで印象のレベルだが、半分ほどは通信会社のものであるように感じられた。

 偶然(本当に偶然!!)、ウガンダの片田舎でJOCV(青年海外協力隊)として2年前に派遣されていた知人に出会った。せっかくなので、一緒に町の食堂で昼食をともにすることにし、道中の様子を彼に聞いたところ、4社(上記写真にそれぞれが写っている)がしのぎを削って、シェア拡大に躍起になっているのだそうだ。

※ちなみに、その偶然出会った知人は、私が担当している講座の3年前の受講生で、次のHPでその活動が紹介されている。
 JICA『世界HOTアングル』 「金色の稲穂より輝く」 
 http://www2.jica.go.jp/hotangle/africa/uganda/000898.html

 3年前に出した拙著『ケータイの裏側』コモンズ)では、「アフリカは、固定電話回線数の倍以上に携帯電話のインフラが整備され、急速に普及しつつあるとはいえ、普及率は10%を超えたばかりである」(p59)と書いた。その時点での確認できる最新情報のはずだったが、その数字はすでに50%近くになっているようだ。国によっては100%に近い普及率を達成しているところもある。(WirelessWire News「急成長するアフリカ携帯電話市場」

 インドや中国といった新興国が台頭するアジア以上に、アフリカは携帯電話契約数の成長率が高い。固定電話のインフラを整備するよりは、携帯電話のほうがコストが抑えられることが、アフリカがその潜在性を持ちうる理由となっている。
 私が移動するバスの窓外に見た光景もまた、それを裏付けるように、片手に携帯を持つ多くの人々の姿があった。
 彼らの生活は、その道具を持つことで豊かになったのであろうか? 
どうもそんな風に大げさに考えてしまうのだが、考えるだけ無駄なのかもしれない。

 拙著での私担当の章の締めくくりは、取材したNECの技術者の次の言葉を紹介している。

 「人間が持つモノとして身体機能的な側面からみた場合、ほぼいまの形が完成形でしょう。いまのケータイの機能を満たすうえで、それほど大きな形態変化はもうないと思います」

 道具はどんどんと進化する。過去の人間の想定以上に。
 けども、スマートフォンを片手にする私の生活は、幸福度を増すことになったのであろうか?
 実感としてそれはあまりない。根本を変えられたような気は到底しないのだ。

 だとすれば“進化”とは何なのか。単に自己満足であると思えなくもないが、よく分からない。
 それでも時代は“進化”していく。それに抗おうとまでは思わないが、それについていこうと食らいついてくのもどこかしっくりこない。だったら、ただひとり止まってみるのもいい。結構気持ちのいいものなのだと思う。 
 

 

2011年8月23日 (火)

わ、ショック!

 この夏は海外で過ごす期間が長く、つまり日本食から遠ざかることと自ずとなった。歳をとったせいか、やはり変わったものが続くと日本食を欲するようになったものの、それでも1〜2週間であれば我慢できる範疇である。
 なのに、どこかのタイミングで日本食屋さんに入ってしまう習性が私にはある。それは日本食が恋しくなるという渇望からではなく、「外国人がつくる日本食って、どこまで“日本食”なの?」という好奇の目からなのである。

 例えば、初めて行った海外であるケニアでは、面白半分に天ぷらを頼んでみたのだが、見た目から食感から何から何まで、あれはフリッターに違いなかった。
 カナダで食べた寿司はかなりイケてはいたが、すでに「寿司」ではなく、「Sushi」となって独自の進化を遂げ、創作料理的な様相を呈していた。寿司屋でバイト経験のある私ですら見たことのない巻物は、皮肉を込めてアーティスティックだったと称しておこう。

 同じことをもちろん日本でもしているのだろう。が、日本であろうが、外国であろうが、そのことに当の本人たちは気づかない。
 海外に出て自国の文化に触れ、初めてその面白さ(奇怪さ)に感動できるのである。

