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2011年10月 6日 (木)

我が家の小さな哲学者

 まだ言葉を操らないから気づいていないだけだが、娘は大人(当然、特に親)を見て、まねごとをし、幾何級数的に人としての知恵を身につけている。イイこともワルいことも。あらゆる日常を見られている親としては、おちおちとしてはいられない。

 おおよそはその成長を微笑ましく見ていられるのだが、唯一、私も妻も許せないのが、思いっきり鼻の穴に指を突っ込むことである。しかも、それが快感であるような表情をしているのだから、即指導を入れる。
 しかし、娘のほうが上手で、「止めなさい」と指を引き抜いても、更なる笑みで、その所作を繰り返す。こちらも笑うしかないのだが、
たかだか1歳のやることとは言え、曲がりなりにも女の子である以上(娘はあらかた男の子に間違われる)保育園に行く前には何としてでも止めさせねばなるまい。というか、人としても解せないか。

 とにかく、娘はそんな親の思いを意に介さない。こちらは呆れ果て、最後に矛先は夫婦双方に向けられる。「普段、お前が日月生(←娘の名前)の前で、鼻、ほじってんだろ!」「いや、あなたでしょ!」と責任をなすり付け合っているのだ。

 子を持つと本当にいろいろなことを考えさせられる。生き方のシンプルさに、娘から学ばされることも多い。前述のエピソードじゃないが、娘が鏡となって、自分を見透かされるような気分になることもある。
 また、子育てを介して、今まで持つことのなかった、けども持つべきだったと思う時間を持つようにもなっている。

 帰りが遅くなければ、娘を寝かせつけるのは私の役割だ。風呂に入れ、服を着させるまでが私の役割で、その後、妻がおっぱいをくれてやり、再度、私にバトンタッチされ、二階の寝室に連れていく。
 最近のパターンとして、妻の乳房から離されるや否や、私に“拉致”されることを予見し、「こっち来るな〜」と大泣きが始まる。それでも強引に連れていくと、布団に乗せてもしばらくは泣き止まず、挙句の果てには、策が尽きたと指をしゃぶって天井を見やり、「これはなにかの間違いだ」とばかりに現実逃避へ走っている。やばいことに、目は見開いて完全にイッっちゃっていて、意識は彼岸に行っている。

 さすがにそのうち本当に「彼岸」へ行き、眠りにつくことになるのだが、一応、目が開いている状態まではそばを離れられず、添い寝してあげている。その時間が、時に5分だったり、30分だったりするのだが、実にいい。

 照明は落としてあり、音はほとんどしないので、私自身が瞑想しているような時間となる。今日の仕事の捗り具合をふりかえることもあれば、明日やるべきことを整理することもある。この子と10年後はどんな会話をしているのだろうと想像し、まだお風呂に一緒に入ってくれるだろうかと願いも込める。孫には生きているうちに会えるだろうか、老後は妻と仲良くやれているだろうかと心配もする。
 “瞑想”と言うには大げさで、卑近で雑多なことがほとんどだが、静かに自分と家族を見つめ直している時間であることには間違いない。言葉を交わすわけではないが、そうした意味で、私は娘とのこの時間を我が家の「哲学」の時間だと思っている。

 すでにロードショーは終わっているようなのだが、自主上映会でもいいので『小さな哲学者たち』という映画を観てみたいと思っている。3〜4歳の園児を対象に実際に行われたフランスの幼稚園での哲学の授業の模様が描かれているドキュメンタリーだ。予告編でほんの一部分とはいえ、子どもたちのやり取りは実に深遠で興味深い。

 「愛ってなに?」
 「自由ってどういうこと?」

 
彼らのあまりに自然な問いかけとそこに真摯に向き合う姿を見ると、どうしてこんなにまで現代人は哲学を語らなくなったのだろうと残念に思う。

 ま、そんな偉そうに言えるほどではないのだけど、少なくとも娘に機会を与えられた「哲学」の時間があることに感謝している。そして、寝かせつけながら、二回に一度は私も「彼岸」へ行ってしまい、睡眠学習の機会まで得られているわけなのだ(笑)。

 いろいろな機会を与えてくれている、うちの“小さな哲学者”には感謝しきりなのである。

Img_2371
 

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コメント

おもしろそうですね、『小さな哲学者たち』。

経験が少ない分だけ、考えにくいようでいて、
逆に、複雑さに邪魔されないで、すっといける
ようなところもあるかも。

「考えるのがおもしろい」、といってた子がいましたが、
久しぶりに聞いたようなコメントでした。

最近、考えるのが面倒になって、感じることだけで
もうええんとちゃうかなあーなんて、思いがち
な自分を少し反省しました。

昨夜やっていたNHKの
歴史ヒストリア「井上円了」は、
妖怪学も講義する哲学者。

なかなか面白いと思います。
「愛」とか「自由」とかじゃない
哲学を感じさせてくれました。

東洋大学の創始者でもあるそうですね。
(中野区の哲学堂にも関係のある人です)

今晩は!初コメ失礼します(*´v゚*)ゞ

『小さな哲学者たち』私もずぅっと観たいと思っていたんです!!
ちなみに我が家の4歳児は
「ずっと愛してね~」って言うのが最近の口癖。(どこで覚えたんだか。)でもって、
「『愛する』って何?」と聞かれ。。
「すっごく好き!って事だよ。」と答えたのですが、それでよかったのかと自問自答。
本人は「ふぅ。すてきだね。」と満足げでしたが。

今夜は「ママ、『ひ○○ちゃんが(娘の名前)が大好き。』その気持ちが一番大事なんだよ。」といきなり言われ。しばし絶句。。。。

娘さん、おもしろいですね。

今の私なりの「好き」と「愛する」の定義ですが。。。

「好き」は「いいな」と好ましく思っている(自然な)状態だけど、

「愛する」は、嫌いでも憎くても深い関心をもって見続けてるよ、
という(意志的な)行為、かな。

そんなことを思わず考えさせられました。

何か関連があるかなと

『のための哲学』永井均 講談社現代新書
『子どものための哲学対話』永井均 講談社

をのぞいてみました。

哲学の徒は古代から「子ども」だったとのこと。
子どもの哲学の根本問題は「存在」だとも。
以下、

青年ー人生(生き方)
大人ー社会(世の中の仕組み)
老人ー死・無

その最終段階でもう一度「存在」の問題に立ち戻る
ようです。

なるほど。

ん〜、なんか深いですね〜。子どもは「本質」なんですね。

脱字を訂正します。

誤:『のための哲学』
正:『のための哲学』

です。

子どもが本質に近いのと同様、
老人も本質に近いようですよ。

一番、遠いのは働き盛りの
中年期ではないでしょうか。
(でも、そこには別の意味の本質?
もあるように私には思えます)

花は植物の本質ではないけど、
ある意味、ひとつの典型として
植物のハイライト部分みたいな。

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