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2012年11月

2012年11月30日 (金)

奇妙な国、ブータンの「普通」

※今回のブログは、拓殖大学国際学部のWEBマガジン『世界は今 VOL.17』(2012年秋号)に掲載したものです。下記のサイトにアクセスしてもご覧になれます(写真付き)。

■拓殖大学ホームページ(「新着情報」等からアクセスを試みてください)
http://www.takushoku-u.ac.jp/index.html
■拓殖大学国際学部のWEBマガジン『世界は今 VOL.17』(2012年秋号)
http://www.fis.takushoku-u.ac.jp/research/sekai/sekai17/sekainow17.htm



ブータンはまことに奇妙な国である。

 天の邪鬼な私は、“世界で一番幸福な国”と称され、国民の97%が「幸福だ」と言い切ってしまうことを訝しく思い、今夏、半ば興味本位でブータンを訪問した。

ブータンは、面積が九州ほどで、人口は島根県並み、形は埼玉県に似ていると言えば、少しは馴染みが湧くかもしれないが、とにかく国の政策が突拍子もなく、我々からすると奇妙きわまりない。2004年からは世界初の禁煙国となり、街のいたるところで”No Smoking”の掲示が目についた。

 公の場では伝統文化の保護とやらで、民族衣装の「ゴ」「キラ」の着用が義務づけられ、映る風景は異国情緒にあふれている。森林は完全に政府が保護管理しており、国土の60%を下回るような木材の伐採は認められていない。こうした思い切りのいい政策は、独裁でもなければ施行できまい。

 しかし、国の長であった王様は独裁とは縁遠い。第4代国王は50歳そこそこで王位を息子(昨年、王妃と来日しフィーバーとなった第5代国王)に譲り、ブータン王国建国100周年にあたる2007年の前年、そそくさと“早期退職”してしまった。そうした記念すべき時機には自分を崇め奉ってもらおうとするものだが、翌2008年、国家体制を絶対君主制から立憲君主制へと移行させ、かつ国会に国王の不信任決議権さえ与えた。さらには、潔く国王65歳定年制まで採用する。ある意味、自虐的なのだ。

 そもそもGNH(Gross National Happiness 国民総幸福量)などというものをバカまじめにやろうとしていること自体、滑稽である。それが国王だけでなく国民においてもそうなのだから、この国は尋常でなく映る。
 しかし、訪れてみて見えてきたのは、それらが決してフェイクなんかではなく、真剣に「バカまじめ」を貫いているということなのだ。おおよそ「バカまじめ」とレッテルを貼られる時、実際には的外れなことをやっているものだが、ブータンの人々は幸福を追求するという行為を自ら批判的に検証した上で、むしろとても冷静に遂行しているように思えた。要は本気度がまるで違うのだ。

 GNH Commissionの担当者の話によれば、国民の幸福度向上の進捗を測るGNHインデックスとして具体的に9分野(「心の豊かさ」「健康」「教育」「文化の多様性」「地域の活力」「生物多様性」「時間の使い方」「生活水準」「良き統治」)、33指標を掲げている。特に「心の豊かさ」「時間の使い方」「文化の多様性」「地域の活力」は他国ではあまりとられないブータン独自の指標であり、政府が国民の幸福のために重視するところとしている。
 また、そうしたGNHに関する政策を評価するためのスクリーニングツールがあり、例えば「公平性」「環境保全」「物質的豊かさ」など26項目(それらに付随する約100個の質問)にそって、4段階での評価(1が最もnegativeで、4が最もpositive)が行われる。各省庁から提案された政策ひとつひとつに対してそれが行われ、平均3点以上がなければ政策の再考が促されるため、各省庁は気が抜けない。極めてシステマティックにGNHを機能させている。そこには族議員や汚職、地元利益還元などが生まれる余地は期待できない。

 そうして“GNHのレンズ”(と担当者は表現していたが)を通った政策は、絵空事とならずしっかりと現場におりている。私たちが訪問した学校では、全校生徒が校庭に集められて朝会が行われ、まずは児童生徒たちが一斉に瞑想をし始めた。校長に聞けば、それはGNH政策の反映だと言う。「心の豊かさ」に関する質問項目で、「瞑想はどの程度行っていますか」に対し、82%が「全くしていない」と回答したことが判明すると(ちなみに「いつもしている」は5%)、教育現場での取り組みが必要だと2010年より各学校でも同じように毎朝瞑想が行われている、とのことだった。

