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2011年9月

2011年9月26日 (月)

M氏へのオマージュ

 尾道の空は広くて、青くて、雲が本当に白かった。

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 向島の高見山から望む瀬戸内海と風にただただ癒される。
 しまなみ海道でつながるその先には、四国が見える。いつも私のブログにコメントを寄せてくれるM氏はそこに住んでいる。そちらを眺めて、M氏へオマージュ。

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 自転車だと80kmほど漕げば、愛媛・今治に着くのだそうだ。自転車で渡れるなんて、考えただけで
(40歳のオヤジだけど)ワクワクする。
 次は絶対、自転車を漕いで四国へ渡ってやろうと思う。

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 何人ものサイクリストが見慣れない青の線に沿って、ひた向きに漕いでいる姿にちょくちょく遭遇。その青の線は、自転車を漕ぐ人たち用のしまなみ海道の道しるべ。
 そんなことを教えてくれたのは、向島出身で、うちら夫婦の共通の友人、こちらもM氏。
 向島ご自慢の(あくまでM氏の個人的見解だけど)高見山とカレー屋とそこのオヤジ、そして飲み屋と浜辺に連れていってくれた。短い滞在だったけど、向島満喫! こちらのM氏にもやはりオマージュ。

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 うちの娘も自然とご機嫌になる。そりゃ、そうだ。そうさせる空気が島にはあったのだから。島暮らしに昔から憧れるのに、踏み出せない自らが嫌になる。

 四国のM氏も尾道のM氏もうちの娘も、そしてその周りの人たちもこうして笑って暮らせたらいいのに、と思う。
 あ、もしかして自分だけがそれをできていなかったりして。島の生活のほうがどんなに豊かだと確信してきても、戻ったその日は締め切りを過ぎた原稿と翌日の講義の準備に汲々と追われ、睡眠不足…。

 平和に、そして穏やかに生きるのって難しいものですね。

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2011年9月24日 (土)

石窯パン・ドリアン

 喜久屋製菓有限会社代表取締役・田村陽至。
 自然天然酵母にこだわるパン屋「ドリアン」
石窯パン職人でもある。
 雑誌
cafe-sweets(2008年2月5日号)の石窯パン特集で表紙を飾ったのだから、その評価は業界が認めるものである。

 けども僕らは彼のことをタムタムと呼ぶ。10年近く会っていない気がするが、電話に出たその声はフニャフニャしていて、とうてい社長のものとは思えないが、たしかにあのタムタムの声だった。

 今年の夏は海外出張やなんだかんだで帰省どころか、家族サービスすらまともにしてあげられず、ゆっくりすることがなかった。挙句の果てには、うちら夫婦言い出しっぺの映画上映会を9月11日にやることになっており
(このことは今回書く予定が、さらに後で書くことにします)気づくと大学は後期が始まり、またも忙しさが復活してきた。
 だから、この連休は、いわば家族への罪滅ぼしもあり、旅行を敢行することにしたのだった。当初は海外へ行きたいとの妻の強い要望があり、1歳になる娘のパスポートさえ申請したのだが、わざわざ連休の高い時期に、しかも短い日程での強行軍はいかがなものかと断念することにした。

 再考した結果、「ただただのんびりしたい」→「ならば、島だ!」→「そうだ、尾道・向島の知人宅はどうか」と、連休直近でお願いするのは厚顔無恥でありながら、無理強いすることになった。
 それで、せっかくだから広島市まで足を伸ばし、広島に単身赴任している知人とパン屋「ドリアン」を訪ねることにしたのである。(結果、あちこち移動し、のんびり旅にはなっていないのだが…)

 広島駅の二つ手前、向洋駅を下りて、線路沿いを歩いていくと、ほどなく「ドリアン」が見えてきた。昼にお店へ電話した時には「今、窯に入っているので、しばらく電話に出られないんです」と彼の母親らしき人
(実際に店で販売をしていた)が教えてくれたので、表紙を飾ったような出で立ちで、しかも顔に炭をつけ、汗を拭き拭き出てくるものだと思い込んでいた。が、出てきたのは、すっきりした顔で、よれよれのTシャツと短パンで、当時とあまり変わらぬ風貌のタムタムだった。