 マレーシア滞在の最終日、基本、各自で自由行動する日と設定した。私は、研修中、唯一、完全自由が許されたこの限られた時間で、論文作成のための資料を収集せねばならなかった。そこで、タクシーを借り切り、クアラルンプール市内郊外、車を走らせ、なんとか最低限の仕事をすることはできた。
 安堵の中、翌朝には成田に降り立っているというのに、例の習性がむくむくと顔を覗かせ、少々迷った挙句、結局、昼食に日本食をとることにした。
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 幾分かは観光気分も味わいたいため、少し前まで世界一の高さを誇っていたツインタワー
(20世紀の高層建築としては最も高いらしい。対になっている建物としてはいまだ世界一を誇る、がどうでもいいんじゃないかな。東京スカイツリーも電波塔としての高さ世界一になりたくて、むりやり積み上げた感があって、なんとも卑しく思えてくる。と言いつつ、見事に一観光客になっていたのだが…)にまず向かいレストランフロアにあった「YUZU(柚)」というジャパニーズレストランに入った。

 そこで私が注文したのは「鰻御膳」
(下写Img_2121真)。 日本円に換算すると1,500円相当なので、かなりの代物である。ただ、見てお分かりの通り、「鰻御膳」と名乗りながら、寿司も天ぷらも刺身もある。これが「寿司御膳」でも「天婦羅御膳」でもよかったぐらいの主役乱立豪華絢爛の御膳である。(ちなみに、実際の「寿司御膳」らしきオーダーだと、階段状に盛られていた。前の席の欧米人が食べていたので、写真を撮らせていただいた。写真下)
 妻にこの写真を見せたら、鰻が石焼になっているせいか、「ステーキもついてたの?」と見まがうのだから、鰻の
存在がかすんでしまう。

 それでも日本ではあまりお目にかかれないこの豪華さに、ビールでノドを潤し、さっそく口にすることにした。

 あれ、刺身の食感がモソッとする。
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 あれあれ、天つゆも出汁の利きが微妙に弱い。
 ムム、わさびは、成分なのか配合なのか、化学式で表したら違うものなのではと思われる。

 これは
似て非なるもの。

 とはいえ、かなり遅めの昼食だったから、おいしくいただいた。そもそも私は鈍感な男だから、及第点は十分に与えられる。
 最後に急須でお茶が用意されているようだったから
(膳の右下)、久々の緑茶でしめれば「終わり良ければすべて良し」なのだ。

 心を落ち着かせ、(日本的に)両手でお椀を持ち、口へ持っていく・・・

 「ん、なんだこれは…。昆布茶か?」
 日本人が日本食を口にして、驚いている様子を悟られては沽券に響く。
 さらに二口目・・・やっぱり変だ! そもそも「お椀」とは言ったが、置かれていたのはお猪口のように小さいではないか。どうもおかしい。

 ちょうど店員が近くを通ったので、"What is this?" と聞くと、「あ〜、それは日本人のあなただって美味しいと思うでしょ♪」と自信ありげに、"Oh, Japanese soup"と歯切れよく回答が返ってきた。
 急須のふたを開けてみると、中にはしいたけ、三つ葉らしきものが入っているではないか! お茶だと思って飲めばビックリするが、スープだとはなから思えば、たしかにそこそこ美味しくはある。

 が、急須に汁物???

 海外で食べる日本食は、日本食そのものというよりは、「日本食ってこうだろう」というフィルターを通ってデフォルメされてしまうことが多々ある。イメージで何かをしようとする時は、差し引いて八分ぐらいで考えるのがちょうどいい。
 ただし、そんな時でなければ、突拍子もない新しい発見に出くわすことだってない。大ヒット商品なんてものは、そうした奇抜さが糸口になったりするものだ。
マイナーチェンジして逆輸入され、定着していった文化だってあるのだから、数年後、これが日本で流行ることだってあるのだ。そう思えば、これもきっとアリだ。