 不思議なのは、こうした“独裁的な”政策のどこにも上からの押しつけ感が感じられなかったことだ。それは、繰り返しになるが、国民が無知ゆえに唯々諾々となっているわけではおそらくなく、合点がいって醸し出されている雰囲気に思えた。同行するガイドや通訳からは、道中、「貯金するのはもったいない。だからお金を稼ぐために必要以上に何かを犠牲にしようとは思わない」と“足るを知る”ことや時間の使い方のバランスについて悟らされたし、「“独立する”ことがいいことのようにいわれるけども、“誰かに頼れない”というのは幸せではないと思う」とコミュニティ/つながりの大切さを説かれた。会食の機会をいただいたプナカ県知事からの「経済成長を追い求めた末に残るのはコンクリートだけだ」との言葉には戒められもした。ブータンの人々に感じるのは、こうした思想の深さであり、そこで通底する双方の信頼感であった。

 奇妙に映るブータンは、「普通」ではないから幸福なのだ。幸福を追求していると信じてまっしぐらに突き進んできた私たちの「普通」が、いつの間にか、ブータンを滑稽に映してきただけかもしれないという皮肉に早く気づかなければいけないのかもしれない。ただし、その流れが実はブータンにも押し寄せ始めていることも今回感じた。ブータンの状況は最先端なのか、周回遅れなのか…。今後の行く末を見ていきたいと思わされもした。

※同じくブータンを訪問した石川ゼミ生たち制作のフリーパーパー『MOVE ON WAVE US』(創刊号特集:ブータン)を9月に発行しました!

2012年11月27日 (火)

コッホ先生と「私」の革命

  昨日11月26日は語呂合わせで「いい風呂の日」だった。資生堂の調査によれば「お父さんに隠し事がない」と答えた子の割合、父と一緒に風呂に入ってない子が49%だったのに対し、一緒に入っている子は70%にも達したらしい。また、いつまで子どもは親と一緒に入ってくれるかということに関しては、「小学校6年生まで」との回答が全体の4割を占めた(朝日新聞2012年11月25日生活面 ※出典は、資生堂『パパフロ通信第三弾』と思われる)。「へぇ〜、結構な年まで入ってくれるんだな」と感心してたら、別調査(2000年パナソニック(株)調べ)では、父と娘のパターンだと入浴卒業年齢は9歳になるのだという。「あぁ、やっぱりそうだよな」と妥当だと思いつつガッカリもする。
 私はつねづね飲み会等で「娘とは二十歳になるまで一緒にお風呂に入る!」と豪語している。もちろん、ネタ的なところは多少あるが、結構マジである。そのマジさ加減が微妙に垣間見えるのであろう
。周りでそれを聞かされる人たちは、やれセクハラだ、虐待だ、そして変態だ!と本気で止めにかかる。
 こういう僕は、きっと平均の9歳に至る前にキッパリ「もうお父さんとお風呂に入るのはイヤ!」と言い放たれてしまうのだろう…。

 そうそう語呂合わせと言えば、先週木曜の22日は「いい夫婦の日」。土日に何かと仕事の入る職業なので、講義のない木曜日は、基本“積極的自主休日”としている。カレンダーを見て、何も仕事が入っていないことを改めて確認した妻は、「いい夫婦の日なんだから、久々に“デート”しようよ」と切り出してきた。
 聞かされてはしていたが、子どもが生まれると育児で忙しく、たしかに「恋人」が「夫婦」となって「
家族」となり、二人っきりでゆっくり出かけるというのはまるでできなくなっていた。今こそ(特に一日中子どもにかまっている妻は)リフレッシュ大事なので、彼女の提案にすんなり乗った。ちょうど自主保育の日にあたっていたので、娘も他に預けることができたのだ。

