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2012年5月18日 (金)

拝啓 ライバル・猫ひろし様

 私が東京マラソンに初出場できたのは2008年の第2回大会のことである(ちなみに、以後、2010年、2011年と3度出場させてもらい、一応、すべて完走している。写真は、完走するともらえる各大会のメダル)Img_3179 これ自体がフルマラソン挑戦2度目のことだったが、記録としては市民ランナーがとりあえず目指すサブフォー(4時間切り)は達成できたので、自分としてはよくやったほうだと思う。ただ、30km以降はボロボロで、何度か歩いてしまっていた。

 “走っているつもり”のほぼウォーキングでかろうじて前へ、前へゴールに向かっていた37km地点。後ろからみるみる声援の波が押し寄せてきた。おそらく著名であろう人が近づいてきているだろう気配。一ランナーとしては抜かれることの悔しくはもちろんあるが、ミーハーである私としては順位がひとつ下がることよりも誰が近づいてきているかのほうが気になって仕方ない。

 「この声援の大きさは、その有名人の人気に比例するにちがいない」

 そう思い込み、むしろ追い越されるその瞬間を待ち望んだのだった。それが、今やオリンピック選手候補にまでなった猫ひろし氏だった。完全にバテている私は、颯爽と彼に追い抜かれ、余裕で抜かれてしまった上に“そこそこ”の有名人だったことに二重のショックを受け、その後はやっとこさゴールにたどり着くような有様だった。
 猫氏は3時間48分57秒で、私が3時間53分49秒
(ネットタイムだと私は3時間49分10秒。ちなみに、有名人に追い越されたのは彼だけで、私の少し後に鈴木宗男氏がゴールしている)。わずか5分ほどの差だったライバルは、年々記録をぐんぐん伸ばし、あとは皆さんご承知の通りである。
 彼とはほぼ同レベルだと思っていたが、沿道の声援にその都度「にゃ〜」と何百回とやりながら42.195kmを走りきった潜在力を当時は計り知ることはできなかった。

 確定したかと思われていたロンドンオリンピックへの出場が絶たれ、記者会見を開いたのが今日12日。そこで猫氏は現役続行を誓った。私は素直に彼を応援したいと思う。
 「標準記録に達する選手がいない場合は(おそらく今後の競技の普及発展を見込んで)男女1人ずつ選手を派遣できる」という“裏技”を使い、カンボジア国籍を取得してロンドンオリンピックを目指すと表明して以来、賛否両論
(おそらく彼に届く声は「否」のほうが多かったと思うが)が沸き立つ中、こうした顛末に両者の溜飲が下がったにちがいない。4年後のリオデジャネイロオリンピックへの出場に意欲を見せているようだが、今回仕切り直しをし、ルールに則った形で五輪出場資格を得て、チャレンジすればいいのである。正直、年齢的な問題と芸能活動との二足の草鞋では、五輪出場という夢の実現はかなり厳しいと思う。それでも彼が折れずに前を向いたことにエールを送りたい。

 そもそもスポーツ界において「国籍」はほとんど意味を成していないと言っていい。五輪に出ることは“国を背負って”との形容詞をつけられることがあるが、そんなことを思って競技をしているアスリートは皆無だろう。彼らは、自分自身に挑戦し、その限界に近づくことに、あるいはそこに到達すればさらに先へ限界を設け、再挑戦していくことに喜びを覚えているのである。「国」という枠は、五輪というエンターテイメントを盛り上げる“仕掛け”にすぎない。高校野球で、県外の有望選手をかき集めた強豪校でも「同郷」として応援したくなる心理と一緒で、心理学では「類似性の要因」と呼ぶのだそうだ。A国、B国と枠で括り、対抗意識を煽り立て、「メダルをいくつ取った」とランキングさせれば、ひとつの応援のフォーマットができ上がる。手っ取り早いオリンピックの楽しみ方は、単にそこに乗っかればいいのである。

 一方で、アスリートたちは限界に挑む(=最高の舞台で自分を試す)ことができるのであれば、そうした枠組みは形式的に利用する。それは日の丸だろうが星条旗であろうが背負うものは関係ない。アフリカの中長距離の選手がこぞって中東の国に国籍を変え、その国代表としてオリンピックに出ているのがいい例だ。それらは「限界に挑む」というアスリートの本質的なところではなく、お金目当てや功名心にはやってだと言う輩もいるだろうが、いずれにせよ、国というこだわりをまるで度外視して活躍の場を求めた点では一緒である。

