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2012年5月 5日 (土)

特別支援学校における開発教育

 自分が“専門”などとしているものの中にも結構分かっていないことはあるものだ。だから、あんまり「○○が専門です」と言い切ってしまうのは憚れる。けども、その「分かっていないこと」との出会いが、専門と言われるところを深めてもくれる。
 ここ2年、教師海外研修の講師を務めている縁で、特別支援学校の様子を覗かせてもらう機会があった。まさにそこは「教育が専門です」と言っておきながら、私の「分かっていないこと」であった。授業見学をさせてもらったF先生は、その後、中心となって「チーム特支」(正確には「JICA教師海外研修 特別支援教育チーム」)を結成し、授業実践報告集まで編集、発行されたのだ(下写真)。そのエネルギー(パッション?)たるや、感心しきりである。
 先日、その報告書が手元に届き、改めてページを繰ってみた。ありがたいことに、私の文章も巻頭言として載せてくれている。せっかくなので、それをここに転載してみようと思う。
 

特別支援学校における開発教育・国際理解教育について思うことImg
石川一喜(拓殖大学)

 「特別支援学校」というところに皆さんはどんなイメージを抱いているでしょうか。おそらく“障がい”を持つ子どもたちが通う学校という程度のイメージで、そこでどんな教育が行われているか具体的に想像できないというのが一般的なのでしょう。“通常”ではないカリキュラムが組まれ、文字通り“特別な支援”を必要とする形で授業が執り行われているにちがいない、そんな抽象に留まったイメージで見られているのではないでしょうか。しかし、そうした認識は「当たり」であって、かつ「はずれ」でもあるのです。
 このことに限らず、そもそもイメージが抽象に留まる背景には「私とは違う世界の話」だとする当事者性の欠如があります。よくワークショップで「イメージマップ」という世界地図を描いてもらうアクティビティをしてもらいますが、行ったことのない国や関心の薄い地域は非常に曖昧に描かれてしまいます。ひどい時には、描かれることもなく“消滅”してしまうことすらあるのです。つまり、実体験のないことや無関心は、時に誤解となり、場合によっては偏見や差別へとつながっていくおそれがあるのです。
 さて、特別支援学校で開発教育・国際理解教育を実践すると聞いた時、私たちはそれをどう受け止めるでしょうか。「障がい児に理解できるの?」「実践して意味なんかあるの?」「もっとやるべきことがあるんじゃない?」そう訝しく思う人も少なからずいるでしょう。もしそう思ってしまったのであれば、教育の本質が「潜在している能力を引き出す」(educationはラテン語の「ducere 外に導きだす」を語源としています)ことであることを再認識してほしいのです。
 私は平成22年度から開発教育・国際理解教育のアドバイザーとしてJICA教師海外研修に携わらせてもらい、研修に参加された先生方の実践を数多く拝見してきました。その中には特別支援学校での実践も含まれていました。正直に言えば、私も特別支援学校での実践をイメージできず、訝しく思っていた者のひとりです。開発教育や国際理解教育の専門家ではあったものの、“特別支援学校における”開発教育・国際理解教育となれば、まるで門外漢であったと言わなければなりません。
 しかし、実際に授業実践を見れば、他に見学した授業と遜色はなく、同じように研修先の国を生き生きと紹介する先生とそれに呼応する生徒さんたちの姿がありました。もちろんその展開のテンポや生徒さんたちの反応には多少の違いがあるものの、授業後には新しい視座を持ち、今までにない世界に見開かされたという点で全く変わりはなかったのです。先生の異国での経験を五感めいっぱいに追体験し、何かを感じ取ろうとする健気な眼差しは、まさに一人ひとりの生徒さんたちの中から何かが引き出されていることを感じさせ、教育現場の本来のあり方を見させてもらっている思いでした。そして、そこに開発教育や国際理解教育が大切にしてきたことの多くを見つけることができたのです。
 これからここで語る先生たちは、そうした教育の本質を決して踏み外すことなく、常に生徒目線の実践にチャレンジし続けてきた人たちです。一方的に何かを押し付けるのではなく、時には言葉で、時には素材を通して、時には黙り待ちながら…様々な形で生徒との対話を図り、一緒に悩み、感じ、思考してきた日々の積み重ねがこの報告書には凝縮されています。そうした実践は、何かを“通常”とし、それ以外を“障がい”とする線引きをせず、ただただ真摯に子どもたちに向き合うという“特別”なものは何もない正攻法を貫いています。そうした場づくりをしてきた教員を私は応援し、その教室にいる生徒たちの可能性が広がっていくことを信じてやみません。そして、この報告書を手に取った実践者が、報告書にちりばめられた言葉に後押しされ、また新たな試みがなされていくことを切に願っています。
 


