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2012年9月

2012年9月28日 (金)

いいものを少なく

Img_3451  今、我が家ではコーヒーをこの不思議な装置(左写真)で淹れている。

 3年前にコスタリカへ妻と旅した際、自分ちへの土産として妻が熱望して買ったものだ。私は「どうせ使わないんだから止めたほうがいい」と冷静に忠告をした。「使わなくなる」ではなく、はなから「まるで使わない」のだろうとの予告を込めてそう諭した。しかし、旅先でよくある一種の“熱病”にうなされていた(と私は思う)妻は、その忠告に最後まで首を縦には振らず、購入する羽目となったのだった。
 ちなみに、
この装置はコーヒーを淹れるコスタリカの伝統的な器具らしいが(妻は“伝統的”とか“手作り”とかいった言葉にめっぽう弱い)、道中、これでココスタリカ人からコーヒーを淹れてもらったことは一度もなかった。

 土産物屋さんでしかお目にかかれないような代物は、予言どおり、食器棚に鎮座させられ、飾り物としての運命を全うすることとなった。
 「ほうら、みたことか」なんて嫌らしいことは当然口にはしない
(少し思ってはいたけども)。彼女もあえてそこには言及しないので、むしろ、目にするたびに哀愁を帯びてきているようで、異国の地に連れてこられたその器具に同情さえ感じるようになっていた。Img_3294
 だからなのか、あの不思議な器具の運命が突如反転することになった。

 もう3ヶ月も前のことになるが、永いこと愛用していたコーヒーメーカーのガラス部分が欠けた。他の部分は正常なので、そこだけ買い替えればいいとメーカーに問い合わせたところ、部品代が5000円もかかると言う。高くても2,000円程度かと高を括っていたので、破格の5000円には仰天した。
 ちょうどゼミで、修理に出すより買い替えたほうがいいといった経済の仕組みの矛盾を指摘していた頃だっただけに
(下記『モノの物語』を見せた)、“経済的原理”(つまりコストでの判断)で使えるモノを廃棄して、新品を購入するのには心が痛んだ。そこで、冒頭の不思議な器具の登場という次第。ここで初めて妻はニヤリとやるのだ。「あれ、使うしかないわよね」とでも言いたげに。

※『モノの物語』(The Story of Electronics)
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=sW_7i6T_H78

 昨今、どうも経済の道理だけで考えると、腑に落ちないことが多い。だから、先日訪れた
川越にあるおもちゃ屋さん「ちいろば」の店主の言葉はやけに響いた。Img_4167

 最近、試験的に自主保育というものを気心の知れたママ友同士で妻は始めている。そこに来てくれている保育士のTさんが、いつもセンスのいいおもちゃを子どもたちに持ってきてくれるので、妻はとても感心していた。そこである日、「どこでそういったおもちゃは買えるんですか?」とTさんに訊き、紹介されたのが「ちいろば」だったのだ。
 たまたま川越に用事があったので、「ちいろば」を覗いてみようということになり、足を運んだ。小さなスペースいっぱいにおもちゃたちが並べられた店内は、子どもでなくともワクワクする。娘はその異空間に圧倒され、どこから手をつけていいものか、目のやり場に困っていた。その代わりになのか、私たち大人が先んじて遊びに興じ、娘が気に入ってくれるだろうおもちゃを勝手に発見。それは少々値が張ったが購入することにした。

 すると、店主らしきご婦人が近寄ってきて、私たちに声をかけてくれた。

 「いいものを少なくね」、と。

 商いをやっている以上、「儲ける」ことは至上命題である。だから、なかなかそんな言葉は
お客にかけられまい。きっと彼女の心持ちには、“売る”ではなく、“届ける”といったことのほうが強くあるのであろう。
 帰り際には「いいもの(本物)はいつまでも記憶に残りますよ」と店主のご婦人は言い添えてもくれた。
本当にその通りだと思うから、買い物をしたこちらも気持ちがいい。