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 夜の10時に起床して(決して「就寝」ではないのでお間違いなく)仕込みを始めなければならない彼は、早々にシャワーを浴びていて、私たちが訪れたのは普段なら寝ている時間だったのだ。それでも彼は快く迎え、やはりフヒャフニャの声で「久しぶり〜」と言ってくれるのだ。

 まずは自慢の窯を見せてもらった。これが自作だというのだから、驚く。

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 ここに、パンを入れこんで焼いていく。せっかくなら焼きたてのパンを食べたいと思うのだが、ドリアンのパンは“冷めてこそ美味しい”のだ。タムタムの話では、石窯で焼いたパンは、まだガスが抜けていない上に、消化にも良くないのだとか。

 彼と会ったのは、うちの相方が仕事を辞め、沖縄にぶらぶら一人旅をしていた時だった。自分もGWを利用し、その旅の一部分をお付き合いしたのだが、その時お世話になっていた「むら咲むら」というところに自分ら共通の知人
(今は辺野古で基地反対運動を続けている)とタムタムがいて、それ以来の仲である。ただし、“それ以来”と言っても、それ以外では新宿で一度飲んだだけなのだ。人の縁というのは回数ではない。密度なんだと改めて思う。

 彼はその時、実家を継いでパン屋には絶対になりたくないと言っていた。大学卒業後、金沢のお店で修行していたが、そこは半年で飛び出している。沖縄にいた時もそうだったが、とにかく焚き火をこよなく愛し、それをモチーフにモンゴルへのスタディツアーはじめ、あれこれ企画をしていたと思う。
 それがやっと軌道に乗り始めた頃、傾き始めた実家のパン屋を数ヶ月だけ手伝うはずが、なんだかんだで今に至っている。

 モンゴルとパン屋ではまるで正反対の生き方を選択したようにみえる。しかし、10年前、深夜に沖縄の海辺で薪をくべる彼の姿と根本は変わっていないのだろう。目尻をいっぱいに下げて微笑むタムタムの先にある炎の温もりは、しっかりパンの中に閉じ込めてある。

 その美味しさを是非ともみんなにも味わってほしい。
(インターネット販売あり)

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ドリアン堀越本店 
  住所:広島県広島市南区堀越2-8-22
  営業時間:8:00ー19:00
  TEL:082-285-3235
  定休日:月・火曜日
  駐車場:有(4台)

ドリアン八丁堀店 
  住所:広島県広島市中区八丁堀12-9 広島SYビル1F
  営業時間:11:00ー19:00
  TEL:082-222-2333
  定休日:月・火曜日
  駐車場:無 

2011年9月18日 (日)

四日仏の日に

 四日仏という習わしがある。

 4日に祖母が亡くなり、翌日には岩手の実家に戻っていた。帰宅したその日から8日まで、納棺、火葬、葬儀、納骨と立て続けに儀式を執り行わなくてはいけなかったのだが、亡くなって四日目にはなにもしてはいけないことになっているらしく、ぽっかりと「予定なし」の日ができた。
 これが東北だけの習わしなのか、どうなのか、それすら知らなく、そもそもそうした決まりごとがあることも知らなかった。母が嫁に来て以来、我が家で葬式を行うこと自体が初めてなので
(祖父は母が嫁ぐ以前に亡くなっていた)、私はもちろんのこと、喪主の父ですら、葬式もろもろの進行は葬儀屋さんの指示任せで、ややしどろもどろだった。だから、「四日仏ってのがあるんだぁ」と話しても「らしんだよね」ぐらいの返答しかできなかった。

 父母はさすがに四日仏とはいえ、家を空けることはできなかったが、自分はじめ8日まで休みをもらって駆けつけた親戚は手持ち無沙汰で仕方ない。
 そこで、三陸まで行って様子を見てみないか、という話になった。ボランティアとしてではなく、ただただ“見に行く”というのは、この上ない罪悪感を覚えるのだが、岩手を故郷にもつ者として、そうした光景をテレビ越しにだけ見ているのは、それ以上に心苦しい。それに、幼子を抱え、「じゃ、ボンランティアに行ってくるよ」というわけにもいかず、もどかしさもあったので、余計に自分の思いを整理させたくもあったのだろう。
(ここにはご批判もあるだろうが、甘んじて受け入れたい)

