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2013年8月

2013年8月31日 (土)

映画『陸軍登戸研究所』

 仕事で写真係を任されることがあるのだが、もっとかっこよく撮れないものかとほとほと嫌になる。というのも、以前、写真教室に通っていたことがある分だけ、そうでない人となんら変わらない程度の写真にしかならないことに嫌気が差すのである。もうだいぶ大昔のことなので、「腕が鈍った」ということにしてもいいし、デジカメの登場する前の話でそもそも技術が違うのだということにしてもいい。そんなことは言い訳にもならないことは重々承知だが、いずれにせよ、もろもろの記憶がおぼろげになるほど前の話なのだ。

 その写真教室
の旧知から映画に行かないかと誘いが来た。「楠山さんが映画を作ったみたいだから観に行ってみないか」というのだ。
 楠山さんとは、当時私たちが通っていたPARC(アジア太平洋資料センター)というNPOが開講していた写真教室の講師で、好々爺然という風をしていた。ただ、ジャーナリストとしての厳しい眼差しを覗かせることも時折あり、彼がPARCというところで講師を務める意味がその時分かるのだった。それは自分が青二才なのだと知らしめてくれることでもあった。

 彼が映像を撮るということは聞いてはいたが
(日本映画学校の講師をしていたとも聞いていたし)、映画館で上映するような映画になると聞けば、さすがに足を運んでみようかなとも思った。
 映画のタイトルは『陸軍登戸研究所』。アメリカ本土への風船爆弾を開発したところとして知る人もいると思うが、そればかりでなく、秘密戦・謀略戦の兵器開発基地として殺人光線や毒物・爆薬の研究、生物・化学兵器の開発、偽札製造を進めるところでもあった。近代的な戦争においてなくてはならないものとされていく一方で、実際には“ないもの”ともされていた場所である。

 映画は6年もかけて製作されたということもあり、上映時間180分という大作となっていた。多くの証言者の協力を得て完成に漕ぎ着けたそれは、「編集」という機械的な作業によって削ることを余儀なくされるわけだが、幾星霜を経た証言はそれだけで貴重で、断腸の思いであの作品になったのだと思われる。

 “多くの証言者”とは書いたが、それはあくまで映画に登場する人物の数としては一般的に“多い”というだけで、未だ話せないおびただしい数の人がいるにちがいない。映画は、それを承知の上で、幾ばくかを結晶させたにすぎない。それでも「記録」できたことには大きな意味がある。“未だ話せない人”の中には、墓場までそれを持っていき鬼籍に入ってしまった人のほうが大多数だろうと推測されるからである。

 だからなのか、映画に登場する“話せる人たち”はむしろ屈託がなく、明るさすら感じることが多々あった。特に、研究所で働いていた女性たちや風船爆弾製造に動員された当時の女子学生たちは、結構あっけらかんとしていた。

 「所長の布団を敷きに行ったら、戦時中なのに羽毛布団だった」
とか、「貧血を起こして泊まらされたら、嗅いだこともないいい匂いがしてきた。軍人さんは、日中、あんな怖い顔して私たちを管理しているのに、夜はドンチャン騒いでいるようなら、この国はきっと負けるだろうなと思った」とか、はたまた「恋愛もあったわよ〜」などいう“証言”も飛び出していた。

 その天真爛漫ぶりは、当時15〜6歳だった少女そのものなのかもしれないが、映画に抱いていたイメージとはかなりギャップがあった。
 ただ、だからといって彼女らの証言がウソだとか映画用のものだとか疑うつもりはさらさらない。なぜなら、写真の中の彼女たちは、無垢であどけなく、研究所には「日常」という平穏な空気が流れていなければならなかったからだ。研究所の中にそうした「日常」を作り出しておくことが、彼女らの背面にある塀の向こう側を暗渠としておくことができたのだ。

 映画でキーパーソンとして何度も(名前だけは)登場する伴繁雄氏は、晩年に『陸軍登戸研究所の真実』を上梓した。60歳で再婚した奥さんによれば、その本を書き上げる前と後では、表情がまるで違ったという。出版前、彼は一度も笑ったことはなく、恐ろしくすら感じていた、と笑うようになった写真を差し出しながら言っていた。その「恐ろしく」にはきっといろいろな意味が含まれているのだろう。
 私はその本を読んではいないが、それでも本がすべてではないはずだ。やはり、墓場までもっていったものが結構あるに違いない。彼が幸いにも死ぬ直前に晴れ晴れとできたのは、「言いたいことは言えた」というだけで、彼もまた“話せる人”にはなっておらず、後世に残された我々から見たら“未だ話せない人”というレッテルを貼るべきなのではないだろうか。あくまで独断ではあるが。