 報告書の「おわりに」で、F先生は「国際理解教育/開発教育はもちろん、日頃の実践についても幅広く情報交換をして、自分の学びの場を広く、深くするだけではなく、共に力を合わせて児童・生徒、特別支援教育の分野に関わるすべての人の役に立つことができればと思っております」と書いた上で、「今後も特別支援チームは、“楽しく”“役立つ”研修を積みかさね、また、あらゆる機会にご報告できることを楽しみにこれから努力してまいります」と述べている。
 彼らの活動のこれからを私こそ楽しみにしていたい。

【チームへの参加、相談、問合せ】
 JICA地球ひろば 03−3400−7713
  JICA多摩地区デスク 042−620−7437(八王子市役所市民活動推進部国際交流課内)

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教育」カテゴリの記事

コメント

「教育が専門です」というのは、

たぶん
教育以外のものを前提にしている
場合、不自然じゃない。
一方、
教育の中だけを前提にすると、
それは細分されているので、
そんな専門、まず、ありえない。

ちがった例も考えた。
川と海はどんな関係なんだろうか?
同じ?ちがう?
「川」と「海」という別の言葉があるので
違って見えるけど。。。

そこで、地球を外側から眺めたつもりになると、
地球の表面にある「液体」に過ぎない。
人間サイズの認識や(飲める飲めないなど)
の都合で区分しているだけみたい。
(たぶん)魚なんかも別の見方をしてることだろう。

「専門」というのは(辞書的には)「専ら」それを
やっているということだったり、そのことだけに
関心を向けることのようなので、
「専門をいろいろ」とか「広い専門」というのは、
「丸い三角」に似てくるのかな。

「分かっていないこと」という表現も
「知らないこと」とどう違うか?
「分かる」前に「知る」が前提として来ないか?

「感心」と「感服」「敬服」との差は何か?
「先生のお話に感心しました」と使えるか?

などなど、言葉を扱って「糊口を凌いでいる」私は、
ブログから離れて、そんなことを妄想して
「センモン」しちゃいました。

私とはちがう世界には興味がある

でも、
私とは遠い世界には関心がうすい
大きなものでも遠くになると小さく見える

私はそれでいいと思うけど、
先生はなんにでも同じように関心を
持ちなさいという

でも、先生の関心は、いったい何?
それはどれも同じ大きさ?

教科書の中の話は
いつも私には遠い話。
受験のために、将来のためにという
ときの先生はもっと遠い。

もっと違う話をして欲しい
私の想像の及ばない、
近くにあっても見えない世界
私も世界もこえた
もっとちがった物語

森井さん、二つ目のコメントは興味深い詩ですね。イメージできそうでイメージしづらいですが、授業を進めていく上でのヒントになります。きっと学生たちは、そんな思いで聴いているのだろうなぁと思いましたよ。

大学の先生の場合、
(一番不自由だろうなあと私が想像するのは)、
「専門」に関して何でも知っていると思われること
ではないでしょうか?

言い換えれば、「素人になれない」不自由さ。

ちょっと思いつきで言ってみました。。。みたいな
ことや、
単純に知らないんですけど。。。みたいなことも
立場上、言いづらい。

でも、本当はそんなことありません。
わりと自意識過剰かも。

人は人に(特別な場合を除いて)ほとんど
関心は持っていないと思います。


特別支援学校に関していえば、
徳島県小松島市には今年度から
「徳島県立みなと高等学園」が
スタートしました。

教育・福祉・医療の総合で支援
していこうとする、発達障害の生徒
さんが対象の全国初の試みだそうです。
ひとクラス5-8名で、簿記や食品加工
など将来の自立に向けた専門的な
職業訓練もあるとのこと。

我が子には間に合いませんでしたが、
期待感を持って応援しています。


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