 分かりし頃、政治家を目指し、田中角栄の秘書を務めたことがある伊豆の伯父と、目黒のダンススクールでレッスンをもっているプロダンサーの従弟、そして私の風変わり凸凹トリオで、一路、三陸方面に車を走らせた。

 実家はどちらかと言えば秋田県境側にある内陸で、津波を心配するようなところにはない
(事実、数日ライフラインが断絶したものの、母親がやっている床屋は、たしかその週のうちには営業を再開していた)
 今回に限っては、内陸であることが幸いしたが、子どもの頃は沿岸部への強い憧れがあり、とにかく羨ましてく仕方がなかった。内陸の子が海に行けるのは、よくて年に1〜2回で、うちのように商売をやっている家なんぞは、
子供会主催の企画で、近所のおじさんたちに連れていってもらえるのが関の山だ。
 北上山地を越え、おおおそ2時間弱、マイクロバスに揺られて、やっとのことで潮の香りを嗅いではしゃいでいるのに、
黒焦げに灼けた近所の少年たちは、おそらくその格好で家を出てきたであろう、浮き輪片手の海パン姿で海に飛び込んでいく。その様があまりに“日常”で憎らしいほどだったのだ。

 凸凹トリオの乗る車は、国道397号線をひたすら東に向けて走り、まず大船渡に入った。もちろん相当な被害を被っているのだが、地形の関係か、その後に見る陸前高田よりは被害規模は小さいようだ。
 しかし、防波堤が破壊されているのを眼前にすれば、それが「規模」の問題ではないことを思い知らされる。

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 途中、仮設住宅らしき建物を見ながら、さらに陸前高田へと南下する。その間、重機の入った更地を幾度も見る。そこに住居が一戸一戸あったのだとまるで想像できないほど、生活の匂いが絶たれている。

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 陸前高田には、まさに我々県南内陸部の子どもたちが、年に一度の楽しみにしている高田松原海水浴場がある。しかし、いくら海岸沿いを走っても見慣れた光景が現れず、記憶がよみがえってこない。
 メディアでもよく取り上げられていたが、数多あった松原は一本だけを残し、すべて流されてしまっている。地盤沈下のせいか、海面が上がり、砂浜はまったく埋もれてしまっていた。現代の“黒焦げの子たち
は、昨夏までのように海パンで玄関を飛び出し、海に駆け込んで行くことは到底できなかっただろう。羨ましさを覚えた海の子たちが灼けることなく、家に閉じこもっていたのかと思うと、なんともやるせない。

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真ん中奥のほうに見えるが「一本松」
【参考】:「一本松について」(一本松プロジェクトのサイトより)

 ちなみに、松原が健在の時の写真がこれです。たまたま祖母との写真を探している時に見つけたものです。床屋修業時代の母(一番左)が、休日に同僚と遊びに行った時のもののようです。
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 すでに12時をまわっていたので、昼ご飯を食べようということになったが、開いている店がなかなか見当たらない。国道45号線沿いにやっと小さなレストランを見つけるが、そこはすでに気仙沼に入っていた。
 戻るよりは、気仙沼の市街地経由のほうが実家のある奥州市へは帰りやすいので、気仙沼の様子も道すがら見ることになった。

 帰路につく中、話したのは、やすやすとこれまで“自然の驚異”と話していたが、自分が想定していた“驚異”がいかに想定内のものだったかということである
(そういう意味では、政治家や専門家が「想定外」という言葉を安売りすることを自分も責められない)。被害が及んだ津波の高さを住居のあるないで線を引くと、その襲った海水の量たるや“甚大”などという言葉ですら物足りないほどである。

 「人間は自然を前にして無力である」などともよく言うが、その理不尽さをあまりに普段意識していない。“意識していない”というよりも、“意識しないようにしている”と言ったほうが正しいだろうか。それは、自分の命に対して、あまりに無防備のようにも思える。覚悟してそうなのであればいいが、真っ当な理由をもって命が最期を迎えることは、ほぼないと覚悟するほうが賢明だと思う。

