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2013年12月

2013年12月31日 (火)

ラダック訪問記⑩〜おまけの番外編

 「おまけの番外編」で『ラダック訪問記』シリーズをしめたいと思う。暮れ行く一年とともに。Img_6434

 ラダックを後にした我々は、ヒマラヤに連なる峰々を超え、インド・デリーを経由して帰国の途に。

 デリーでは、著名な環境活動家であり、思想家でもある、あのヴァンダナ・シヴァ氏に会うことができた。あれほどの方から直接話を聞き、質問できるという機会は千載一遇のチャンスである!
(そうした場をセッティングしてくれたスカルマ氏には本当に感謝したい)

 食事を一緒にとる僅かな時間だけではあったが、そこでのやりとりは
、この研修の大きな土産のひとつとなった。強大なグローバル企業や自由貿易に対し、固有種、在来種の保護に市民レベルで抗ってきた彼女が“重要なこと”としてきたことは次のことである。

・誠意をもって取り組むこと
・社会運動には時に科学的裏付けも必要であること
・みんなで同時にひとつのことに力を注ぎ込むこと
・どんな馬鹿げたことと思われることも継続させて、当たり前にしていくこと

 その上で「何年かかっても恐れずにやる」ことと「認識することが変化につながる」ことを強く私たちに訴えかけた。
 どこの馬の骨だか知れない連中だろうがなんだろうが、自分の信念を共有してくれるのであれば、寸暇を惜しまず、そしていつでも同じテンションで話すだろう彼女の姿勢に偉大さを感じた。

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 気を良くして、さらに帰国の途を進める。
 が、アクシデントはここから起こる。むしろ、こここそが研修のクライマックスだったのかもしれない…。

 デリーの空港に着くと、日本航空の直行便に何人か乗れそうだという話をカウンターのフロアスタッフから持ちかけられる。旅も終盤で疲れが溜まり、体調不良の参加者がいたので彼らに優先して乗ってもらうことにした。さらに追加で乗れるということで、特に急ぐ用事もないすこぶる健康な私を含む4名を残し、他のメンバーはデリーの空港を発っていった。

 「ま、ちょっとアンラッキーだったね。でも、もともとの便に乗れるわけだから」ぐらいにしかこの時は思ってなかったが、さらにそれが不運を呼ぶ。

 乗り継ぎの上海で時間になっても成田行きのアナウンスが鳴らない。十分な説明もないまま待たされた上、聞こえてきたアナウンスは「成田行きは今日は飛ばない」。その不適切な対応と不遜な態度に我々ならず、同乗する他の客も暴動が起きそうな空気になったが、彼らの言うなりになるしかここでは生きていく方法がない。さらに長時間、空港内をあちこち移動させられた上、結局、収容車のようなバスに乗せられ、どことも分からぬ土地を移動し、とても寂しいところにポツンとあるホテルに一泊させられた。
 そこでの生活はまるで軍隊のようであった。

 食事は一列に並ばされ、お代わりをしようと思えば怒鳴られた。明朝何時に出発か聞けば、まだ分からないと曖昧にされ、部屋は強制的に二人一組に。我々は男3名、女1名の構成だったから、私は男部屋の床に寝る羽目に…。

 朝は朝で、突然6時ごろに叩き起こされ、あと30分後に出発!と。しかもそれが中国語で伝えられる。
 とにかく服を着て、荷物を持ってロビーに降り、またも収容車に乗る。朝食も出ていたが、ほとんどの人はそれに手をつける元気もなく、文句タラタラに空港へ向かった。

 そんな“オプショナルツアー”がおまけでついた4人は“戦友”となった(笑)。
 それもまたいい思い出で、私の2013重大ニュースにランキングされることとなったのであった。

 2014年が皆さんにとって良い年となりますように…

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※上写真は一日遅れでなんとか無事到着した成田空港にて、“戦友たち”と。

2013年12月30日 (月)

ラダック訪問記⑨〜旅を終えて(その2)