 前の晩から妻は娘に向かって「とっと(私のこと)とかっか(妻のこと)は、明日デートに行くからね」と何度も諭していた。当然、娘は「“デート”ってなに?」といったキョトンとした表情をしていたが、「父と母が私を置いて、なにか楽しいことをしてくるのだろう」と理解はしてくれた“ふう”に見えた。あくまで“ふう”ではあるが、別れ際、泣きもわめきもしなかったので、2歳なりの解釈はしてくれたのだと思う。
 これが物心がつい
たとしても、そして私らがどんなに年をとっても、子どもには「父さんと母さんは今日はデートに出かけるよ」と言える夫婦でありたいと「いい夫婦の日」に思うのであった。

 たかだか3時間程度だが、久々のデートが敢行された。「入間のシネコンで、面白そうなやってるよ」と妻が見つけてくれた映画観に行ったのだった。

 タイトルは『コッホ先生と僕らの革命』

 ドイツにサッカーを伝えたと言われ、後に「ドイツ・サッカーの父」と讃えられる実在の教師の話である。
 規律と服従を美徳としたドイツに、サッカーを介してコッホ先生と生徒たちが“革命”を起こしていく。コッホ先生のフェアプレイ徹底がグランドのみならず教室へ及び、当時の階級社会を切り崩していくのだ。

 ストーリーの展開はありがちなものだったが、それでも素直に感動できた。妻は、育児休暇で久しく教育現場を離れているが、来年度からの復帰に向けていい刺激になったようだし、私もああありたいと思うことができた。特に「授業とは“楽しい”ものだ」というコッホ先生のポリシーにはえらく共感した。

 ただ、
まだそこに至るにはかなりの道のりがあると感じるだから、今接している学生たちには申し訳なさも感じる。昨日の講義も「どうだったのだろう…」と少々気を落として廊下を歩いた。
 せめても、子どもたちへの真摯な眼差しとそこへの可能性を信じるコッホの姿勢
だけは真似たいと思う。

 今日は、来年度から新しくゼミ生となる1年生13名の顔合わせの日だ。希望にわく瞬間でもあり、重責を感じる瞬間でもある。

2012年11月12日 (月)

政治で世界は変わらない!?

 日曜日、国際学部の留学生たちと都内の高校生たちとの交流プログラムを行った。10_2 参加してくれた留学生の大半は中国人で、尖閣諸島の領土問題に触れることになったが、彼ら自身が“メディア”となって、マスメディアの伝えない情報の発信源なってくれた。

 午前中のそうした意見交換を踏まえ、午後には「将来のために私たちができること」をテーマに、仮想プロジェクトづくりに挑戦してもらった。
 「国際カラオケ大会開催」や「アジア通貨をつくろう」などユニークなアイデアがガシガシ出たが、ほとんどが文化的なアプローチ。「文化は国境を越える!」とみんな息巻いていた。

 で、一方、政治に解決を求めるプロジェクトはほぼ皆無。つまり、これは「政治には期待ゼロだよ」という若者たちからのシニカルなメッセージか(笑)。

11_3 12
 
 場が場だけあって「Face to Faceの交流こそ大事」と強調するグループが多かったが、それでもそこに真理があるように思う。
 そ
うした下から突き上げる力を見損なってはけない。特に政治家の皆さんは、と思うのだけど、いかがだろうか?

2012年11月 7日 (水)

Gross Our Happiness〜幸福のカタチ

 先週木曜日(11/1)、拓大八王子キャンパス北門を抜けた向こうにある異国風カフェ&バーTOUMAI(トゥーマイ)と石川ゼミとの合同企画で第1回ワークショップImg_4375_3 「Gross Our Happiness」を開催した。
 今年度のゼミのテーマとしてきた「幸福論」だが、これがまた目に見えないものだけに、なんとも厄介で、
胡散い(と見られがち)。見えないものを無理に可視化する必要はないのだが、それでもできるだけその“胡散臭さ”を吹き飛ばすべく、カタチにする努力はしてみたい。

 第1回のテーマは「幸福」。
 国際学部だけあって長期休暇ともなれば、学生たち足取りは軽く、あちこち海外を飛び回るだが、帰国後、その経験を共有する場は意外とない。もちろん「ホウコクカイ」という名の場はあるのだが、得てして四角四面のツマラナイものになりがちだ。きっとそこに創発は起こりえない。もっとフランクに本音で語り合う場があれば、、、そう、居酒屋トークで構わないので、表も裏も、酸いも甘いも、本当に話したいことを吐き出したら、相当なブレインストーミングになる。だからこそ、教室ではなく、カフェ!! 象牙の塔を飛び出したところにも学びはあるのだから、北門のちょっと先まで足を伸ばそうと思ったのだ