 いやいや、そんなことはない。最後、急須の口から出てこなかった具材を箸でつつく私はそう確信し直した。

 マレーシア滞在最後の日に経験した「わ、ショック!(和食)」なお話でした。
 どんどはれ。

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2011年8月15日 (月)

飛行機の下の雲

Img_2085_6子どもの頃は見上げていた雲を上から見る。とても不思議で、好きな時間。

少しだけ支配的な気分になるが、すぐに自分がその一部であることに萎縮する。

雲が呼吸し、川が脈を打つ。
その躍動感が窓越しにも伝わってくるものだから、飛行機は窓側の席に限る。

ぼーっと眺めていると、いつの間にか時を忘れている
いくら見ていても飽きないのは、地球と自分の鼓動が共鳴しているからなのだろう。

きっと、空(そら)を見ていて、人は世を空(くう)であると感じたにちがいない。否、空(くう)という仏語が空(そら)を空(そら)として見るようになったのだろうか…。

いずれにしても私たちは何かの因縁でつながった一緒のものである。

帰りの機中、私はまたぼーっと空を眺めようと思う。




2011年8月 9日 (火)

マレーシア到着

 今、マレーシア・サラワク州のシブにいる。昨晩深夜に羽田を出て、シンガポール経由で半島を離れ、クチンに着いた。入国審査を終えた後、さらにそこから国内線に乗ってシブまで来た。海外旅行はローカルになればなるほど、面白さを増し、最後はプロペラ機に乗っての到着である。Img_1941
 余談だが、羽田発の国際線が増え、非常に便利になったと思う。私が住む埼玉の西部からだと、感覚的に成田だろうが羽田だろうが「遠い」という印象に変わりはなかったのだが、国際線用の駅を降りてからのコンパクトさが心理的な負担を軽くする。まだまだ利用者数がそれほどでもないからそう思わせるのかもしれないが、結構使える気がする。ちなみに、なぜか帰りは成田着である。

 先週まではウガンダにいたのだから、身をもってグローバルな世界になったのだと思う。こうしてマレーシアの一地方都市から日本とコミュニケーションできてしまうのだから末恐ろしくもある。途中の空港内でも今いるホテルでも無線LANでつながってしまうのである。
 ただ、体は正直だ。さすがに丸一日の移動となったウガンダから帰国した翌日、朝食時まではなんてことなかったのだが、みるみる体調が悪くなり、熱も38度まで上がり、けだるく身動きを取るのすら億劫になった。もしやマラリアかデング熱かと最悪の事態が頭をよぎる。週末は、開発教育全国研究集会の実行委員長という大役を仰せつかっていただけに(ただ、あんまり仕事はなく、お飾りなんですが)、迷惑はかけられないと思い、急遽、義父の車で埼玉医大の急患センターに連れて行ってもらった。幸い、検査の結果、どちらでもなく、熱さえ下がれば、公の場に出てもいいし、週明けのマレーシア出張もOKとのお墨付きをいただいた。妻曰く、「死人のようだった」という状況だっただけに、あっけない診断に肩すかしを食らったが、何はともあれ、快復するにこしたことはない。翌朝はすっかり熱が下がり、実行委員長の任を果たし、今こうして立て続けの海外出張もこなせそうな雰囲気である。
 しかし、油断は禁物。今回の一件で、40歳になったことを自覚せねばと重々承知した。でも一方で、一日でケロッと快復できる若さもまだあるのだとも思いたい。不惑の歳に、心身のバランスぐらいはとれるようになりたいと思う。

 さて、途中のクチンで昼ご飯をとることになった。同行してくれているマレーシア通(特にサラワク)のマイチケット荒川さんに完全にお任せで、地元の食堂に入ることになった。が、目的の場所に着くと、閑散としている(写真左奥に見えるのは、昼飯にありつけず、がっかりな思いで歩く参加者たち)Img_1936 さすがの荒川さんもすっかり頭から抜けていたようなのだが、今年の海外研修期間中はラマダンにすっぽりとかぶっている(今年は8月1日から29日まで)。こうした経験も現地に来たからこその一興である。