 総括しろと言われると毎回同じことを報告書に書いてしまう。スタディツアーはどこまで意味があるのか、と。

 おおよそ10日間だけの滞在で「分かった」と言うのはとてもおこがましいし、現地の人たちが“いつも通り”に接してくれているとは限らない。大抵、私たち訪問者はお客様扱いされ、彼らにとっても特別な日々とされたものを共有することになる。私たちが混じり気のない日常に接することなど土台不可能で、知った気になってはいけないのである。
 ただし、知った気にはなっていけないが、その経験を話してはいい。色眼鏡で見ましたよ、と堂々と。

 偏見や先入観で見ることは良しとされることはまずない。しかし、普段、人は
(無責任に)堂々と主観を交じり合わせ、それを自身の中で編集し、勝手に腑に落とさせている。その無数の繰り返しで社会は形成されている。カオスそのものは、それで一定の秩序を保っているというわけだ。

 ラダックに押し寄せるグローバリゼーションの波は、そうした我々が土産話を持ち帰るのと同じ原理で、ラダック人同士の様々な主観を編み合わせ、彼らの生活を形作っている。そこには善も悪もあり、行きつ戻りつしている。だから、一時として同じ形状はしていない。
 つまり、ラダックをこうだと定義することはできない。我々訪問者が見たラダックもラダックの人たちが感じているラダックも次の瞬間には“ウソ”になっているのである。だから「堂々と色眼鏡で見ましたよ」と言い訳がましく言っていいというのではない。あらゆる瞬間がその形成に影響を及ぼし合っているのであり、その一部に紛れなく自分もなっているという自覚は必要なのである。単なる旅人は、社会の形成者でもある。

 だからこそ、私たちは恐れずに先生はこう見てきたよと伝えよう。そして、謙虚にみんなにはどう伝わったかなと問いかけてほしい。これが真実なんだよと下手な客観を伝えるよりも先生はこう感じてきたんだという主観と姿勢をイキイキと見せてほしい
(イキイキではなく、重々しかったり、マジメにだったりしてもいいのだが)
 きっとそれもまた社会を形成していくことになるのだから。

 一泊した尼寺のまだあどけない尼僧たちや「日本やアメリカがどこにあるか分からない」と笑い飛ばした村の女性たち、素性を知らない日本人の悩み事を聞いてくれたシャーマンやオンポ(占星術師)たちもまた不意の交流によって「伝統」と言われるものを変化させつつも、それを連綿とつなげていく責をしっかりと担っていってくれていると信じたい。

※本稿は、国際開発教育ファシリテーター養成コース2013(第10期)の海外開発現場研修報告書の研修総括として掲載された原稿を転載してあります。
 研修に参加してくれた10期生8名の皆さんと企画・引率して下さったジュレーラダックのスタッフの皆さん、そして出会ったラダックの人々ひとりひとりに、学び多き研修となったことに対し心より感謝いたします。

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ラダック訪問記⑧〜旅を終えて

 仕事柄、海外には比較的よく行くほうだ。だから、経験上、それがいい旅だったのか、それほどでもなかったのか、なんとなく判断できる。帰国してからあまり経っていないのに「あぁ、なんかだいぶ昔のことのように思えるな」とふと思い返す瞬間があれば、その旅は非常に濃密な“よい旅”であったと確信する。なぜなら、もし旅を「非日常に身を置くこと」と定義するのであれば、日常が旅と対比され、そのギャップが浮かび上がれば上がるほど、時間の経過は実際よりも長く体感されるものだと思うからだ。帰国から4ヶ月経った今、こうしてラダックへ行った夏を思い起こすとまさにそんな感覚におそわれる。

