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2011年9月14日 (水)

カカオの甘み

 今日までに仕上げなければいけない海外研修の報告書を夜な夜な編集している(いまだ完成していない…)。タイとマレーシアにそれぞれ行った参加者から原稿と写真を集め、切り貼りをしている。実に地味な作業である。
 地味なままでは終わりたくないので(笑)、そこに寄せた私の原稿をここに転載しよう。ちなみに、私はマレーシアコースの引率を今年は担当した。


 国際開発教育ファシリテーター養成コースが夏休み期間中に行っている海外研修のことを正式には「海外開発現場研修」という。“スタディツアー”と呼んでよかったのだろうが、国際開発教育センター・初代センター長の渡辺利夫先生(現拓殖大学学長)が、響きの軽さからだったか、その呼称を敬遠したと記憶している。今では消えてしまったが、サブタイトルもあって「〜素材を見つける旅〜」とつけていた時期もあった。カリキュラムに載せるには情緒的すぎる表現だが、後期に開発教育のプログラム作成が課されており、そこへ現実味をもってつなげていくため、素材収集の機会として位置づけるという意図があったからである。ただし、当初は研修での成果を実際に教材作成へとつなげるグループが出てきたが、最近ではそういったグループが作られることはまずない。研修自体は非常に充実していて、実際に参加した受講生の評価も高いのだが、「プログラムを作りたい」というインセンティブになりえていないのが現実である。(ちなみに、海外開発現場研修へ参加することと後期の開発教育プログラム作成のテーマ設定を一致させることを絶対条件としてはいない。研修での経験を直接教材作成につなげていくことが最も望ましいが、最低限、なんらかのエッセンスが教材作成の際に活かされれば、それでよしとしている)
 例年であれば、私は引率する立場で、原則、素材収集をする必要はないのだが、今年に限ってはテーマをもってマレーシアに触れることにしていた(もちろん引率という大仕事を第一義とすることは前提として)。開発教育教材に『パーム油のはなし 「地球にやさしい」ってなんだろう?』(開発教育協会発行)というものがあるが、2002年に発行されたものであり(ただし、2005年に改訂版が発行されている)、とりわけここ10年の世界の動きは目まぐるしく、おそらく状況は変化している。教材の中味をそのまま実践することは、きっとできなくなっているだろうとの危惧があった。そもそも開発教育教材にはある一定のパターンがあって、権力側に対抗するマインドがセッティングされていることが少なからずあるが、現在においてそう単純な図式で割り切れるものではない限界性も感じていたから、現状を自分の目で確かめたかったのである。しかし、研修を終えての率直な感想は、現地に足を運んだところで、たかだか1週間の滞在では真相に触れることなど、まったくもって不可能なのだという落胆であった。
 今年の夏は、非常にタイトなスケジュールで、マレーシアの他にウガンダへも行った。JICA(国際協力機構)の仕事で「教師海外研修」の(こちらも)引率である。昨年も同じ仕事をさせていただいたが、事前事後の研修を担当しただけで、現地への研修には参加せず、報告を受けたのみであった。こちらもファシリコース同様、海外研修後に、現地での経験をもとにした授業実践をすることになっている(それが参加条件でもある)。昨年まではなんとも思わなかったが、研修中に参加した教員の方々と異口同音に話したのは、「これで授業実践するのは難しい」ということである。
 二つの研修に参加して感じさせられたのは、教員の皆さんがとにかく「いい授業をしたい」と真摯に考えているということだ。その誠実さには、本当に感心させられた。ただ、ゆえに「間違ったこと、変なことを児童生徒に言うことは絶対にできない」という強い思いがあることも感じられた。それは教師としての信念としてあっていいと思うのだが、それでがんじがらめになってしまうのであれば、本末転倒だと私は思っている。
 現地でのふりかえりの際にもこのことは議論になったのだが、誤解を恐れずに言えば、教師は間違ったことを堂々と言っていいのだと思う。常に正解をもっている絶対的な存在である必要はない。時に「私は分からない」と飾り気なく言える実直さがあり、だから「一緒に考えようよ」という柔軟さがあっていい。強くあろうとすることは、むしろ学びの促しを阻害することになる。大事なのは、たとえ間違っていたとしても、児童生徒に真摯に向き合っているか、素材に対して真摯に向き合っているか、そうした誠実さが教師の側にあるかどうかなのだと思う。
 これは、ウガンダの教材海外研修に参加したひとりの先生の話だが、今回、私にはそれが強く印象に残っている。彼は地理の教員だが、いつもアフリカの単元に触れる際、教師としての罪悪感のようなものを感じて授業をしていたのだそうだ。なぜなら、彼はアフリカの地を一度も踏んだことがなかったから。その罪悪感をなんとしても払拭したく、教師海外研修に申し込んだというのが、彼の参加動機である。
 しかし、彼はウガンダに降り立ったあともあまり満足げな表情を見せることはなかった。それは、スタディツアーという一過性のイベントの限界をまず感じることになったからだろう。そんな彼の表情がみるみる変わっていったのが、ある村の村長さん宅を訪問した時だった。それまでは、治安上の理由で、バスの中からしかウガンダの人々の日常を垣間見られなかった。それは、普段使っている教科書に載っている写真を見ることとなんの違いがあろうか、そう彼は斜に構えていたに違いなかった。それが、バスから降り、家屋の中に入った時の空気感や手足で感じる床や壁の触感、立ちこめる湯気の匂いなど、無機質な教科書にはない肌感覚が彼の五感をフル回転させるやいなや、生き生きとなるのをこちらも感じとれるほどだった。
 まわりの畑に足を運べば、これまたキャッサバやカカオなど教科書では馴染みがあるが、実際には目にしたことがないものが、あまりに普通に生えている。Img_1867_2 村長さんが「これがカカオよ」と割って中味を見せてくれたものは、 とうていチョコレートからは想像しえないもので、中が白くトローッとしていて甘みのある果実だった。彼はそれを口にした時にいたく感動し、帰国後に「お前たち、カカオって食べたことがあるか?」と言ってやると意気揚々に話していた。それは、彼の罪悪感が払拭された瞬間でもあった。
 学校は正解を教えてくれるところではないと私は思っている。「正解」に近づくために、そのヒントを教師と、そして児童生徒たちが出し合い、「ああでもない、こうでもない」と言い合う場だと思っている。絶対に正しい答えがあるのだというおこがましさは捨てたほうがいい。たとえ、現地で実際に感じたことであったとしてもである。それは”切り取り“であって、事実ではない。ただ、それを誠実さと柔軟さをもって、学習者にぶつけることはなんら間違ってはいない。スタディツアーに限界はあっても、そうした可能性も十分に持ち合わせている。今回、マレーシア研修に参加した面々には、そうした自信をもって、後期の教材作成に取り組んでほしいと切に願っている。