 だから、毎日と言わずとも、時折は自分の命のあり方を誰かと話しておいたらいい。家族とでも、友人とでも、今たまたま目の前にいる人とでもいいので。

 その週末、911からちょうど10年、311からちょうど半年である
9月11日に、映画『うまれる』の自主上映会を行う予定になっていた。罪悪感を覚えながらも被災地に立ったことで、上映会に来て下さった皆さんへ投げかけたいと思うメッセージが浮かんできた。それがせめてもの救いだろうか。

 詳細は次のブログで触れようと思う。

2011年9月14日 (水)

カカオの甘み

 今日までに仕上げなければいけない海外研修の報告書を夜な夜な編集している(いまだ完成していない…)。タイとマレーシアにそれぞれ行った参加者から原稿と写真を集め、切り貼りをしている。実に地味な作業である。
 地味なままでは終わりたくないので(笑)、そこに寄せた私の原稿をここに転載しよう。ちなみに、私はマレーシアコースの引率を今年は担当した。


 国際開発教育ファシリテーター養成コースが夏休み期間中に行っている海外研修のことを正式には「海外開発現場研修」という。“スタディツアー”と呼んでよかったのだろうが、国際開発教育センター・初代センター長の渡辺利夫先生(現拓殖大学学長)が、響きの軽さからだったか、その呼称を敬遠したと記憶している。今では消えてしまったが、サブタイトルもあって「〜素材を見つける旅〜」とつけていた時期もあった。カリキュラムに載せるには情緒的すぎる表現だが、後期に開発教育のプログラム作成が課されており、そこへ現実味をもってつなげていくため、素材収集の機会として位置づけるという意図があったからである。ただし、当初は研修での成果を実際に教材作成へとつなげるグループが出てきたが、最近ではそういったグループが作られることはまずない。研修自体は非常に充実していて、実際に参加した受講生の評価も高いのだが、「プログラムを作りたい」というインセンティブになりえていないのが現実である。(ちなみに、海外開発現場研修へ参加することと後期の開発教育プログラム作成のテーマ設定を一致させることを絶対条件としてはいない。研修での経験を直接教材作成につなげていくことが最も望ましいが、最低限、なんらかのエッセンスが教材作成の際に活かされれば、それでよしとしている)
 例年であれば、私は引率する立場で、原則、素材収集をする必要はないのだが、今年に限ってはテーマをもってマレーシアに触れることにしていた(もちろん引率という大仕事を第一義とすることは前提として)。開発教育教材に『パーム油のはなし 「地球にやさしい」ってなんだろう?』(開発教育協会発行)というものがあるが、2002年に発行されたものであり(ただし、2005年に改訂版が発行されている)、とりわけここ10年の世界の動きは目まぐるしく、おそらく状況は変化している。教材の中味をそのまま実践することは、きっとできなくなっているだろうとの危惧があった。そもそも開発教育教材にはある一定のパターンがあって、権力側に対抗するマインドがセッティングされていることが少なからずあるが、現在においてそう単純な図式で割り切れるものではない限界性も感じていたから、現状を自分の目で確かめたかったのである。しかし、研修を終えての率直な感想は、現地に足を運んだところで、たかだか1週間の滞在では真相に触れることなど、まったくもって不可能なのだという落胆であった。
 今年の夏は、非常にタイトなスケジュールで、マレーシアの他にウガンダへも行った。JICA(国際協力機構)の仕事で「教師海外研修」の(こちらも)引率である。昨年も同じ仕事をさせていただいたが、事前事後の研修を担当しただけで、現地への研修には参加せず、報告を受けたのみであった。こちらもファシリコース同様、海外研修後に、現地での経験をもとにした授業実践をすることになっている(それが参加条件でもある)。昨年まではなんとも思わなかったが、研修中に参加した教員の方々と異口同音に話したのは、「これで授業実践するのは難しい」ということである。