 拓殖大学では社会人向けの公開講座として「国際開発教育ファシリテーター養成コース」という通年コースを毎年開講している。そして、夏休み期間中には「海外開発現場研修」と称し、参加者を募ってアジアやアフリカのフィールドに出かける。昨年、“幸福の国”と呼ばれるブータンへ赴いたのに続き、今年度の研修をラダックにしたのは、グローバリゼーションの波が押し寄せる中で、「開発」をどう捉えていくかという課題を共通に抱えているからで、参加者のみんなとそのあり方をとことん考えてみたかったからである。

 研修終盤、突き抜けて青いラダックの空のもと、風にそよぐリクツェ村の広場の芝生にメンバー8人でスカルマ氏を囲んで座った。そして、あれやこれやと旅をふりかえる。市民活動をする弁護士やNPOスタッフとの対話、尼寺での滞在、レーの私立学校と村の公立学校訪問、SECMOLの持続可能な生活、そしてリクツェ村の人々とのふれあい。そうした貴重な種々のアプローチでラダックの姿をより立体的に見せてくれたスカルマ氏、加瀬氏をはじめとするジュレーラダックの皆さんに感謝している。

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 ただ、今夏ラダックを訪れた我々8人が明確な解答に辿り着いたわけでは決してない。つまり、ラダックの人々を私たちの日常とのコントラストとして見てはいけないのであって、それは私たちの課題としても日々思い、考え続けていかなければならないことに気づかされたからである。だいぶ昔のように思えるなと感慨に耽ると同時に、自分事として考えていかなければならない宿題をいただいたとも今改めて思っている。

※本稿はNPO法人ジュレーラダックのニュースレターに掲載されたものを一部修正して転載しています。

2013年12月29日 (日)

ラダック訪問記⑦〜グローバリゼーション

 今回の研修はグローバリゼーションと開発の問題を考えにきたと言っていい。それは「観光」ではきっと分からないのだろうから、僕らは悪あがきに「スタディツアー」と銘打ってなんとか答えに辿り着きたいと思っていた。そういう点で、レーから車で何時間も揺られ、リクツェ村で4日間のホームステイをしたことの意味はある。
 ただ、彼らと
(わずか4日間ではあるが)寝食を共にして感じたのは、グローバリゼーションの波に侵されているような、いないような…といったつかみどころのものなのではあるが。

 興味深かったのは、リクツェ村滞在最後の夜に村の人が総出で集まってくれて、男性グループ、女性グループ、若者グループ、そして我々の四者でディスカッションをしたことである。Img_6300

 「今一番欲しいものは?」と問えば、女性たちは「お金!」と遠慮なく言い、「だって教育費にお金がかかるし、旦那は収入がないし(笑)」と笑い飛ばす。一方、男性たちは「お互い助け合いでやっているので、お金は必要ない」と言い張る。でも少し間を置き、「でも、これからはお金が必要になってくるかも…」とも言い加えた。
 若者は率直に「車、パソコン」と答えた。

 「いろいろ社会が変化していく中で、これから家族の関係はどうなっていくのだろう?」という疑問には、意外にも若者が口火を切って「今のままであってほしい」と言い、大人たちは「いや、崩れているだろう」と案じる。それでも若者は「いやいや、そうなってほしくはない。どうなるかは自分たちの手中にある」とも力強く言った。そんな宣言ともとれる若者の決意めいた言葉を尻目に、女性たちが「でも私たちゃ、もう生きてないね」とやはり笑い飛ばして、最後、持っていってしまう。

 この時間の結論。グローバリゼーションの行き着く先は“女性の時代”ということである(笑)。

 途中、「東京のように時間に追われる生活をどう思うか?」という問いも参加者から投げられた。「時間どおりに事が運ぶ日本のほうがいいと思う」と真剣な顔をして話してくれたが、そもそもこのディスカッション、数時間も遅れて始まった。そのことを突っ込むと、「それは言わないで下さい」と村の人たちは苦笑い。
 たしかに、畑仕事が手間取ったのが主な理由なので責めるつもりは毛頭ないのだけど、道路工事には遅れないで行っているとのこと。