 さて、先ほど触れた自主保育。誕生月にはみんなから誕生祝いの贈り物がもらえるのだそうだ。ただし、条件は¥0のもの。
 今月が誕生日だった娘は前回の自主保育でみんなからお祝いをしてもらっていた。そこでもらってきたのが、野の花、フウセンカズラ、カボチャ、無農薬のニンジン、拾ったドングリを入れる布袋…etc
 ¥0だけど、妙に嬉しいのはなんでなんだろう。

Photo_2
 お金を全く介しない世界というのはもうありえないのだろうけど、そうした世界の心地よさっていうのはある。それは、今夏、「足るを知る」を国是とするブータンでも感じてきたことであり、ゼミ合宿を行った大島でも金が全てではないことは重々承知してきた。
 だから物欲に溺れることだけはならぬようにしたい。

 でも、でも、あぁぁぁぁ、やっぱりiPhone5が欲しいぃぃぃ〜〜(笑)。

2012年9月13日 (木)

身体論と

 娘が初めて意図して絵を描いた。これまでは、ただただグジャグジャ描くだけで、「グジャグジャ」する動作に面白みを感じていたようなのだが、今回ばかりは違った。描いた後にはっきりと宣言したのだ、それがなんの絵であるのかを。

 彼女曰く、テーマ「ウ・ン・チ」
(下写真)

Img_4138
 これは“我が家史上”きわめて重大な出来事で、しっかりと記録しておかなければなるまい。たとえ、それが下品であろうと、なんでも「一番」には価値がある。彼女が最初に口にした言葉が何であったのかを父はすでに思い出せなくなっているのだから、のちに乙女心を傷つけることになろうとも、なおのこと、こうして記録しておくべきなのである。

 もしこれがきれいな花の絵だったら、あまりにフツーすぎてつまらない。むしろ親としては堂々とウンチを描ききってくれたことに無類の喜びを感じている。

 そこでおもしろがってFacebookにアップしたところ、知り合いのF教授から「身体論と存在論の弁証法的統一としての表現」との高尚なコメントをいただいた。実にそれは的を射ていて、事実、彼女のウンチは2歳とは思えないほど、立派で長い。
 最近では、「ひぃちゃん
(うちの娘の愛称)、ぷぅ〜したよ。クッサイよ〜」と無邪気にオナラの自白もする。物心がつく前の人間というのは、とことん正直で、最も人間臭い。まさに身体論と存在論の中でのみ生きていると言ってもいい。

 さらに悪ノリし、うちの妻もママ友連中にこの話をリークする
(父母ともに共犯である)。すると、その返信にはコミカルではあるが「日月生画伯」と称されており、こんな絵でも何かの間違いで評価を得てしまうこともあるのだろうと思ってしまう。

 そもそも芸術とは、その時代時代がめいっぱいの勝手な評価を下すことであり、“何かの間違い”は常に十分起こりうる。

 絵と言えば、最近もっとも話題を呼んだのが、スペイン北東部にあるボルハのキリスト画であろう。町の“画家”(80代のおばあさん)が修復したというそれは、元の絵の趣きがまったく無視され、まるでサルのようなまぬけなものに塗り替えられてしまった。
 画家の堀越千秋氏によれば
(参照:朝日新聞朝刊2012年9月12日文化面 「最悪の修復」に前例 キリスト画騒動に思う)、そもそも「修復作業」と「絵を描く」というのは別次元の作業で、修復を画家に任せてはいけないのだそうだ。しかも、他人の絵を直すぐらいなら自分の絵を描きたい!というスペイン人気質があるらしい(ほんとかな?)。この“画家”だと言い張るおばあさんは80代にしてまだその気概があるのだから、それはもう大したもんである。

 このまぬけな絵は、「世界最悪の修復」と酷評される一方で、復元計画を見直し、そのまま残しておくべきだとの声も多い。オンライン上では、ボルハ市に対し、復元計画の見直しを求める署名が1万8千人分も集まったそうだ
(先月下旬時点)
 当初、“失敗”との烙印を押されたこの絵は、結果としてとてつもない力を持っていたことを証明した。その「承認」が今後も継続していくか、私にはとても想像がつかないが、現世が認めたれっきとした「現代アート」であることには間違いない。もうそれはそれでよくて、後世で受け入れがたくなれば、また修復してもいいではないか。
 そもそも“修復”というものは、酷似させようが、似ても似つかぬものになろうが、別物になったわけなのだから、その差の程度はどうでもいいと私は思う。だから、あの修復画はアリなのだ。