 皆さんよろしければ、劇場に足を運んでみてください。(渋谷・ユーロスペースで上映中)

【参考】
朝日新聞夕刊 2013年8月29日「陸軍極秘機関 若者が迫る 『登戸研究所』 偽札・風船爆弾 元所員ら35人証言」
朝日新聞デジタル 8月29日「『陸軍登戸研究所』たどる記録映画 偽札・風船爆弾…
http://www.asahi.com/national/update/0829/TKY201308290033.html

2013年8月22日 (木)

ラダック訪問記④〜高地トレーニング!?

 今回の旅には3つの制限があった。
 
 まずは、前のブログにも書いたが到着当日に敷かれた「戒厳令」。ラダックは3500mほどの高地なので、それに馴化するために「とにかく初日だけはジッとしていてね」とはガイドのスカルマさんの言。それが優しさだと重々承知するのだが、修学旅行でいかに先生の目を盗んで悪巧みをするかという中学生の気持ちが40歳を超えても共感できた。


 2つ目は同じ理由で発令された「禁酒令」。これは初日のみならず、ラダック最後の夜を名残り惜しむパーティーまでお預けとされたので、さすがにこたえた。Img_6278
 実際には村滞在時にたまたま村民の三回忌があり、昼間から振る舞われたチャン
(大麦を発酵させてつくる醸造酒)を一杯いただいたが(右写真参照。要はどぶろくで手前のポリバケツに入っているのがそう)、パーティー前日のことだったので、私の“お酒史”において(闘病期を除く)おそらく最長の禁酒期間となった。

 3つ目が、「ジョギングは止しておいたほうがいい」令!?
 これは上2つほど厳しくはなく、あくまでスカルマさんからの忠告だったので、S氏はさっそく滞在二日目の朝
(つまり「戒厳令」解除すぐ)からジョグしていた。同じく高地だった昨年のブータン滞在時は引率者ということで控えたものの(ブログ参照「GNH:幸福度と真剣度」、S氏に刺激され、自分も村で2度ほど朝にジョギングを試みてみた。今回のブログでは、そのコースをなぞってみて、皆さんにも疑似体験してもらおうと思う。

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 まずはホームステイ先の玄関前。大麦畑の間を清流が流れる堰が一筋。ここで青空を仰ぎながら準備体操。

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 昨晩の交流会で舞踊を披露してくれた村のおばちゃんたちは、朝一番で広場の後片付けをしていた。申し訳なく思いながらも「ジュレー!」と挨拶を交わす。
 この時点では、体を起こすためと馴らすためにまだ優雅にウォーキング。

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 収穫間近で黄金色になった大麦畑の横をまだまだウォーキング。

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 清流が奇麗すぎて見とれる。もちろんまだウォーキング。

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 最初に村の人たちとご対面したところに出る。さすがにそろそろ走ろうという気になり、恐る恐る駆け出す。

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 村の小学校脇の道路。大通りに出るまでは幸いなことに下り坂。だから、意外に行けそうな気になっている。

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 走っているとこうしたストゥーパ(仏塔)にも出くわす。チベット仏教がちゃんと日常の中にある。

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 坂を下りきり、大通りに出ると、濁流のインダス川とぶつかる。

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 山肌が朝日に照らされ始める。この度合いで時間の経過を感じるのがなんともいい。
 ただ、それとは対照的に道路工事のためのダンプが我が物顔で走り抜けていく。ここは地政学上の要衝であり、中国やパキスタンはインドがこの道路を拡張していくことを快く思っていない。
 また、レーから続くこの道は、村の人たちの生活も変えようとしている。それが“良く”変わることなのか、“悪く“変わることなのか、「通過者」である私たちは無責任に予測はできない。

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 スカルマさんが"Local Bridge"と呼ぶところで区切りがいいので折り返し
(ただし、ここはまだ走り始めて1kmほど…)。さすがにこの橋を渡ってみようという気にはならない。

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 振り返って来た道を見るとこんな感じ。ラダックらしい壮観な景色。

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 岩をも貫く落書き? ハートマークを描き、愛を誓うのは万国共通。あらかた成就しないのも万国共通か?(笑)

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 山肌がだいぶ照らされてきている。そんなに距離走ってないのになぜだ? ちなみに時計を見るとキロ6分超のペース。これはサロマ湖100kmウルトラマラソンに出た時の終盤のペースに近い…。

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 皆さんには平坦に見えるかもしれませんが、少々の上りが結構きつい。息もきつい。