 前にブログでも少し触れたが、ここは経済的な発展に伴い、中心地レーから舗装された道路が延びようとしてるところであるとともに、地政学上も非常に重要な経路となっており、政策的に道路建設が行われているのである。移動中、何度も道路工事の場面に出くわしたのはそのせいだ。

 その道路工事には村人たちも駆り出され、彼らの今の生活を支える大きな収入源となっている。そのことは、もろもろに彼らの生活へ影響を及ぼしてもいる。
 ディスカッションの中では「8時に迎えにくる車には遅れないで行っている。遅れたら給料から割り引かれるから」と話していた。また、今まで心配することのなかった泥棒が出るかもしれないということで「鍵をかけるようになるかも」とも話していた。人の行き来も増えるから、これ好機と「
畑をもっと開拓して、稼ぎたい」と言い、「でもマーケットがないからそういう場も欲しい」と惜しげに話してもいた。
 彼らの心中は微妙に揺れ始めている。

 朝のジョギング中に見つけた岩肌にあった落書きにはこう書かれていた。

 "LADAKH IS THE PRIDE OF OUR COUNTRY"

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 ガイドのスカルマさんに聞けば、これは落書きではなく、日本で言うところの国交省のようなところが描いた標識みたいなものらしいが、それでもラダックの人たちの心情そのものでもあると思う。それはいろいろな意味で。

 彼らは決して自分たちのことを“インド人”とは言わず“ラダッキー”なのだと言う。
 ホームステイ先にあったカレンダーを覗いたら8月15日のところに"Independence Day"とあったので、「この日は村でお祭りでもするの?」と聞いたら、「何もしないよ」と素っ気なく答えられた。18年前に訪れたインド・カルナタカ州の村では盛大なお祭りをしていたのに、だ。

 道路や家の建設でネパールから出稼ぎに来ている人ほどガツガツ働きはしない様Img_6078子を「どうしてか?」と聞けば、「ラダッキーはLazy
(怠惰)だから」と彼らを横目に言う。(左写真は、出稼ぎのネパール人たちが建てているホームステイ先の新居)
 これは、昨年言ったブータンでも全く一緒で、出稼ぎの人たちに対して自分たちをLazyと
謙遜であるのか言っていた。それは自分たちのこれまでの生き方を曲げたくないというプライドでもあるように私には聞こえた。

 だから、あの岩肌にあった言葉はラダックの豊かな自然資源を謳ったものではあるのだろうが、私には複雑に、そして意味深げに映ったのだった。
 
 ラダックを後にして、乗り換えのデリーのホテルでおもむろにテレビをつけるとCNNのニュースが流れていた。奇しくもそこではラダックの道路建設のことを特Img_6474集しており、見覚えのある風景をバックにレポーターが話している。
 その特集のタイトルは"Road woes in Ladack" 
 意訳すれば「延伸する道路がもたらすラダックの苦悩」といったところか。

 その道はどこへ続いていくのだろうか…。

 ラダックの未来は僕たちの未来とも重なるのだと思うと、その道がどこに繋がるのか、他人事とは言っていられないのだろう。

【参考】
JICA's World 2013年7月号 「太陽光で自然に優しい生活を」(NPO法人 ジュレー・ラダック)
http://www.jica.go.jp/publication/j-world/1307/ku57pq00001f7taf-att/04.pdf
※ラダックでは、ジュレーラダックの協力のもと、新しい開発のあり方として自然エネルギーの利用も進められている。

2013年12月27日 (金)

ラダック訪問記⑥〜伝統文化

Img_5974_4  前回ブログは携帯を手にする尼僧の話で終わった。たしかに街に下れば、道路沿いに通信会社とおぼしき会社の店舗や看板がやたら目につく(ラダックでは右写真のair telという会社が特に目立った)。この傾向は一昨年行ったアフリカ・ウガンダでも変わらない。
 今、グローバリゼーションの波が押し寄せないところは地球上にはないのだと思う。