 二つの研修に参加して感じさせられたのは、教員の皆さんがとにかく「いい授業をしたい」と真摯に考えているということだ。その誠実さには、本当に感心させられた。ただ、ゆえに「間違ったこと、変なことを児童生徒に言うことは絶対にできない」という強い思いがあることも感じられた。それは教師としての信念としてあっていいと思うのだが、それでがんじがらめになってしまうのであれば、本末転倒だと私は思っている。
 現地でのふりかえりの際にもこのことは議論になったのだが、誤解を恐れずに言えば、教師は間違ったことを堂々と言っていいのだと思う。常に正解をもっている絶対的な存在である必要はない。時に「私は分からない」と飾り気なく言える実直さがあり、だから「一緒に考えようよ」という柔軟さがあっていい。強くあろうとすることは、むしろ学びの促しを阻害することになる。大事なのは、たとえ間違っていたとしても、児童生徒に真摯に向き合っているか、素材に対して真摯に向き合っているか、そうした誠実さが教師の側にあるかどうかなのだと思う。
 これは、ウガンダの教材海外研修に参加したひとりの先生の話だが、今回、私にはそれが強く印象に残っている。彼は地理の教員だが、いつもアフリカの単元に触れる際、教師としての罪悪感のようなものを感じて授業をしていたのだそうだ。なぜなら、彼はアフリカの地を一度も踏んだことがなかったから。その罪悪感をなんとしても払拭したく、教師海外研修に申し込んだというのが、彼の参加動機である。
 しかし、彼はウガンダに降り立ったあともあまり満足げな表情を見せることはなかった。それは、スタディツアーという一過性のイベントの限界をまず感じることになったからだろう。そんな彼の表情がみるみる変わっていったのが、ある村の村長さん宅を訪問した時だった。それまでは、治安上の理由で、バスの中からしかウガンダの人々の日常を垣間見られなかった。それは、普段使っている教科書に載っている写真を見ることとなんの違いがあろうか、そう彼は斜に構えていたに違いなかった。それが、バスから降り、家屋の中に入った時の空気感や手足で感じる床や壁の触感、立ちこめる湯気の匂いなど、無機質な教科書にはない肌感覚が彼の五感をフル回転させるやいなや、生き生きとなるのをこちらも感じとれるほどだった。
 まわりの畑に足を運べば、これまたキャッサバやカカオなど教科書では馴染みがあるが、実際には目にしたことがないものが、あまりに普通に生えている。Img_1867_2 村長さんが「これがカカオよ」と割って中味を見せてくれたものは、 とうていチョコレートからは想像しえないもので、中が白くトローッとしていて甘みのある果実だった。彼はそれを口にした時にいたく感動し、帰国後に「お前たち、カカオって食べたことがあるか?」と言ってやると意気揚々に話していた。それは、彼の罪悪感が払拭された瞬間でもあった。
 学校は正解を教えてくれるところではないと私は思っている。「正解」に近づくために、そのヒントを教師と、そして児童生徒たちが出し合い、「ああでもない、こうでもない」と言い合う場だと思っている。絶対に正しい答えがあるのだというおこがましさは捨てたほうがいい。たとえ、現地で実際に感じたことであったとしてもである。それは”切り取り“であって、事実ではない。ただ、それを誠実さと柔軟さをもって、学習者にぶつけることはなんら間違ってはいない。スタディツアーに限界はあっても、そうした可能性も十分に持ち合わせている。今回、マレーシア研修に参加した面々には、そうした自信をもって、後期の教材作成に取り組んでほしいと切に願っている。