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 リクツェ村0km地点(起点)の標識。
 白状しよう。ここに来るまでに苦しくて一度歩いてしまった。

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 もうひとつの橋が見えたので、これまたいい区切りと早くも折り返す。まだ2kmにもなっていない。

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 この橋の脇にもイタズラ描き。見えづらいが、"Always alert AIDS is killer"と。
 意外だったがラダックでもエイズは社会問題になりはじめているよう。リクツェ村の保健センターで聞くと、ここではまだまだのようだけども。

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 畑仕事をしている人たちの牧歌的な風景が苦しさを和らげてくれる。

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 本道から外れて砂利道へ。ホームステイ先へのショートカット。
 このルートは、この前の日に遭った少女から(間接的に)教わった。

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 途中からは砂利道からも外れて、
最短距離で「オアシス」を目指し、崖を昇ることになる。

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 ここが「オアシス」。近くの人が洗濯物などをしに来るところ。ホームステイ先では隣りに家を新築していたが、そこへ出稼ぎに来ていたネパール人も前日ここで歯磨きをしていた。
 この水はうちらも飲めるものでヒマラヤの雪融け水。ひんやりしていて美味い! 「南アルプスの天然水」なんぞ足元にも及ばない正真正銘の「ヒマラヤの天然水」。当然ここでのどを潤し、頭から水をかぶる。
 ただし、走ったのは2〜3kmほどで、時間にして20分弱。これでもういっぱいいっぱい。

 前の日の朝、ここで洗濯をしていたらノートを片手に持つ少女がさっきの崖を駆け上がってくる。「学校に行くの?」と訊いたら、健気に「うん」と頷いてくれた。彼女は毎朝ここを「通学路」として歩いてくるのだろう。
 ほんの一瞬の会話だったがあまりに実直で好印象だったので、思わずカメラを向けた。学校に通う自然な後ろ姿を撮りたかったが、気配を感じたのか、こちらをキリッと向き直し、なおかつ「気をつけ!」をしてレンズのほうに微笑み返した。本当に実直である。

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 ヒマラヤの雪融け水でサッパリした後、家に戻る。部屋に入るまで誰ともすれ違わなかったはずなのに、戻った瞬間、家人が現れ、温かいチャイを魔法瓶で持ってきてくれる。この“温かさ”がすべてに安堵をもたらせてくれる。
 お皿のビスケットは来た時から置きっ放しだが、湿度が低いので、何日経っても一向に湿気らない。

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 次回は、あの少女の通う学校(政府管轄)と他に見学した形態の違う学校2校(私立/NPO立?)について報告したい。

2013年8月17日 (土)

東北勢躍進におもう

 ラダック訪問記は小休止。

 以前、ブログで演歌が好きだ、というようなことを書いたと思う。理由は、歌詞が単純だから。そして、その分かりやすさの魅力、と書いたのではないかと思う。その単純さ、分かりやすさが多くの人の記憶にオーバーラップし、共感を呼ぶのだろう。
 勝手な解釈だが、田舎の人が演歌好きなのは、彼らの思考と演歌のそれが似ているからなのではないか。これはなにもバカにしているわけではなく、そこが私はとても好きなのである
(そもそも私も田舎者だが)

 昨日まで、祖母の三回忌、祖父の五十回忌を兼ね、帰省していた。お盆ということもあり、お寺で法要をし、その後は市内の温泉に移動し、親戚一同で一泊した。
 
 サウナに入ると、恰幅のいいオジサンがすでに2人入って、世間話をしている。田舎の人の“恰幅がいい”というのは、単なるデブなのではなく、田んぼ仕事のせいなのか、力士のように引き締まった恰幅のよさで、これもまた私の好きなところである。

 「花巻東の相手は済美だろ。安樂の球、打でねぇべ」
 「んだな。まず勝でねぇべな」
 「仙台育英も結局なんにもでぎねがったな」
 「だったら、初戦は浦和学院が勝ち上がった方がいがったべ」
 「小島君の投球、もっと見だがったもんなぁ」

 田舎
(この場合、「東北の人」という意味)の人は得てしてネガティブ思考だ。で、ちょっと安易であきらめが早い。というか、あまり自分を前面に出して、褒めるということをしない。それが田舎の人の美徳なのである。
 極端な仮説だが、その美徳が東北の高校を長い間、西日本の強豪校に太刀打ちできない負け癖をつけてきたのではないかと思う。少なくとも私が高校野球をやってきた頃、岩手県代表は一回戦を勝ちあがればいいほうで、僕らの目標は“甲子園にでること”にすぎなかった。池田高校のやまびこ打線もPL学園のKKコンビもテレビの中の雲の上の話だった。