 例の尼僧とガイドのスカルマ氏を介して少し話をしてみた。
 「この生活はどう?」と聞くと、「スキッポ(幸福)」と即座に返事が返ってきた。すぐには解せず「どうして?」と立て続けに聞くと、「(宗教の)教えを学べるから。苦からも逃れられるし。そして生きとし生けるもののためになれる」とこれまた考える風でもなく間髪入れずに返答があった。きっとそれは常に頭の中に留め置かれていることで、彼女が尼僧になろうと決断した理由でもあったのだと思う。

 彼女たち尼僧の言動には「宇宙に幸せはない、永久な幸せはない」という
思想が根底にある。だから、日常にはびこる苦から逃れるために尼僧になるのだ。規則正しい(と言えば聞こえがいいが“まるで変わりのない”)生活が何年も続くことは我々にとって苦行にも思えるが、彼女らにしてみれば幸せになる一方法であり、極めて合理的な決断だったのだ。
 スカルマさんの話によれば、尼僧になる子は近年増えていて、その背景には社会にストレスが増えていることがあるのだろうということだった。前近代的にも見える尼僧たちの生き方は、実は現代のトレンドであったのだ。

 それでもラダックにはしっかりと伝統は根付いたままにもなっている。特に、シャーマンやオンポ(占星術師)の存在が未だあり、それらが煙たがれるものではなく、生活やコミュニティの一部として位置づけられていることは、
貴重である(と我々は思ってしまう)
 現代のあり方を“通常”としている我々日本人旅行者ご一行は、その“非日常”が摩訶不思議にも思え、「もし彼らの生活を乱すことにならないのであれば、一度会ってみたいのだが…」と遠慮がちにスカルマ氏に聞いてみたら、すんなりと「アレンジしましょう」と言ってくれた。あまりの呆気なさに、私たちが警戒する以前に、そこに垣根を設けることのほうがおかしな話なのだと気づかされた。シャーマンにせよ、オンポにせよ、彼らの範疇は時空を超えた宇宙なのだから。要は、彼らの前に立つ我々が彼らの存在に敬意を払えるかどうかだけなのだ。

※下写真の左は、リクツェ村のシャーマンとその啓示を受けるツアー参加者。脇でコーヒーカップを持っているのはガイドのスカルマさん。かなり真剣にやってもらっている空気の横でくつろぐスカルマさん(ラダック出身)。そのコントラストが日常的であることの証左か!?
右はオンポの家でみんなの悩み事を占ってくれている様子。祭壇にはダライ・ラマ法王の写真が掲げられていた。


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 とはいえ、ツアー参加者から出たものの大半は、恋人ができるかとか、結婚生活がうまくいくかとか、次期選挙で当選するか
(参加者のひとりに地方議会議員がいました)など。なんとも俗っぽいこと、極まりない(笑)。
 ただ面白かったのは、占う前に「いやぁ、年上はダメでしょ」「お金を積めば問題ないよ」などと個人的な意見が挟まれたこと。その俗っぽさは日本人以上だった。

 こうした矛盾やカオスは最高である。やっぱりラダックは面白い!

2013年12月25日 (水)

ラダック訪問記⑤〜尼寺にて

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 結構、今の職業を気に入っている。理由は生活のリズムが“不規則”だからだ。

 そもそも大学の教員などというものは偏屈な個人店主がやる自営業のようなもので堅気の職業とは言えない。それでも講義があるから、それなりにリズムがあるのだが、その講義も年内は先週で終了し、とりわけ今は自由業気取りである。

 昨日は娘の迎えもあってのことだが、3時過ぎに帰宅しようとすると、車中は朝とはまるで違う風景となり、終業式を終えたのであろうか、閑散とした車内に浮かれ騒ぐ女子高生たちの声が響く。電車から降りれば、漂う空気も届く光も「いつもと違う」と一瞬にして体感された。それらは人の速度と比例して作られるようでもあり、そうしたメリハリを体は時々欲しているのではないかとも感じるのだ。だから、こんな時の駅から家までの数分は至極幸せな時間になる。