 結局、おそらく経営者がラマダンとは関係のない中華系の人であろう食堂を探し出し、そこでマレーシア最初の食事をとることになった。
 みんなは麺系で、名物ラクサ(LAKSA 簡単に言えばカレー麺。でも日本のカレーうどんのイメージではない)などを食すが、自分はオーソドックスなナシゴレンを。日本だとおしゃれに盛りつけられるが、ここではシンプルな炒飯である。Img_1938 でも、それでいい。最初の食事だから、まずはおとなしくスタートしたい(40歳を超えたことだし(笑))。

 昼食を終え、ホテルに向かう途中、店頭で総菜などを売る風景が見られた。荒川さんの話では、ラマダン中は作るのも面倒になるので、日が暮れた後に食べることができる食事を今のうちに調達しておくのだそうだ。
 食のありがたさ・大切さを感じるのが、このラマダンの意味とも言われているが、食事を作れること・作ってもらうことへの感謝も同時にすることになっているだろう。

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 宗教上の試練とはいえ、厄介は厄介だ。それでも不便さをできるかぎり楽しく乗り切りたいとの思いが、“人間”だからこそ垣間見えてくる。そんな庶民の様子に触れられる時、旅のありがたさを思う。まったく知りもしない、一期一会であろうシブの人たちにそうしたシンパシーを感じると、なぜか少しだけ心が太くなるような思いになる。なんか自分もやっていけそうだなぁ、と。それがなにかはまったく検討つかないのだけど、つかみどころもないのだけど、あくまでそんな雰囲気にだけはなれる。

 不便さといえば、今の日本の節電モードもそうで、これもいわば日本国民に課せられた“現代の宗教的試練”であるのかもしれない。半ば決まり事であるかのような空気に強制され、不便さを感じることになって初めて、電気の大切さ、ありがたさを感じている。
 私たちのこの「ラマダン」がいつか明けたとき、欲望に任せるままに暴飲暴食しようとするのか、はたまた違う姿を見せることになるのか…。ラマダン中は、日が沈んでいる間に喰いだめをしたり、いつもより豪勢な夜食になったりするため、むしろ太ってしまう人もいるらしい。

 そんな話を聞きながら、日本に思いを馳せてみる。外に出ることが鏡となり、日本のことが見えてくる。まったく突拍子もないところからの発想でも、改めて自分が見つめ返される。
 それもまた旅の一興である。

Img_1944※上記写真はTanahmas Hotel Sibuの11階自室から見えるシブ市街の夕暮れ 

※ウガンダ報告も2本ほどは書き加えたいと思っています。おかしなタイミングになりそうですが、乞うご期待。

2011年8月 2日 (火)

赤道は本当に赤かった!?

Img_1892_3  昨日、はじめて赤道をまたいでみたのだが、文字通り、赤道は本当に赤かった! 左写真の私の表情を見てもらえれば、その驚愕ぶりがよく伝わるのではないだろうか(んなわけないか、左手で赤いひもを押さえているのがバレバレだし(笑))。

 ここウガンダは赤道直下の国でありながら、平均標高が1,000mを超える高地にあり、今は非常に過ごしやすい。これまでの滞在で、灼熱の太陽がガンガン照りつけるといったことは、ほとんど経験していない。
 日本のうだるような猛暑を逃れ、結果的に避暑に来たようなものである
(伝え聞くところによると、今夏はおかしな天候が日本で続いているらしいが)。

 そもそもウガンダという国にどれだけのイメージを持つことができるだろうか。“アフリカ”というところでのイメージは抱くことはできても“ウガンダ”に特定されると、一気にその想像力は皆無になるのではないだろうか?