 しかし、今の東北代表は堂々と互角に渡り合える。今夏は、秋田代表以外の5校が初戦を突破し、その健闘が話題にもなった。
 それは元高校球児としては嬉しいことなのだが、お盆の帰省中だから余計にか、全国が一色になるようで寂しくもある。均一化していくという弊害を持つ“グローバリゼーション”が、日本の中でも起こっているような気がするからなのだろうか。まことに勝手な思いである。

 現在、花巻東対済美をテレビ観戦中。おおかたの予想を覆して、5回終了、3対0で善戦し、勝っている。
 大会9日目終了で、関西勢、九州勢で残っているのはそれぞれ一校ずつ。高校野球の勢力図は均一化するどころか、塗り替えられつつある。
 24年前、私たち水沢高校野球部の夏を終わらせたのが花巻東高校。隔世の思いを感じながら、岩手県代表花巻東高校の今後を見守りたい。
 

2013年8月15日 (木)

ラダック訪問記③〜トイレ等の生活事情

 研修前のスカルマさんとの打ち合わせは傑作だった。

 村でのホームステイ中、お風呂はどうするのか聞いたところ、「ラダックの人はお風呂に入らないですねぇ」といつも通りの表情でフツーに回答された。ホームステイは3泊の予定なので、都合、4日間もお風呂に入らないという“驚愕の事実”を参加者に
(特に女性参加者へは)どう伝えるか思案し、少々気が引けた。

 事実、私がホームステイしたところの人たちは、4日間、おおよそ同じ服装だった。さすがに若い娘さんたちは、微妙に違う格好をしていたが、とうとうお父さんImg_6266の違う服装を滞在中に見ることは全くなかった。
(※右写真は、我がホームステイ先の家庭状況をみんなで聞き取り調査しているところ。左手前が、我が家のお父さん。ただし、一妻多夫制における“二番目のお父さん”)

 結局、私たち自身も途中から「今夜はもうこのままで寝るわ」とか、「パンツは昨日のまま」とか、億劫になり、というか“朱に交われば赤くなる”生活を自ずとしていた。実際、とても乾燥していてほとんど汗をかかないので、思ったより嫌な気がしなかったのだ。

 また、村では当然水洗トイレではなく、いわゆる「ボットン式」
(と書くと、18世紀ぐらいにどこかの西欧人が発明した特別な方法に感じる)なので、「日本人はトイレットペーパーを持参した方がいいですよね?」と聞けば、「そうですね」とすんなり。

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※上写真の左はレーで泊まったゲストハウスの(リサイクル)トイレ、右はホームステーした家のトイレ外観

 ただ、気になるので「ちなみに、現地の人はどうしているんですか?」とさらに聞くと、「トイレットペーパーは使わないですね」とのこと。

 それは想像できたのだが、一応ラダックもインドなので、さらにさらに「右手を使ってお尻を水で洗うんですよね?」と聞くと、「え、何も使いませんよ」と予想外の回答。
 「じゃ、ウ○チがついちゃうじゃないですか?」と聞けば、「あれ、どうだったけな…」というような顔から「あ、そうだ!」という確信の顔に変わり、「いや、つかないですね」と断言!
 「いやいや、そんなわけないじゃないですか。さすがのラダック人だって下痢することありますよね?」と聞けば、やっぱり「あれ、どうだったけな…」という顔をしてから、「いや、みんなブリッとウンチは切れてつかないです。すごく乾燥していますから」とのこと。

 「スカルマさん、ラダックの人たち全員のウンチしてるとこ、チェックしたわけないですよね!」とツッコミを入れたかったが、同席した旅行会社の社長さんは「それじゃ、犬のようですね。ガハハ」と笑い飛ばしているので、自分もそうすることにした。

 ちなみに、滞在中の我がウ○チだが、ブリッと切れることはなく、毎回、チリ紙を必要とした。スカルマ説は、少なくとも日本人においては実証されなかったのである。

 それから、私の他にも参加者にジョギング好きなS氏がいたので、「ジョギングはできますかね?」と高地であることを心配して聞いてみると、「ラダックの人はジョギングしませんねぇ」と。
 「ここでジョギングしたら、普通に高地トレーニングになってしまうよな。たしかにハード」とその回答にはこちらは大人しく納得した。

 たしかに、滞在中、ジョギングする人を私とS氏以外で見かけることはなかった。一度、レーの街中で駆けている中学生ぐらいの子を見たが、そうなのか、ただ単に急いでいるだけなのか、はっきりと判別することはできなかった。