 そもそも五輪憲章には、「オリンピック競技大会には、個人種目または団体種目での選手間の競争であり、国家間の競争ではない」と明記されている。国別に代表団を送らせたり、開会式で行進させたりしているのは、あくまで運営上の便宜だと考えたほうがいい。

 今回、猫氏の国籍変更が物議を呼ぶことになったが、これまでもサッカー・ワールドカップ予選で日本の本戦出場が危ぶまれた時、直前で国籍変更した呂比須ワグナーが活躍し、その危機を救ったり、中国からの卓球選手が帰化して日本選手権で優勝するなど、その例は挙げれば枚挙にいとまがない。
 逆に、日本人選手が外国籍をとる例もある。ロシア選手とペアを組んでバンクーバー五輪のフィギュアスケート・ペアでメダルを取るため、川口悠子がロシア国籍を取得した例は記憶に新しい。
 そうした日本にとって“いいニュース”となる変更は波風が立つことはないが、シンクロナイズドスイミングで日本代表コーチだった井村雅代が、北京五輪に向けて強化を図る中国で代表監督に就任した際には、「売国奴」などと痛烈な非難が浴びせられる。
(この場合は、選手ではないので、国籍変更したわけではないが)

 ただ、今回の猫氏の場合の物議は、そういった類いとは違うところで起きている。
(カンボジアオリンピック委員会を買収した疑いがあると一部週刊誌が報じているが、その真意は私には確かめる術がない)
 これまでの例は、選手がレベルを一段階下げて出場の機会を目論んだり、強化策の一環として普及推進がねらいであったりした「スポーツ先進国(または強豪国)」と「スポーツ中進国(または強化推進国)」間のやり取りであったのだが、猫氏の場合、「スポーツ途上国」とのやり取りだったため、あからさま加減がいい印象を与えなかったのだろう。

 そうなると、猫氏の今回の言動をカンボジア国民がどう見たのかというところの問題になる。ここに限っては、アスリート個人としての「限界に挑む」という本質だけで片付けられることではなくなってくる。Img_2
 もし、再度、“カンボジア人”としてオリンピックを目指すのであれば、マラソンの魅力をどれだけカンボジアの人たちと共有できるようになっているかが、猫氏へ課されてくる。その猶予は、長いのか、短いのか、4年という歳月だ。彼は、アスリートとしてよりいっそう磨きをかけるとともに、“大使”としての大きな任務も背負うことになる。

 その覚悟が、あの会見でできていたものだと昔のライバルとして思いたい。


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コメント

この「話題」については、先日T先生の
ブログにもあがっていて、そこでは、

1.カンボジア語を習得する
2.年の半分以上はカンボジアに居住する
3.カンボジアに「骨を埋める」ことを表明する

という最低ラインを示されていました。

一方、石川さんのは、「マラソン」する人の
視点で書かれてますよね。

人それぞれの立場というか、それと切り離せない
価値観というか、ものの見え方があるにゃ~と
あらためて思いました。

T先生とも石川さんともちがった立場にいる私としては、
おのずと、別の見え方が、たぶんある気がします。

石川さんご自身の中にも、「アスリート石川」や
「ミーハー石川」さらには「大学教員石川」などなどが、
(たぶん)矛盾なく、共生しているように思いました。
論旨がぼけるので、そのうちのここにスポットをあてると
こんな感じに。。。でも、別の要素もおのずと出てたりして
ますよね。(本当はあれもこれもなんでしょうね。違いは
プロポーション?)

また、スポーツやタレント、それを見る人のことなどを、
あれこれ考えていたら、

遊びをせんとや 生まれけむ 戯れせんとや 生まれけん
遊ぶ子どもの 声聞けば わが身さへこそ 揺るがるれ

という大河ドラマ『平清盛』で盛んにでてくる 
あの梁塵秘抄の歌が、なぜか、浮かんできたのも不思議です。

そういえば、

『暇と退屈の倫理学』國分功一郎 朝日出版 

を最近読んでいることも影響あるかも。


自分のイメージでは、猫さんには青年海外協力隊的なポジションがいいんじゃないかと思っています。

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