  しかし、あの子たちは違った。まるで逆のことで幸せを感じている。
 今夏訪れたラダックでは一晩だけ尼寺に泊まらせてもらった。そこで出会った尼僧たちの一日は決まり事に“支配”されている。そして、それが何年も繰り返されていくのだ。
 
見れば、小学校低学年ほどの年齢の子もおり、ということは、ほぼ一生、この極めて規則的な生活が続いていくことになる。
(※下記写真:朝起きてまず顔を洗い、歯を磨く。この後、中で五体投地や読経が行われた)

Img_5928  Img_5932 Img_5930

 
でもそれが不幸せなことだとは感じていない。彼女たちは幸せになるための手段として尼僧になることを決めたのだ(「決めさせられた」のかもしれないけれど)
 僕たちは“変化すること”を幸せだと思い、彼女たちは“変化しないこと”を幸せだと思っている
(「幸せ」の言葉を「自己実現」に置き換えてもいい)。生き方とは実に多様で、時に真逆にさえなるのだと彼女らに教わった。だから前回のブログで書いたことに引き続き)「イキル」の意味がますます分からなくなる。

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 そんなことを想っていると、目の前の尼僧がおもむろに裾から携帯を取り出し、誰かに電話をかけている。これで「イキル」がからっきし分からなくなった…(笑)。

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 こんなコントラスト、矛盾、混沌があるからラダックの今は面白い!

※現地でアップできず、こんな年の瀬までまとめるのを延ばしてしまったので、一年のまとめと反省を兼ねて、「ラダック訪問記」の続きをどうにか年内に書き切ろうと(は)思っています。
 

2013年12月13日 (金)

ブログ再開に際し…

 前回書いたブログが8月31日だったから、もう季節はひとつ飛びに冬になっている。そんなにサボっていたつもりはないのだが、人の意識とはそんなものである。一年の計は元旦にあり、と誓いを立てても、まったく何もしないまま大晦日を迎えるなんてことはありがちな話だ。なにより自分の英語学習なんぞはその最たるものである。毎年、12月31日にはペラペラになっているはずなのだが、そうなった試しがない。そして1月1日に神社で手を合わせ、また祈るのである、「ペラペラになれますように」と。
 日常に流されるのはいともたやすいことなのである。

 9月に授業が再開し、バタバタしつつ、なんとか体裁は保って仕事はこなしてきたつもりだ。それでも
例年どおり!?“自転車操業”であったことにはちがいない。
 
加えて、妻の妊娠が夏に分かると間もなくして、第一子の時と同様、ひどい悪阻になり、ほぼ4ヶ月間、寝たきりとなった。一切合切の家事を切り盛りせねばならなくなり(夕飯は義父母宅でお世話になりましたが。多謝!)、朝などは、朝食の支度、洗濯、洗い物、保育園の連絡帳記入、送迎などなど本当にあっぷあっぷだった。「いやぁ、まったく休みがなくて…」という日本人特有の“忙し自慢”だけはみっともなくてしたくないのだが、事実、週末が予定で埋まることも多く、家族には悪いことをした。
 とりわけこの12月上旬には大きな仕事が重なり、その準備にてんてこ舞いだったが、水曜日にその山を越え、やっと一息つけることとなった。今晩は職場の忘年会があり、もうすっかり年忘れモードである。
 というわけで、久々のブログ再開!という気になったのだ。
(相変わらず前置きが長い…)

 けども、ブログ再開はショッキングな話から始めなければならない。

 木曜日は講義のない日で、家族サービス
(という言葉は好きでないが)や地元の活動に基本充てている。昨日も週に一度連れて行っている野外での自主保育へ娘をまず送らねばならなかった。その道中、「いつもの場所へは行かず、近くのK氏宅に集合してくれ」と携帯に緊急の連絡が入った。その慌ただしさといつにない声色から、そして「そこに子どもたちは決して近づかせないように!」と暗に匂わせる電話にただならぬものを感じざるを得なかった。