 こうなると、「ジョギング」という概念すらないのではないかと思ったが、S氏が朝ジョギング中に村長と出くわし、向こうが走る格好をして「ジョギングか?」と聞いたらしいので、それは否定された。それでも単純に「朝から何をそんなに急いでいる?」と聞きたかっただけなのかもしれないと思うほど、ラダックの人が走る姿は想像できない。きっとユキヒョウにでも遭遇しない限り、時速20km以上で身体を移動する経験などしないのだろう。

 とはいえ、私が滞在中にジョグしたのは村で2回。正直、すぐに息が切れ、何度か歩いた。日本に戻ればよっぽどこの2回の“高地トレーニング”が効いていることだろうと思ったが、いまだ試せていない。標高3500mで走ることもリスキーだが、35℃以上のところを走るのもやっぱりリスキーで、まるで走る気が起きないのだった…。

 次回は、ジョギング体験記をアップしたいと思う。
(下写真は村の入口で、インダス川に向かう私のジョギングコース)

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※現在、トイレをテーマにした教材を作ろうとも目論んでいる。なので、世界各国のトイレの写真を集めています。いつか世界のトイレランキングでもしようかと。ラダックで最も美しいと言われている僧院ティクセ・ゴンパの入口にある観光客用のトイレからの眺めは最高。“しながら”観光が楽しめる!?

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2013年8月13日 (火)

ラダック訪問記②〜教育を施すジレンマ

 “教育を施す“ということは簡単ではない。それは、その子の未来を“操作する”ということになりかねないからだ。教育実践者であれば、なおのこと、そうした恐れを念頭に置いておかなければなるまい。

 到着初日に聞いた弁護士で社会活動家のオッツァル氏の話はとても皮肉なものだった。“教育を施す”ことがラダックの人たちをジレンマに陥れさせているというのだ。

 自分も親になってみて思うのだが、子どものためであれば何を犠牲にしても惜しいことはない。だから「よりよい教育」を与えてあげることは、親として義務以上のものとなり、さらにそれが社会一般的に「善」とされる故、時に呪縛とさえなってくる。
 開発の波が押し寄せるラダックでは、そうした親の思いはより増していっている。レーから車で2〜3時間かかるリクツェ村でさえ、村にある学校への就学率はほぼ100%で、10年生の進級試験に落ちる者が若干いるものの、ドロップアウトも基本的にはないという。おおよそが抱く途上国の教育事情の認識は改めなければならなくなってきている。

 しかし、結果的に「善」となっているかというとそうとも限らない。ラダックの人たちが陥るジレンマには3つある。

 1つ目のジレンマは、学校を出ても職にありつける保証がないということだ。最近のラダックでは(主にレーのことだと思われる)盗みが増えるなど物騒なことが多い。オッツァル氏によれば、その背景にあるのは学校を出ても職がないということが影響しているという。
 親たちが子に託す願いには、社会のニーズがそうやすやすとは応えてくれていないのだ。

 2つ目のジレンマは、畑や家畜の世話をするのはもとより子どもの役目であったが、それを担う者がいなくなってしまっていることである。こうした変化は「児童労働」という観点から良しとされるのだろうが、それは彼らのライフスタイルの急変であり、親がなんとか踏ん張っているという状況でもっている。それは時にImg_6101_2 (「三丁目の夕日」のように)美談とされるが、大変であることに違いはない。
 事実、村の教員たちにインタビューした際、「教科書は配布されるし、給食も出ているので、学校に通わせることは大変ではなくなっている」と口を揃えて回答したが、村でプロジェクトを展開するガイドで通訳のスカルマさんは、「少子化も重なり、畑や家畜の面倒がみられなくなってきている。これは大変なこと」と日本語で語ってくれた。

 3つ目のジレンマは、「より高い教育を」と親がラダックの外へ子をやることで“地域の教育”を受けられなくなっているという現実である。裏返せば、学校だけが教育を担う弊害が出ているということになる。
 オッツァル氏の言葉を借りれば、現在行われているのは「アカデミックな教育」で、それには限界があり、スピリチュアリティが廃れているというのだ。つまり、ここでも“学力”偏重の変えられない流れがあるというわけだ。これまではその部分を親や地域の大人がストーリーテリングを通して語り聞かせていたものが、すっかり抜け落ち、人としての育みが十分でないことをオッツァル氏は危惧している。そこで、彼は400人ものラダック出身学生を集めて泊まり込みのワークショップなどを開催し、その流れに抗っている。それは、親への敬いや社会への責任感、そして環境への配慮やサステイナブルな農業へのreconnect(再接続)を目的としている。