2011年9月12日 (月)

閉店間際の魚屋さん

 閉店間際の百貨店の鮮魚コーナー。
 これが1,000円でした。

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 メカジキ ¥451
 ごまサバ ¥398
 刺身二点盛り(ブリ、キハダ) ¥590
 味付けもずく ¥238
 さんま(刺身用) ¥450
 タラバガニ ¥1609
 しじみ ?

 これが(おそらく4,000円相当)すべて半額になっていて、さらに「鉄板の上に乗っかってるのは、全部で千円!」と叩き売り。
 躊躇している妻に「買いだぁ!」と説き伏せ、誰かに横取りされる前にお買い上げ。

 とりあえず、寿司と刺身二点盛りをいただきました。
 おかげで充実した中秋の名月となり。

 明朝は、きっと、しじみの味噌汁。
 タラバは冷凍にして、好きな時に食べられるように。
 さんまは刺身でもいけるけど、蒲焼きみたいにすると美味しいよ、と魚屋さん。

 特にオチはない。
 ただただ人に教えたかっただけ。
 ささやかな幸せは、人に言うと2割増しぐらいになる気がするから。

2011年9月 9日 (金)

サヨの死

 生と死の境はどこにあるのだろうか?

 先週末、私は金沢にいた。JICA北陸からの依頼で「開発教育実践者セミナー」の講師を務めることになっていたからだ。台風12号が接近する最中、開催自体が危ぶまれたが(というか、当日、現地入りの予定だった私が金沢までたどり着けるかが何より心配された)、ほぼ予定通りにプログラムを終えることができた。そのような状況でも来られた皆さんが、熱心に参加してくださったことが一番の要因であって、私自身、非常にいい時間を共有させていただいたと思っている。その後、皆さんと頂いた石川の地酒と肴が格別にうまかったのは、そのせいでもある。Img_2230_2
(写真は「のどぐろ」。開いた口から奥を覗くと喉の辺りが黒くなっている。名前はそこに由来するらしい。非常に脂がのっていて美味しかった)

 よっぽど疲れていたのか、飲み過ぎたのか、ホテルの部屋で、テレビをつけっ放しにして眠っていた。4時ごろになってはじめて、見ていたスポーツニュースがとうの昔に終わっていることに気づき、テレビと照明をオフにし、改めて布団に入り直した。

 叩き起こされたのは、それから2時間も経たない時だった。携帯の画面には、珍しく実家の母の名前が表記されていた。

 「祖母が亡くなったんだな…」

 直感的にそう思ったし、事実、電話の用件はそれだった。

 祖母は、6年ほど前から入退院を繰り返していた。痴呆もどんどん進行していったが、食欲だけは旺盛で、“生きる”という生物としての最低限の機能だけをみれば、「障害」と言えるものはあまりなかったと思う。
 それでも、数ヶ月前の母からの電話で「あと1年から1年半の寿命だと医師から宣告を受けたから」と知らされ、その正常な動作にも終わりが近づいているのだと覚悟だけはしておいた。ストップウォッチで測るように、どうして
「あと1年から1年半の寿命だ」などと言えるのか、その医学の摩訶不思議さに違和感はあったものの、寝たきりとなり、コミュニケーションがとれなくなっていたのだから、おそらく大きく間違ってはいないだろう、と平然ともしていた。

 お見舞いに行けば、母は気をつかってか、「一喜が来たよぉー」とかなり耳が遠くなった祖母の耳に口を付けるようにして言い、「あ、やっぱり反応するんだね。一喜が来たことが分かるんだぁ」といつも喜んで言ってくれるのだが、さすがにここ2〜3回は無理があったと思う。
 ただ、表情には出なくとも、鼓膜に届く私の声の波動とか、わずかに感じる肌のぬくもりで、かろうじて孫が来てくれたことは認識してくれていたのだと思っている

 しかし、コミュニケーションがとれないのであれば、なんの意味があろうか…。
 それは、「味噌おにぎり握っておいだがら、いっぺい、けぇ(いっぱい食べなさい)」とか、「お墓参りは、そんな半ズボンで行ぐもんでね」とか言っていた祖母とは別人であって、とうてい“生きている”とは思えなかった。語弊があるだろうが、祖母とのやり取りがもうないのだと思うと、私の中では半ば“死んでしまっていた”のだと言いたくなる。

 生前、祖母は「延命措置はしてほしくない」と母には告げていたようで、幸い、徒に“生かされる”ようなことは避けられた。自分の人生を自分の力でしっかり全うし、93歳まで命を長らえることができたのである。最期には納得のいく人生だと思えたからこそ、自分の死に時を自分で決めていたのだと思う。
 自分には分かっていたからこそ、お別れの瞬間が寂しくならないよう、生と死の境目を行き来してくれていたという風に思えなくもない。

 出張から戻った翌日の朝、新幹線で実家へ向かった。葬儀の準備でバタバタしている中、記念にと祖母と二人で写っている写真を探したが、一向に見当たらない。「写真は、ぎゃねがら(嫌だから)」と絶対にカメラの前に立とうとしなかった人だから、想像はされたのだが、ここまでないとは思わなかった。
 “二人で”というのはとうとうなく、唯一、生まれたばかりの私を抱え、若かりし頃の両親と写ってる写真だけが見つかった。それは(もちろん)私の記憶にはない。写真の中の祖母は、私が見たこともない静謐な表情をしており、私が感じたことのないような眼差しが向けられている。