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コメント

なるほど、カカオのその種子をココアに
するんですね。

実は、「神代植物園」の温室になっていたの
を見たことがあります。いきなり枝というか幹?
から出てたような。。。

体験はおっしゃるように限界がありますね。

危険だなあと思うことの方が増えました。
でも、体験があるのとないのとでは信用度
が全然ちがう。(過剰な評価なんですけど)

それと、むしろ、多くのももは、実はよく似て
いることに気づくことが多くなってくると思います。

はでな違いよりも、地味な共通点。
たいした違いはないなー。

という、冷めた発見。
ま、興奮することが減ってしまっているんでしょうね。
それもちょっと残念だけど。

教材の素みたいなのを探しに行くと、それにあわせて
その世界を見ようと、脳は最初から身構えるでしょうね。

わからないことも、わかったように思うものも増えてくるでしょうね。
教師がたとえ正確に事実を伝えても、それがそれほど影響力
を持つこともないように思います。むしろ、自分の間違いに
気づいたときに、どんな態度でなんというのか?そうした、その
人間がまるごと試されるような場こそ、記憶に長く残るような
気もします。

それにしても、アフリカはおろか、外国、どこも行ってないなあ~
円高にもかかわらず、ワーキングプアなので、それどころじゃない?
感じで自転車でのみ移動しています。外国に行けるのは、やはり
かなりの人で、しかも仕事で行けるのは、まちがいなくエリートです。

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