 これらのジレンマは“古き良き時代への懐古”とも受け取られかねないが、ラダックにおいてはそう安易につなげてはなるまい。そう見ることは、ラダックを“取り残された地域”と哀れみの目で見ることに過ぎず、別のアプローチを試みていると捉えるImg_5878 ことを阻害している。半周遅れだとラダックを見ている姿勢を、実は半周先を行っている我々の未来の姿として見る目を持たなくてはいけない。

 もちろん当のオッツァル氏は懐古になど浸ってはいない。彼は、アカデミックな教育と表現している従来の教育をオルタナティブな教育へとしていかなければならないと強調していた。オルタナティブな教育とした彼の目指すべき教育は、本を通して教室で行うものではなく、フィールドへ出かけて実践的なものにすること。そしてアカデミックだけではなく参加型で行うもの。誰かが1位になる教育ではなく、みんなが1位となれる教育のことである。そうした教育は「楽しいものなのか」「役に立つものなのか」と常に問い続けて検証し、心の中に閉まっていた学習者のfeelingをshareすることから始まるのだと彼は訴えた。

 それらは、奇しくも私たちが漠然と目指そうとしていたこととオーバーラップしてくる。彼はそれをいともたやすく言語化してくれ、私の腑に落ちた。それは、滞在初日にして「ラダックから学ぶ」という旅の目的を証明してくれた瞬間でもあったのだ。

※文中の写真は、リクツェ村のLiktsey High Schoolとラダックで最も有名な私立学校Lamdom Schoolの子どもたち

2013年8月 5日 (月)

ラダック訪問記①〜ラダック到着でまず考えたこと

 上海、デリーを経由して、インド・ラダックのレーに着いた。成田を出てから15〜6時間が経っている。
 泥色の長江河口にひしめく上海の工場群、柿色の灯りがあまねく広がるデリーの夜景。上空から見るレーの風景は、それらとはまるで違って“人の支配”が感じられない。緑のない荒涼とした山々は、日本で見るそれとは違い、自然の温かさではなく厳しさばかりが強調される。そこには抗わず、自ずと敬服せざるをえない優しい民がいるのだろうと、会う前から勝手な想像をした。
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 上海、デリーと対置してみた印象は、
日の出とともに着いたのだから抱いたのかもしれないが、むしろそれは去年の今頃訪れたブータンの第一印象と重なってくる。あの時と同じように高峻な山間部をすり抜けるように着地した空港で最初に見たのは、冴え渡る青だった。あんな青をまた目にするのは、決して偶然ではないように思えた。

 レーは標高がおよそ3500m。つまり、富士山の山頂に突然降ろされたようなものなのだ。ガイドのスカルマさんからは「今日一日は高山病対策で、とにかくジッとしていて下さい。今いるZIKZIK GUEST HOUSEの敷地からは出ないように
Img_5801_3!」と門の方を指差しながら“戒厳令”が敷かれた。
 幸い、敷地には色とりどりの花で囲まれた小さな菜園と杏の樹の木陰があり、読書と昼寝にはもってこいである。出発前までに読み終えているはずだったヘレナ・ノーバーグ=ホッジの『懐かしい未来 ラダックから学ぶ』を手に木陰の椅子に腰掛け、一章を読み終えるごとに午睡に落ちた。 夢うつつだからなのか、日本とまるで一緒のモンシロ
Img_5837チョウが無邪気に眼前を飛ぶ様は、小さな天使にすら見える。

 朝、ゲストハウスに到着してまず居間のようなところに通された。そこで供されたのは温かなチャイと塩っ気のあるバター茶。旅疲れの体には何よりのチャージになる。
 少し落ち着くと、このタイミングを見計らっていたのか、どこからともなくゲストハウスのおじいさんが現れた
(写真右がおじいさん、左はガイドのスカルマさん)。深く刻まれた皺が印象を年寄りに見せるが、歳を聞けば58歳というのだから日本の感覚では“おじいさん”と呼ぶにはまだ早い。 事実、参加者には彼より年上の男性が2名おり、年齢を聞いて小さなショックを受けていた(笑)。Img_5795_2 自然の厳しさか、生活の厳しさか、これまで私が会ってきた人たち同様(モンゴルのゲルでお世話になった男性、フィリピンのゴミ山で細々と暮らす母、ブータンの寺院で礼拝する女性たち、etc)、途上国と言われる国々に住まう人たちは、自分の感覚以上に老けて見える。それはなにも否定的に言っているのではなく、私たちとは違う思想の深さを持っているのではないかと思わせるのだ。