 そうそう、TOUMAIは私お気に入りのカフェでもある。ここの空間は何とも落ち着く。遅くていい時は、出勤する前に立ち寄り、本なんぞ読み耽る(実は“ふける”ことができるほど余裕のある身分ではないので、せいぜいいられるのは1時間ほどだけど)
 しかし、拓大生に聞いてみると「カフェなんかありましたっけ?」と意外に認知度が低く、知っていても「気になるけど入る勇気がない」と敷居を高く感じている者が結構いる。御用達にしている私からすれば、これはあまりにもったいなく、機会喪失。だから、この企画への参加を機にTOUMAIの敷居を越えてもらうことももうひとつのねらいとした。実際に空間の心地よさを感じてもらい、次回からはどんどん足を運んでもらえるようにする。つまり、これは石川ゼミとTOUMAIのWINWINの企画なのである。

 ワークショップは、「幸せを感じる時は?」の自己紹介から始まり、グループごとImg_4386 海外経験の共有へと展開。海外に出ればこそ見えてくる「日本の良い点/悪い点」エピソードを話してもらった。
 最後挙がってきたものから「自分たちの社会や生活にどう活かせるか」と問いを投げかけ、ディスカッションをしてもらった。その議論の果てにある結晶が、きっと“幸福のカタチ”のようなものになるのだろうと思ったからだ。
Img_4385

 ワークショップは非常にシンプルな構成だったが、だからこそ話は縦横無尽に展開して面白い。どのグループも議論はどんどん深まり、場は“哲学カフェ”へと化していたように思う

 終了間際、参加者ひとりひとりに、この場に参加し感想を一言にまとめて発表してもらった。わずか2時間の企画だったが、銘々が辿り着いた一言は、しっかりとした自分の「声」となっていた。
 こうした「声」のカケラをこれからもゼミ
生たちと集めていくつもりだ。そカケラをいろいろに組み換えてみれば、いつか見えるカタチなるのだろうか。そのプロセスをゼミ生たちと楽しみたいと思っている。

※最後のコメントを胸に、ひとりひとり記念撮影。いつかこのコラージュが意味を持って見えてくる日が到来することを期待したい。最後のふりかえりのひとりひとりのコメントはYouTubeで見ることができます。
   http://www.youtube.com/watch?v=78QMtn20GOY

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2012年11月 4日 (日)

ヒトコト言うだけなんだけど…

 未明の電車は悪くない。たいがい睡眠不足なのが辛くはあるが、世界が本格的に始動する前、自分が動き始めていることがどこか誇らしい。9 それはまやかしにすぎないのだが、そのまやかしこそが人には必要なのだ。「いいスタートを切った!」という縁起が欲しいのだ。
 それは“早起きは三文の得”と言ってしまうとえげつないが、むしろ国語の教科書に出てきた谷川俊太郎の詩のニュアンスに近い。「カムチャツカの若者がキリンの夢を見ているとき〜」と始まるあの詩である。まやかしでも誇らしげになれるのは、谷川が言うように「朝のリレー」をしている自分への矜持なのかもしれない。

 先日、千葉・市原にある小学校の授業見学に行った。エルサルバドルへ行った先生の国際理解教育の授業で、1校時目から4校時目まで午前中いっぱい使った実践だった。つまり、埼玉の西の端から東京を横断し、千葉市を通り越して向かうということは、始発に近い未明の電車に乗らなければならないということなのだ。
 ある意味、自営業者のようであり、フリーターのようでもある大学教員というものは、“始業時間”は自分次第で、1限さえ入っていなければ満員電車に揺られることはない(ちなみに、言い訳に聞こえるかもしれないが、あくまで大学に行く時間がまちまちなだけであって、早朝から講義準備をしたり、メールチェックをしたり、“仕事”をせずに怠けているわけではない)。だから、「人」という気配を消した無機質な朝の電車は珍しく、異様であり、興味深くもある。