 私たちが自主保育をやっている場所は「果樹園」と呼ばれている。ディズニーに出てくるような小人たちが住んでいてもおかしくない
“小さな森”といった具合のところである。そこはK氏が中心となり、間伐材で遊具をつくったり、竹で大きなドームを組んだりして、子どもたちの格好の遊び場となっている。週末にはフリーマーケットをすることもあり、地域で活動している人たちの憩いの場ともなるところである。

 その果樹園の中ではなかったのでまだよかったのかもしれないが、その脇を流れる小川の川縁で首つり自殺があったのだ。
 見れば、30歳前後の若めの男性で、木の下には彼の物と思われるバッグが置いてあった。

 保育をお願いしているH氏がその第一発見者であった。彼女は、すぐに110番通報し、その後、我々のところに先ほどの緊急連絡が回ってきたというわけである。
 そんなことは(当然)つゆ知らず、K氏宅に集められた子どもたちは、普段どおりに無邪気に遊び始めているからH氏にはそっちへ行ってもらうことにし、というか、そもそも「震えが出てきた」と動揺し始めてもいるので、K氏と私とで現場の対応をすることになった。

 先回りして電話で警察に現場の様子を伝えているK氏の後を追っていくと、程なくして鳴り響くサイレンが近づき、まずは消防車で緊急救命士たちが駆けつけた。その後、近所の交番のお巡りさんも加わり、改めて情況を説明することになった。

 自主保育が始まるのは9時だから、H氏が発見したのはその少し前である。決して人通りが多いところではないが、それでも
K氏の話では朝には散歩する人がそこそこいるし、車の通行だってそれなりにあるらしい。なのに、太陽がかなり昇ったその時間帯まで発見されなかったのは不思議である。「なんでだろう?」とK氏とも話をした。
 たしかに、川は道路下を流れているし、ガードレールが視界を若干遮ってもいる。実際、救急車が辿り着く前、私の横をジョギングする男性がいたが、気づた素振りもなく
通り過ぎていったそれでもH氏が第一発見者になることはなかったように思う。

 なにも現代人の無関心を非難しているわけではない。さすがにその現場を発見し、110番通報せずに放っておく人はいないだろう。本当に気づかなかっただけなのだ。
 その首を吊った若者がどんな思いでそうする決意をしたのか、想像することなどできないが
、何時間もその状態であり続けねばならなかった彼に憐れみを覚えてしまう。死んでしまっては、それも意味のないことであると分かっていても…。

 しばらく経って、鑑識の人たちが到着し、彼らと入れ替わり、自分はその場を去った。
 すぐに大通りに出るのだが、すれ違う車中にいる人たちは何食わぬ顔をしてハンドルを握っている。

 当たり前だ。
 当たり前ではあるが、彼らの肌のすぐ外でそうした“一大事”が起こったことにまるで気づいていないことは、たまたまふたつを知った自分にとっては違和感がありすぎた。

 奇しくも今週講義した社会学で取り上げたテーマは「自殺」であった。
 日本には年間3万人ほどの自殺者がおり、その自殺率はOECD諸国の中で男性は3位、女性は2位となっている。
こうした数字は“自殺大国”と言われる所以となっている。
 もしその人たちが自殺せず、普通に暮らしていたならば過ごしていたであろう年数を合算すると85万年分に相当する。この数字にあまり意味がないことは重々承知している。それを“失われた”とするのは生きている者サイドの視点にすぎないのだ。そう思うと「イキル」と「シヌ」の差はどれほどのものなのかますます分からなくなる。

 ブログを通して彼の死を想い、せめてもの供養になればと思う。偽善なのかもしれないが。

 合掌。

【参考】
"Saving 10000 Winning a war on Suicide in Japan(自殺者1万人を救う戦い)"
 http://www.saving10000.com/ja/
 ※これは社会学の授業で見せたドキュメンタリーです。

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