 そのおじいさんとは、ラダックの人たちの生活についての話になった。
 ここレーにおいては夏は観光業で忙しくなるのだそうだが、盛況なのは5〜9月ぐらいまで。それ以降になれば、ラダックには厳しい冬が訪れ、観光客はもちろん途絶えてしまう。農作業も夏季がすべてである。
 そうなれば、「じゃ、冬は何をしているのですか?」という質問が口を衝く。すると、「もちろん、なにもしないさ」とおじいさん。スカルマさんは、“もちろん”とは通訳でつけはしなかったが、私にはそれがついていたかのような返答に聞こえた。そして「だから、どうしたんだ?」とでも言いたげのようにも聞こえたのだ。

 その場面を反芻しつつ、夢うつつの中で少し物思いに耽る。こういう時間の流れ方って、ただただいいなぁ、と。そして、こんな時間、久しく持っていなかったなぁ、と。

 上海とデリーとレーの風景を重ね合わせても思ったが、“人間らしく”とはどういうことなのだろうか。人として生まれてきたのであれば、“人らしく生きる”というのが至高のものとシンプルに目指していいのではないか。では、その“人間らしく”とは何かと言えば、少なくとも自分をはじめとする「現代人」と称される人たちが行っているものではないのではないか…。
 きっと、現代における“人間らしさ”というものを再定義しなくては、私のその主張は正当性を得られないのだろうが、それでも人が人として本質的に求めるものがそんなに変わっているとは思えない。
 問題は、時代だけが好き勝手な方向に進んでいく中で、その“人間らしさ”をどう求めていけるか(取り戻していけるか)なのだと思う。実は、日本でもブータンでもラダックでも同じ問いを今それぞれに抱えていて、答えられないでいる。

 だからこそ、あがくようにブータンへもラダックへもわざわざ向かってみる。

 一日の最後には、「戒厳令」の中で唯一の
オフィシャルプログラムとして、地元で弁護士をしつつ社会活動をしているオッツァル・ウンドゥスさんの話を聞いた。Img_5833
 彼の話を聞いて思ったのは、ユートピアとして見られるようなラダックやブータンでさえ特別ではなく、抱える問題までがグローバリゼーションという波で均一化されてしまっているのではないかということだった。特に、「教育」を子どもたちに施していくことのジレンマは、シニカルに彼らを覆っていく。

 その話は、次のブログへと持ち越すことにする。今日はこれから高校を訪問し、授業を見て、生徒や教員たちと語らい、こちらも授業実践をさせてもらう。そうした交流の中で、オッツァル氏が語ったラダックの今を重ね合わせ、教育をテーマに語りたいと思っている。

p.s. ただし、今晩は尼寺に泊まり、明日以降は村で3泊ホームステイをするので、おそらくブログの更新は期待できません。それまでに原稿を書き溜めておきます!

2013年8月 2日 (金)

バカ者は「きっと、うまくいく」と念ず

 久々にインド映画を観に行った。実は、明日からインドに旅立つから、という理由もないわけではないが、沢木耕太郎の文章(下記「参考」参照)を読んで、観たくなったのだ。余談だが、私が彼の文章を好きということもあるのだろうが、彼が朝日新聞に掲載している映画紹介コラム「銀の街から」を読むと、ほぼその映画を観たくなってしまう。
 
 映画『きっと、うまくいく』は、もともと妻と行くつもりだったが、うまく調整がつかず、どうしようかと思っていたところ、ゼミ生が私の“趣味”に付き合ってくれることになった
(ちなみに、男子学生2名)。アクの強いインド映画は、まさに趣味の範疇と言うしかない。
 が、学生たちはそもそも
(私がお勧めする映画なんぞ)期待していなかったようで「結構面白かったっすよ」とそれが意外だったかのように観賞後の感想を語っていた。

 そうなのだ、これは私が知っているインド映画とは少々趣きを違えている。私たちが知っているインド映画は、90年代に一世を風靡した『ムトゥ 踊るマハラジャ』に代表されるように、歌あり、踊りありのとことんエンターテイメント性重視のものだ。ストーリー(脚本)で“語る”ものではなく、ただただ面白さ、楽しさを“見せる(魅せる)”ものなのだ。だから、インドの人たちは映画館で喝采や罵声をスクリーンに浴びさせ、一緒に歌い、踊る。そういう意味で、インドの映画は我々の映画とは一線を画しており、映画館という場だってまるで違う様相で、別の意味合いで成立している。

