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2012年4月15日 (日)

わたくし、ミーハーにつき

 今月初旬に調べ物があって、国会図書館に足を運んだ。小雨が降りしきり、ただでさえ人影の少ない官庁街がなおのこと淋しい。だから、余計に横断歩道の向こうにいる人が目立つ。
Img_2913
 あれは加藤紘一氏にちがいない。

 勝手なイメージだと、国会議員たるもの、常に秘書が傍らにいるものだと思っているから、一人で青信号になるのを待っているのは、やけに違和感がある。たまたま国会図書館の前にいただけかもしれないのに、その時は「国会議員って一人で調べものをしに行くこともあるんだ」と、メディアから伝わる華やかさとは裏腹に、不憫さを感じてしまった。「あんたは大将なんだから」と慰留される場面ばかりが印象に残る“加藤の乱”以後
(ちなみにあの時、必至に慰留してたのが谷垣現自民党総裁であったのは、今回調べてみて思い出した)、急速に影響力を失い、表情にも精気がなくなってきたように見えるから、そう思ったのかもしれないが。

Img_2915_2
 あの時の桜はまだ開花したばかりで物寂しかったが
(上写真は国会図書館前のソメイヨシノ)、今週は満開の桜を愛でることができた。梅や桃もいつもより開花が遅れたせいで、今年はそれらを同時期に見ることもできた。(下写真は、今日家族で見に行った青梅市の安楽寺の桜と桃)

3
 さて、この時期は番組改編期でもある。ちょうど2年前のこの時期、深夜に再放送されていた『ハーバード白熱教室』を見てハマっていったのだが、まさかあそこまでのサンデルブームになるとは思っていなかった。「俺はブームになる前から目を付けてたんだぜ!」と嫌らしく言うつもりはさらさらないが、それでも内心、なぜか優越感を抱いていた。完全なる自己満足だが。

 で、今年、また「流行るのでは?」と目を付けた番組がある。NHK Eテレで月曜11:00〜11:25(再放送は毎週日曜深夜0:45〜1:10)に放送の『スーパープレゼンテーション』がそうだ。やはり
「俺はブームになる前から目を付けてたんだぜ!」と言うつもりはさらさらないが、自己満足の優越感には浸りたいので、本当に流行ってほしいと思い、こうしてブログを書いている(笑)。

 この『スーパープレゼンテーション』は、TEDカンファレンスでの秀逸なプレゼンを紹介する番組
(番組としては語学番組としての様相もあり)奇遇にも私が『ハーバード白熱教室』を紹介したブログ(2010年4月25日「サンデル教授の白熱講義」の冒頭で、そのTEDに触れていた(俺は2年前から目を付けてたんだぜ)

 ちなみに、初回はスウェーデンのハンス・ロスリング。新しい統計表現のソフトウェア開発で聴衆を魅了する。
 以前にも誰かからのメールで「面白いYouTubeがある」と紹介され見たものがあったが、それがハンス・ロスリング氏で、TEDでの別のプレゼン
(日本語版は「Hans Roslingの先入観に関する話」だった。彼が開発した統計ソフトで分かりやすく「先進国=小さな家族で長寿、途上国=大きな家族で短命」という認識が現在は大間違いであることを示されると、ああいう展開でプレゼンをすれば惹き付けられるよなぁと感じたことを思い出した。

 今回は、その得意のソフトウェアだけでなく、前半はアナログな方法でプレゼンを始めていった。その様は、まるで池上彰のようで、これもまた惹き付けられる。
 明日の講義でさっそく活かしたいが、そう一朝一夕にはいかないだろう。予約録画は完璧なので、時折、チェックし、全回見逃さないようにしたい。

 これは私だけのものにしておくのはとてももったいないから、皆さんにも毎回チェックされることをお勧めしたい。まずは明晩必ずチェックですよ〜。そうすれば、きっとこの番組も流行るに違いないはず。言いたくはないですが、半年後ぐらいにはきっと「俺はブームになる前から…」、いえいえこれぐらいにしておきましょうね(笑)。


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コメント

国会図書館、一度は中に入って
みたかったけど、書庫に入れない
ということで、結局、入らずじまい。
残念。あこがれの場所です。

TEDやサンデル教授に関する
2年前のブログの内容、覚えて
ます。先見の明がありましたね。

日本版というか、また違った味の
あるこうした議論やプレゼンの場
が日本などにもできたらいいなと
思います。

大学の先生もミーハーになった?時代に
私たちは何を大学に求めればいいのだろうか?

などと考えていたわけではないのですが、

今朝(4/21)の朝日新聞の「時事小言」という
コラムに藤原帰一氏が「大学の役割」という
一文を書かれていました。

そこに引用されていた立教大学の総長さんの
言葉も重いものでした。

でも、こんなこと考えている大学の先生も
おそらく、一握りの人だろうなあ~とも思ったの
でした。

 森井さん、ご紹介の記事、一生懸命探したんですが、見当たらず…。その日の新聞では、前にもブログで紹介した橋本武さん(元灘中学教師)の記事は切り取っていたのですが、「藤原先生の記事には目が留まらなかったなぁ」「藤原先生のコラムは夕刊だったような?」と不思議に思って検索かけてみたら、朝日新聞デジタルに掲載がありました。途中までですが。
http://www.asahi.com/politics/intro/TKY201204170254.html

 そこから掲載日を推測し、先週の新聞を引っ掻き回していたら、こちらだと17日付の夕刊に掲載がありました。で、目を通しましたよ。私が非常に共感し、かつ身を引き締めたのは、「『考える』という営みは既存の社会が認める価値の前提や枠組み自体を疑うという点において、本質的に反時代的・反社会的な行為である」というところと、そこに続き、「『今あるもの』ではないものを現実につくることは不可能なのか。その検討こそが『考える』ことでお給料をいただくという特権に恵まれた大学教員の責務だろう」というところです。

 特に、311以後に関しては、“大学教員”としての立場もそうですが、一人の人間として、あるいは自分が住む社会が、問われている(試されている)のだと強く感じています。

そうでしたか。地域(時間)差?ありますね。
(ちなみに朝日新聞の夕刊は徳島
にはありません)

さて、内容に関してですが。。

確かに「見えないもの」を語れないようでは、
わざわざ聴こう(読もう)という気にはなれない
というのもわかりますが、一般的なフツーの生活
をしていたら、「見えるはずのものでも見えない」
状態。仕事などで疲れていたら、「考える」こと
はおろか、隣で起っていることも「見えない」「気づか
ない」。。。かも。
(私は経験上、何度も大失敗しました。とほほ)

また、
大学の教員も、「教員」の側面が大きくなり、とても
「考える」こと(だけで)給料をもらってないよなー
と思っている人も多いのでは?
(たとえば、旧制中学の方が今の大学よりも少なかった
らしいし)

比較的、そういうことも期待してしまうのは、もちろん
ですが、「信用」ということになると、3.11以降は
特に、こころある人は「たいしてしてませんけど」
なのだと思います。(メディアをみる眼が変わった
ようですね。でも、失望して離れてしまうと危険かな)

それほどに、知ることも考えることも実行すること
も、「思ってるほど」易しいものではないのかも知れ
ませんね。DEARのWSなどでもよく感じることです。

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