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2011年9月18日 (日)

四日仏の日に

 四日仏という習わしがある。

 4日に祖母が亡くなり、翌日には岩手の実家に戻っていた。帰宅したその日から8日まで、納棺、火葬、葬儀、納骨と立て続けに儀式を執り行わなくてはいけなかったのだが、亡くなって四日目にはなにもしてはいけないことになっているらしく、ぽっかりと「予定なし」の日ができた。
 これが東北だけの習わしなのか、どうなのか、それすら知らなく、そもそもそうした決まりごとがあることも知らなかった。母が嫁に来て以来、我が家で葬式を行うこと自体が初めてなので
(祖父は母が嫁ぐ以前に亡くなっていた)、私はもちろんのこと、喪主の父ですら、葬式もろもろの進行は葬儀屋さんの指示任せで、ややしどろもどろだった。だから、「四日仏ってのがあるんだぁ」と話しても「らしんだよね」ぐらいの返答しかできなかった。

 父母はさすがに四日仏とはいえ、家を空けることはできなかったが、自分はじめ8日まで休みをもらって駆けつけた親戚は手持ち無沙汰で仕方ない。
 そこで、三陸まで行って様子を見てみないか、という話になった。ボランティアとしてではなく、ただただ“見に行く”というのは、この上ない罪悪感を覚えるのだが、岩手を故郷にもつ者として、そうした光景をテレビ越しにだけ見ているのは、それ以上に心苦しい。それに、幼子を抱え、「じゃ、ボンランティアに行ってくるよ」というわけにもいかず、もどかしさもあったので、余計に自分の思いを整理させたくもあったのだろう。
(ここにはご批判もあるだろうが、甘んじて受け入れたい)

 分かりし頃、政治家を目指し、田中角栄の秘書を務めたことがある伊豆の伯父と、目黒のダンススクールでレッスンをもっているプロダンサーの従弟、そして私の風変わり凸凹トリオで、一路、三陸方面に車を走らせた。

 実家はどちらかと言えば秋田県境側にある内陸で、津波を心配するようなところにはない
(事実、数日ライフラインが断絶したものの、母親がやっている床屋は、たしかその週のうちには営業を再開していた)
 今回に限っては、内陸であることが幸いしたが、子どもの頃は沿岸部への強い憧れがあり、とにかく羨ましてく仕方がなかった。内陸の子が海に行けるのは、よくて年に1〜2回で、うちのように商売をやっている家なんぞは、
子供会主催の企画で、近所のおじさんたちに連れていってもらえるのが関の山だ。
 北上山地を越え、おおおそ2時間弱、マイクロバスに揺られて、やっとのことで潮の香りを嗅いではしゃいでいるのに、
黒焦げに灼けた近所の少年たちは、おそらくその格好で家を出てきたであろう、浮き輪片手の海パン姿で海に飛び込んでいく。その様があまりに“日常”で憎らしいほどだったのだ。

 凸凹トリオの乗る車は、国道397号線をひたすら東に向けて走り、まず大船渡に入った。もちろん相当な被害を被っているのだが、地形の関係か、その後に見る陸前高田よりは被害規模は小さいようだ。
 しかし、防波堤が破壊されているのを眼前にすれば、それが「規模」の問題ではないことを思い知らされる。

Img_2251_2

 途中、仮設住宅らしき建物を見ながら、さらに陸前高田へと南下する。その間、重機の入った更地を幾度も見る。そこに住居が一戸一戸あったのだとまるで想像できないほど、生活の匂いが絶たれている。

Img_2243Img_2247
 陸前高田には、まさに我々県南内陸部の子どもたちが、年に一度の楽しみにしている高田松原海水浴場がある。しかし、いくら海岸沿いを走っても見慣れた光景が現れず、記憶がよみがえってこない。
 メディアでもよく取り上げられていたが、数多あった松原は一本だけを残し、すべて流されてしまっている。地盤沈下のせいか、海面が上がり、砂浜はまったく埋もれてしまっていた。現代の“黒焦げの子たち
は、昨夏までのように海パンで玄関を飛び出し、海に駆け込んで行くことは到底できなかっただろう。羨ましさを覚えた海の子たちが灼けることなく、家に閉じこもっていたのかと思うと、なんともやるせない。

Img_2260_3
真ん中奥のほうに見えるが「一本松」
【参考】:「一本松について」(一本松プロジェクトのサイトより)

 ちなみに、松原が健在の時の写真がこれです。たまたま祖母との写真を探している時に見つけたものです。床屋修業時代の母(一番左)が、休日に同僚と遊びに行った時のもののようです。
Img_2242


 すでに12時をまわっていたので、昼ご飯を食べようということになったが、開いている店がなかなか見当たらない。国道45号線沿いにやっと小さなレストランを見つけるが、そこはすでに気仙沼に入っていた。
 戻るよりは、気仙沼の市街地経由のほうが実家のある奥州市へは帰りやすいので、気仙沼の様子も道すがら見ることになった。

 帰路につく中、話したのは、やすやすとこれまで“自然の驚異”と話していたが、自分が想定していた“驚異”がいかに想定内のものだったかということである
(そういう意味では、政治家や専門家が「想定外」という言葉を安売りすることを自分も責められない)。被害が及んだ津波の高さを住居のあるないで線を引くと、その襲った海水の量たるや“甚大”などという言葉ですら物足りないほどである。

 「人間は自然を前にして無力である」などともよく言うが、その理不尽さをあまりに普段意識していない。“意識していない”というよりも、“意識しないようにしている”と言ったほうが正しいだろうか。それは、自分の命に対して、あまりに無防備のようにも思える。覚悟してそうなのであればいいが、真っ当な理由をもって命が最期を迎えることは、ほぼないと覚悟するほうが賢明だと思う。

 だから、毎日と言わずとも、時折は自分の命のあり方を誰かと話しておいたらいい。家族とでも、友人とでも、今たまたま目の前にいる人とでもいいので。

 その週末、911からちょうど10年、311からちょうど半年である
9月11日に、映画『うまれる』の自主上映会を行う予定になっていた。罪悪感を覚えながらも被災地に立ったことで、上映会に来て下さった皆さんへ投げかけたいと思うメッセージが浮かんできた。それがせめてもの救いだろうか。

 詳細は次のブログで触れようと思う。

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コメント

予想できない大変さが
伝わってきました。

不条理さも。

そういえば、
一本松が一本だけ残っているのも
不思議。

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