 今回お世話になっているJICA(国際協力機構)ウガンダ事務所所長の話によれば、手塚治虫の『ジャングル大帝』と
ビクトリア湖で獲れるナイルパーチで、私たちとウガンダとの馴染みを感じることができる。
 
『ジャングル大帝』は、ケニアあたりのサバンナがイメージされやすいが、タイトル通り、舞台は“ジャングル”である。明記されているわけではないが、どうも手塚治虫は、ウガンダを舞台として描いたのではと言われているそうだ。
 また
、ビクトリア湖で獲れるナイルパーチは、マクドナルドのフィレオフィッシュとして使われているとのこと。ナイルパーチが(とりわけグローバル経済において)重要な食用魚であることは、映画『ダーウィンの悪夢』でご覧になった方にとっては周知の通りである。ただ、こういった類のドキュメンタリー映画にありがちだが、こちらに長く滞在しているJICA関係者の話では、事実誤認(というか作為的な編集)の箇所があると言う。とはいえ、遠いビクトリア湖で獲れたクセのない白身魚が、給食のフライや回転寿司のネタとして、おそらく一度は私たちの胃袋に入っていっているだろう。

 そんなイメージすらなく、「ウガンダ」と呼ばれる芸能人がいたなぁとうっすら思い出す人もいるだろう。今で言うデブキャラの先駆けである彼の芸名は、ウガンダのイディ・アミン元大統領に似ていることからつけられたのだそうが、自分世代の幼少期には、“アフリカ”といえばそれぐらいの貧弱なイメージしかなかったように思う。
 たしか中学の時だったと思うが、はじめて友達同士で映画を観に行けるようになり、ワクワクしていたら、『食人大統領アミン』という映画の予告編が流れてきてた。そこには人の生首を冷蔵庫に入れてあるシーンが映り、当時、流行っていた『13日の金曜日』のようなホラー映画と同列にそれを捉えたように思う。それでも「世の中には、なんてひどい大統領がいるのだろう」と子どもの私には、それが“事実”となり、アフリカはそんなことも当然起こりうるところだとの認識ができた。ウィキペディアでみれば、アミン大統領は菜食主義者であったとも書かれているのだから、そうしたイメージがどこでどうつくられていったのか、不思議である。

 子どもの頃の記憶だから認識が違っている恐れはあるが、当時は、そこに疑問を挟むような風潮はなく、アフリカというのは想像ができないようなことが起こりうるほど、私たちとは(距離的にも文化的にも心理的にも)かけ離れたところにあるものなのだという“共通理解”があったように思う。アフリカの(原始的と思われるような)部族を物珍しげに紹介するテレビ番組も当時は結構あり、そっちの方向でどんどんアフリカのイメージが増幅されていったと思う。

 さすがにインターネット社会になり、その誤解は今でこそだいぶ解けた。しかし、そこまでひどくなくとも、過去に増幅された負の記憶の遺産が完全に振り払われてはおらず、どちらかといえばネガティブにアフリカを見ている人の割合は、あまり変わっていないのではないだろうか。

 すでにウガンダでの滞在はあと二日を残すのみとなってしまったが、アフリカ・ウガンダをできるかぎり肌感覚で感じとっていきたいと思う。
 小学校の卒業文集で「アフリカ探検をしたい」と夢を語った少年は、今そこがすでに“探検”をするような場所ではないことを知り得ている。大人(というかオッサン)になった少年の目に、どうアフリカが映ったか、これからブログで綴っていきたいと思う。

 余談だが、その卒業文集にはもうひとつの夢が書かれている。「バースと掛布とクリーンアップを組んで、阪神タイガースで活躍する」というものだ。
 あれからもう30年近くも経ったとは、にわかに信じ難い。それほどの年数が経てばまったく違う世界が広がっていると空想していたが、半分はそうで、半分はそうでない。体感はしているのだけど、30年という月日の長さを改めて感知するのは難しい。
 舗装が十分でなく、ガタガタに揺れるバスに乗っていると、30年後のウガンダがどう変貌しているのか、早く見てみたいとも思う。今度、爺さんになった少年は、きっと半分は記憶のままに、半分は記憶以外の新しさを、もし30年後のウガンダの地に降り立ったら感じるにちがいない。

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