 二度乗り換え、東京駅から総武線快速の電車乗ると、その無機質な車内には軽快な音楽が流れてい。漏れ聞こえている、なんて程度の音量ではない。明らかに、携帯オーディオ機器(iPodのような電化製品なんて言ったらいいの?)から直接流れている模様。すぐさま犯人探しをするのだが、私以外のにはその音は届いてないよう誰も不思議がる様子はない。決して耳がいいほうではないが、否、だからこその空耳なのか、私にはどうしても聞こえるので、キョロキョロ犯人探しを続けると、どうも私の斜め向こうに座る東欧風の女性だと確信したその両隣りの男性たちはまるで気にならないのか、無視しているのか、あるいはよっぽど耳が悪いのか、たまた漏れ聞こえる音楽を自分も楽しんで歓迎しているのか、微動だにしない。
 
ただ、その外国人女性から三人目のところに座る中年女性も「おかしいわよね」といった表情をキョロキョロしていたであろう私にしてくれたもんだから確信に至ったのだった。私は立ち上がって向こう側へ行き、トントンと軽く肩を叩いた言葉が通じないかもしれなかったことは考えもせず、「音、出てますよ」と小声で言い、教えてあげた。
 私も一度あるのだが、接触が十分でないかなにか
の理由でイヤホンから音が流れているのに機器からも外に向けて音が漏れ出てしまっていることがある。本人はイヤホンで聴いているので自分だけが聴いていると信じきっており、音が同じ音量で外に漏れていることには気づかないのである。

 女性は多少の外国訛りではあったが、少し慌てたのち、日本語で「すいません」ととても申し訳なさそうに謝ってくれた。その言葉を聞いて、ホッとした表情を見せたのは、例の中年女性とおそらく私だけだったと思う。車内の他の人は、やはり私が車内に乗り込んだ時と同じ表情で、顔色ひとつ変えず乗っていた。きっと内心は「ホッ」としたであろうに、まさに“触らぬ神に祟りなし”で、「面倒になるぐらいなら、この程度の音量は自分が降りるまでなら耐えられる」と比較考量した結果の所作を決め込んだように見えた。

 なにも「私には勇気があるでしょなんてことを披瀝したいのではない。ただ、「あれ?」と思った時に、ちょっと一声かければいいだけのところをまるで素知らぬ振りをするということが、かなり滑稽にうつりはしないかと思うのだ。

 しかし、こんなこともあった。

 近所に曼珠沙華が群生するので有名な「巾着
田」という名所がある。その時季が過ぎると、そこはコスモスでにぎやかになる。曼珠沙華のときに比べれば、格段に観光客は少ないのだが、それでもそこそこ人が出ている。Img_4299
 先日
私たち家族も巾着田に隣接するカフェに寄ったついでに「せっかくだから散歩しよう!」ということになった。周りでは、みんな銘々にコスモス畑に入り、秋の風物詩を笑顔とともに写真収めている。夕刻だったこともあるが、なんとも和やかな風景に見えた。
 一通り見て、さぁ、帰ろうと思ったら、思う存分、それらコスモスを採っている一家を見かけた。よくあるブドウ狩りやイチゴ狩りのような「採り放題・食べ放題」の商売があるのかと思って、周りを見渡したが、そんなことをしているのはその家族だけで、「コスモス摘み放題」と書いた立て看板さえ見当たらない。ただ、あまりに堂々とし過ぎていて、誰もその一家の行為をおかしいと思えず、注意する人皆無だった。
 
は「あれ、絶対におかしいよね?変だよね?」と囁き、駆け寄って注意せん!という勢いだったが、「いいよ、止めとけよ」と制したのは私だった。結局、あの家族の行為が白昼堂々の泥棒行為だったのか、どこかの商売システムに則っていたにすぎなかったのか、確認することなく帰路についた。

 ワーキングホリデーでニュージーランドに半年滞在していたゼミ生が、「向こうにいて日本人も真似したほうがいいことって何?」と聞いた、「ニュージーの人って誰でも必ずバスを降りる時に"Thank you"って運転手さんに一声かけるんすよ。あれってスゲーいいなって思いました」と即答した。

 たっ一言のコミュニケーションをなぜ人は交わせないのだろうか? ほんの数文字の一言が、空気をいい方へと一変してくれることがほとんどなのに。

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