 誰もキリストを見たわけではなく、どんなに信仰心にあふれても想像で描いているにすぎない。だから、
“偶像として”なのであれば、あれが間違いだと言うわけにはいかない。
 
むしろ、私の娘のように身体論と存在論で表現することが人間臭さの極みであるのであれば、写実的ではなくなったあの修復画はもっとも“キリストっぽい”ともっと賞賛を浴びてもいいのかもしれない。


【参考】
AFPBB News(8月26日) 「世界最悪」の修復キリスト画が大人気、訪問者が急増
http://www.afpbb.com/article/life-culture/culture-arts/2897332/9413856

2012年9月 6日 (木)

大石先生のように

 先週はすっかり家族サービスに費やした。夏はどうしても海外に行くことが多く、家を1週間単位で空けざるをえない。育児をはじめ家事のほとんどを妻に賄ってもらっているのだから、罪滅ぼしの家族旅行に出かけようと前々から計画をしていたのだ。
 でも、家族“サービス”というのはなんともおかしな日本語ではないか。一般的にこの言葉は、罪滅ぼしするはずの夫のほうが妻子に対して、“してあげている”という含みを感じる。日本語の「サービス」にはそんなニュアンスがあるが、むしろ英語としての「奉仕」の意味のほうが採用に値する。
 ただ、ブログでそんなことを書けば書くほど、「家族サービス」という言葉を使う以上に恩着せがましくなる。あえて書き記しておくが、僕はただただ純粋に家族と楽しく旅行に行きたかったまでである(笑)。

 さて、そこで向かったのは小豆島。とくにうちら夫婦にゆかりがある場所でもなく、前々から行きたいと思っていた場所でもないのだが、「日常と違うどこか」ということで、ほぼ「ダーツの旅」のごとく、思いつきでそこにすることにした。なんとなく思いついた小豆島旅行だったが、倉敷に妻の幼なじみがいたこともあり、結果、再会や出会いのある旅となった。

 小豆島と言えば、思い出されるのは壷井栄の『二十四の瞳』。実は、妻も私もちゃんと小説や映画をみたことがなかったのだが、せっかくなので「二十四の瞳映画村」に行ってみようということになった。
 映画のセットが残されたそこは、ただただ懐かしい風景がある。もちろん自分が習った学校の風景よりももっと前の風景なのだが(映画の舞台は戦前)、共感できる空間だ。おそらく日本人が典型的に郷愁を覚える風景にちがいない。

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 旅から戻り、さっそくDVDを借りてきて高峰秀子主演の『二十四の瞳』を妻と観た。映画は昭和29年公開なので、それが上映されていた頃の小学生というのは、まさにうちの母ぐらいの世代である。その頃の小学生たちは(もし映画館に行くことができていたのであれば)『二十四の瞳』をどう観たのであろうか。その時代の教師や教室の風景と映画の中の世界はシンパシーを抱くものだったのであろうか。

 高峰秀子演じる大石先生は、12人の子どもたちを「児童」というよりも、「我が子」のように思いながら接していく。
 事実、実の親よりも彼らに接している時間は教師のほうが多いかもしれない。そう思うと、親同然になるのも頷ける。

 昨日から伊豆大島で私のゼミの合宿が始まった。大学4年間のうちの3年を私のゼミで過ごすのだから、大石先生同様、「我が子」のようなものである。だから、誉めもし、叱りもする。奉公に出されたり、戦地に向かわせることがないだけ、大石先生よりも恵まれているのだろうが、「我が子」を思う気持ちにかわりはない。

 昨今の大学は、学生に対し、手取り足取り、やりすぎではないかと個人的には感じている。学生と教員の関係は“サービス”に成り下がってはいけない。両者が大人である以上、真剣勝負の付き合いを私はしたいと思う。

 まずは、ただただいい合宿になることを願っている。

※合宿の様子をFacebookで時々報告しています。

【おまけ】
 こちらは本当の我が子。まだ小学校入学は先ですが、5年後のイメージを「やらせ」てみました。

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