 私と祖母の人生の重なりは、そうしたグラデーションを帯びて存している。永遠に色褪せてはいくものの、それはけっして無色になることはないのだろうと思う。

 石川サヨ 9月4日に大往生す  享年93歳

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2011年9月 2日 (金)

祝366日目

 今日、カフェでランチをとっていたら、お釣りが2,000円札できた!
 あまりの珍しさに、なんかいいことありそうな予感。
 でも、それは本当に予感にすぎなかった…。

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 昨日は本当にめでたい日だった。娘が1歳の誕生日を迎えたのだ。ちょうど1年前、遅筆である私がその日のうちに誕生を報告するブログ(「親バカ永久宣言」)をアップしたのだから、あまりの嬉しさだったと想像する。今読み返せば、赤面の至りだけど、あれから1年が経過した。

 とにかく、まずはここまでよくきたものだ。誕生の神秘にも感動したが、育児を当たり前の日常風景として連ねてこられた奇跡に我ながら感激する。なにせ、離乳食を与えるというプロセスをすっとばし、手づかみでご飯や野菜を食べるように娘はなってしまっている(無謀に見られるだろうけど、これも一応、うちら夫婦のポリシーだったりする)。

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 “親1年生”の私たち夫婦の乱暴な育て方に耐え忍んだ娘は、ゆえに讃えられる対象であっていいのである。

 それで、1歳のお祝いに何をしようかと妻と相談したが、なんともしゃれた案が出てこない。夫婦揃って「何かすごいことをしてやろう!」と意気込みだけが前面に出るタイプだから、決めごとをするのにいつも難儀する。“適当”という大人の流儀を知らない奴とは一緒に仕事をしたくないよな〜と互いに思うたちだろうに、互いにそれが治らない。一生付き合っていかなければいけないのにだ。

 こういう時は原点に立ち返るのがいい。もともと自然にちなんだ名前をつけたのだから、緑のものを贈ってはどうだろう。思い起こせば、義理の姉夫婦からは出産祝いにエコロギフトというところの「植樹証明書」をもらっている。優柔不断な我ら夫婦は、人様のアイデアに相乗りし、今回もそれでいこうということにした。1歳児への贈り物としては心持ち渋すぎるが、まだ喋れない子どもへの誕生日プレゼントなんて、そもそも親の自己満足である。
(参照:プレゼントツリー

 さて、もうひとつ父からの贈り物を。

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 何年ぶりだろうか。時々、自分でボタンをかけたり、靴下を縫ったりはしていたが、“ちゃんとしたもの”はおそらく文化祭の展示品として制作したエプロン以来だろうと思う。

 妻が持っていた『手ぬぐいで作るこども服』
(モリユカ著 アスペクト)という本を参考に、手ぬぐい1枚で作ってみた。
 思うようにミシンを駆使できず、あちこち糸がグチャグチャしているが、遠目には分からないからよしとする
(写真だったら、なおのことよく分かんないでしょ♪)。父のデビュー作としては上出来だ。

 ここでも幸い、娘は喋れない。「お父さん、下手くそ!」なんてことは思っていても言えないのである。傷つかされるのは、彼女の思春期までとっておきたい。
 でも、本当に「お父さんと洗濯物は一緒にしないで!」なんて言われたら、家の隅っこに小さくなって体育座りしてしまう。それは今からはっきりしている。

 今この立場になって思うが、子どもに何て思われようが、親は押しつけの愛情を振る舞ってしまうものだ。いやがられても、うざったく思われてもいいのだ。その行為自体が幸せなのである。本当に身勝手だが、そういうものなのだ。

 その押しつけの愛情を全部受け取ってもらう必要はない。時折、「嬉しいよ」という素振りをみせてくれればいいのだ。

 そういう意味では、父の初打席は、かろうじてヒットだったのだろうと思っている。これも勝手な解釈だが。

 そうか、そんなふうに勝手な都合のいい解釈がどんどん出てくることが幸せなのか。それを引き出してくれる子どもというのは、やっぱり誉めたたえてあげたい対象なのだ。

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p.s. 皆さん、娘のこの表情は父作のズボンを履いて喜んでいる感じですよね? え、喜んでいるのは、木のおもちゃのほう?(笑)

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