 たしかに
自分が渋谷で『ムトゥ 踊るマハラジャ』を観た時は、一緒に歌い踊ることさえなかったものの、スクリーンに向かって突っ込みを入れるささやきが其処此処で聞こえ、それを互いに許し合ってる鷹揚さがあり、観賞後は一斉に大きな拍手が巻き起こった。そんな光景を見るのは日本の映画館では初めてで、とても不思議な一体感に包まれたのを覚えている。おそらくその場にいた多くの人がインド映画初体験のはずで、その映画の力に魅了、圧倒されて、場がインド化されたに違いなかった。もう15年も前のことである。

 しかし、『きっとうまくいく』は必ずしもその法則には則っていなかった。だから、私がインド映画に抱く印象とゼミ生がインド映画に抱く印象には、決定的な差がある。彼らにとっては、これがインド映画初体験なのだ。そもそも「
スピルバーグが3回も観た!あのブラピも泣いた!」なんてのが、映画の売り文句になっているのだから、隔世の感がある。ボリウッドがハリウッドを凌駕するなんてことは想像だにしなかった。
 きっとそれはそのままインドや中国などの新興国に抱くイメージの我々世代と学生たちとの桁外れな格差につながっているのだろう。
(事実、最近はインドでもシネコンが増え、昔ながらの映画館は見向きもされなくなっているともいう)

 とはいえ、私自身も映画自体は非常に楽しんだ。3時間弱という長さもそうは感じなかったし、必ずと言っていいほど、鑑賞中、一度は居眠りしてしまうのが、今回はまるでなかった
(これは、映画が面白い面白くないに限らず私にある現象。これを“ビョーキ”と主張しているのだが、だれもそうは認めてくれない)。図らずも3〜4回(ブラピ同様)泣いてもしまったし。劇場がほぼ満席で、ゼミ生たちと隣り合わせの席にならなかったのは幸いした。
 時折、ベタな感じのところもあったのだが、それがまたいいのだろう。ボリウッドらしさがなければ、ボリウッドがハリウッドを凌駕したのではなく、単にグローバリゼーションの波に覆われただけの話なのだ。

 言葉自体が自己矛盾しているのだが、“ベタ”という俗語は「ありきたり」という意味でありながら、それは現実にはあまり起こらないことのほうが多い。好きになったのが目の敵にされている校長の娘だったなんて、映画のストーリーとしてはベタだが、実際にはまずない。

 ただ、この映画の評価すべきは「ベタこそサイコー!」と密かに哲学的に埋め込んでいるところではないかと思う。それは、主人公であるランチョーの生き方、考え方そのものであり、タイトル「きっと、うまくいく」という箴言に表されてもいる。
 換言すれば、“一般社会”というまやかしに埋もれて、“ベタ”という当たり前が当たり前でないほうに追いやられてしまったものを自分たちの中に取り戻そうよ、という映画なのだ。ランチョーはそれをただただシンプルに貫いている。24

 映画は、日本にも通ずる学歴社会への批判をコミカルに描いている。その点で、教育映画と言えなくもない。だから、自分にも重ね合わせて観たのだが、「戦争のない世界を!」「差別のない社会を!」と胡散臭く、青臭くも思われるベタなフレーズを大まじめで実現しようとする教員でありたいと思った。その信念をこの映画は後押ししてくれた。

 映画の原題は"3 idiots"(3バカトリオ)。自分もバカ者だとののしられようと、「きっと、うまくいく」と念じて、学生たちと付き合っていきたいと、観賞直後、改めて誓った。そこに一緒に観たゼミ生たちの「結構面白かったっすよ」という感想が重なってきたのだった。10年後、20年後に彼らと再会した時にそんな言葉をかけられるゼミであればいいと念じている。

〈付記〉
明日からインドのラダックというところへ行ってきます。映画のラストシーンは、そのラダックのあまりに美しいパンゴン湖で撮られていたようです。今回、残念ながらそこは訪れないのですが、昨年のブータン同様、できるだけデイリーでブログを更新したいと思っています。ただ、インターネット環境がこの上なくよくないそうなので、できる範囲で試みますね。


【参考】
◆映画『きっと、うまくいく』 http://bollywood-4.com/kitto.html

◆朝日新聞デジタル 2013年6月6日
 沢木耕太郎『銀の街から』 「きっとうまくいく」友の謎追い 美しき世界へ
 http://www.asahi.com/and_M/interest/theater/TKY201306050289.html

※同じインド映画で『スタンリーのお弁当箱』も気になっている。
 http://stanley-cinema.com/

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