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2012年9月13日 (木)

身体論と

 娘が初めて意図して絵を描いた。これまでは、ただただグジャグジャ描くだけで、「グジャグジャ」する動作に面白みを感じていたようなのだが、今回ばかりは違った。描いた後にはっきりと宣言したのだ、それがなんの絵であるのかを。

 彼女曰く、テーマ「ウ・ン・チ」
(下写真)

Img_4138
 これは“我が家史上”きわめて重大な出来事で、しっかりと記録しておかなければなるまい。たとえ、それが下品であろうと、なんでも「一番」には価値がある。彼女が最初に口にした言葉が何であったのかを父はすでに思い出せなくなっているのだから、のちに乙女心を傷つけることになろうとも、なおのこと、こうして記録しておくべきなのである。

 もしこれがきれいな花の絵だったら、あまりにフツーすぎてつまらない。むしろ親としては堂々とウンチを描ききってくれたことに無類の喜びを感じている。

 そこでおもしろがってFacebookにアップしたところ、知り合いのF教授から「身体論と存在論の弁証法的統一としての表現」との高尚なコメントをいただいた。実にそれは的を射ていて、事実、彼女のウンチは2歳とは思えないほど、立派で長い。
 最近では、「ひぃちゃん
(うちの娘の愛称)、ぷぅ〜したよ。クッサイよ〜」と無邪気にオナラの自白もする。物心がつく前の人間というのは、とことん正直で、最も人間臭い。まさに身体論と存在論の中でのみ生きていると言ってもいい。

 さらに悪ノリし、うちの妻もママ友連中にこの話をリークする
(父母ともに共犯である)。すると、その返信にはコミカルではあるが「日月生画伯」と称されており、こんな絵でも何かの間違いで評価を得てしまうこともあるのだろうと思ってしまう。

 そもそも芸術とは、その時代時代がめいっぱいの勝手な評価を下すことであり、“何かの間違い”は常に十分起こりうる。

 絵と言えば、最近もっとも話題を呼んだのが、スペイン北東部にあるボルハのキリスト画であろう。町の“画家”(80代のおばあさん)が修復したというそれは、元の絵の趣きがまったく無視され、まるでサルのようなまぬけなものに塗り替えられてしまった。
 画家の堀越千秋氏によれば
(参照:朝日新聞朝刊2012年9月12日文化面 「最悪の修復」に前例 キリスト画騒動に思う)、そもそも「修復作業」と「絵を描く」というのは別次元の作業で、修復を画家に任せてはいけないのだそうだ。しかも、他人の絵を直すぐらいなら自分の絵を描きたい!というスペイン人気質があるらしい(ほんとかな?)。この“画家”だと言い張るおばあさんは80代にしてまだその気概があるのだから、それはもう大したもんである。

 このまぬけな絵は、「世界最悪の修復」と酷評される一方で、復元計画を見直し、そのまま残しておくべきだとの声も多い。オンライン上では、ボルハ市に対し、復元計画の見直しを求める署名が1万8千人分も集まったそうだ
(先月下旬時点)
 当初、“失敗”との烙印を押されたこの絵は、結果としてとてつもない力を持っていたことを証明した。その「承認」が今後も継続していくか、私にはとても想像がつかないが、現世が認めたれっきとした「現代アート」であることには間違いない。もうそれはそれでよくて、後世で受け入れがたくなれば、また修復してもいいではないか。
 そもそも“修復”というものは、酷似させようが、似ても似つかぬものになろうが、別物になったわけなのだから、その差の程度はどうでもいいと私は思う。だから、あの修復画はアリなのだ。

 誰もキリストを見たわけではなく、どんなに信仰心にあふれても想像で描いているにすぎない。だから、
“偶像として”なのであれば、あれが間違いだと言うわけにはいかない。
 
むしろ、私の娘のように身体論と存在論で表現することが人間臭さの極みであるのであれば、写実的ではなくなったあの修復画はもっとも“キリストっぽい”ともっと賞賛を浴びてもいいのかもしれない。


【参考】
AFPBB News(8月26日) 「世界最悪」の修復キリスト画が大人気、訪問者が急増
http://www.afpbb.com/article/life-culture/culture-arts/2897332/9413856

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コメント

「修復作業を画家にさせない」のは、
そうだろうなと思います。

通訳が自分の意見を通訳します
といいながら、どんどん入れると
こまるだろうし、翻訳家が自分の
表現をどんどん書き込んで話を
変えても原作者は嫌だろうし。

「超訳」というのがありますが、
あれはその禁を破りますよと
宣言しながらやっているのかな
と思います。「翻案」という領域で
しょうか。

ということは今に始まったわけでは
なさそうで、どの領域の作業かと
いうところでのズレが問題になったり、
ならなかったりしているのでしょうか。

ウンチもオナラも「我より出でて我とは
思えず」みたいな「自他の領域」の問題
であるように思います。
このあたり、「領土問題」にも似て?
関心のありそうなところですよね。

私自身は「どちらか片方ではない」という
のが本当のところのように思いますが。

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