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2014年2月15日 (土)

ケネディさん、もっと話を聴きたいんです!

 私のゼミでは、この春休み中、後期からの活動を継続させ、テーマを持ってグループワークに取り組んでもらっている。年度末の3月下旬には、とりあえず中間発表としてのプレゼンテーション合宿を2泊3日で予定している。
 あるグループは「犬猫の殺処分」問題を取り扱っている。これがゼミのテーマ「サステナビリティ(持続可能性)」とどう関係しているのかといえば、少し回りくどくなるがこういう図式になる。

 【持続可能な社会(生活)】 → 【持続可能であるということはみんなに幸福感があるから】 → 【でも犬猫は相当数、そしてずいぶんと呆気なく殺処分されてるらしい】 → 【つまり、ペットとしての動物たちが持続可能とは言えない】 → 【それって人間の社会が歪んでいるから?】 → 【ということは、現代社会は幸福感があるとは言えない?】 

 現在、日本で飼われている犬猫は推計2000万匹。そのうち、売れ残ったり、捨てられたりして年間16万匹が殺処分されているのだという。
 比して、ドイツの殺処分数はゼロ! ドイツでは、飼い主に「ペットを飼う資質」が問われ、ペットを飼うスペースを十分に確保する、飼い主はペットと交流し、しつけをきちんと与えるということが法的義務となっている。そして、イヌ税というのが課されており、ペットを飼うにはかなりの税金を払わなければならない
(2匹目以降はさらに課税料金が上がる。ただし、盲導犬や救助犬などは課税が免除されている)。そもそもドイツには殺処分場などというものはない。こうしたドイツの取り組みには、無責任な飼い主や悪質なペットショップ・ブリーダーを放置しないという背景がある。
 さすがに、ドイツの状況から見ると野放しな感じのある日本でもオークションで売れ残ったり、病気や障がいで競りにすら出品できない犬猫を引き取り、新たな飼い主探しやトリマー学校の教材犬として“第二の人生”を見つけるネットワークを作る活動も出てきている。

 これらはつまり「動物愛護」の問題である。以前、カナダでグローバル教育の第一人者ディヴィッド・セルビー氏のセミナーを受けた際、グローバルにモノを見るのであれば、人権(human rights)だけではなく、アニマル・ライツ(animal rights)へも思いを馳せるよう諭されたのが思い起こされる。

 昨今、キャロライン・ケネディ駐日大使がTwitterで「米国政府はイルカの追い込み漁に反対します。イルカが殺される追い込み漁の非人道性について深く懸念しています」とつぶやいたことが論議を呼んでいるが、これもその“アニマル・ライツ”の思想に基づくものと言えるのだろうか。

 このつぶやきは、暗に
(でもないか)捕鯨の町であった和歌山県太知町のイルカ漁に向けられている。アカデミー長編ドキュメンタリー賞を受賞した映画「ザ・コーブ」の公開以降、海外からの太知町漁師たちへの風当たりは強くなっている(この件は4年前にブログでも取り上げたので、下記「参考」にアクセスしてみて下さい)
 これら非難の根拠のひとつは「やり方が残虐である」ということだが、非難する人たちが食べるであろう牛肉や豚肉だって、そのプロセスは“残虐”である
(映画「いのちの食べかた」をご覧いただければ一目瞭然である)。だから、このロジックはまるで成り立たない。

 そこで次に挙げられるのが、もうひとつの根拠、「クジラやイルカは“賢い”」というものだ。つまり「人間に近い動物だから」ということだ。科学者たちは、遺伝子レベルで本当そうなのかどうなのかという議論をしたがっているが、この問題においてそのことはそれほど重要ではない。「人間に近い」ということを論拠にすること自体が大きな問題なのだ。それを軸に話をする以上、それは動物たちの権利を守るというものではなく、あくまでヒト目線の人間中心主義に拠るものになるからである。

 しかし、そんな分かりやすいロジックで反論できるのに、賢いであろうキャロライン・ケネディ駐日大使が軽率にそうツイートするには、私ら一般市民には知り得ない何か力学でも働いているのだろうか? 彼女の主張をもっとじっくり140字以上で聴いてみたい。


【参考】
・朝日新聞2014年2月2日「売れなくても 生かす道 ペット業者がシェルター 競り、幼いほど人気」
・朝日新聞2014年2月12日「『賢いイルカ』は特別か 追い込み漁をめぐる問題 人間との『近さ』 権利論に発展」
・石川的徒然草2010年3月13日 「ザ・コーブ」受賞におもう http://daikichi-sun.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-92c7.html

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コメント

映画ではなく、森達也さんが書かれた『いのちの食べかた』理論社 では、「お肉ができあがるまで」という章に「芝浦と場」で見学したようすが書かれていましたが、「残虐」とはほど遠い内容で、よくやっているなと感じました。殺すことは同じですが、殺し方によってそのことをどう感じるかは大きくちがってくると思います。巧妙ですね。工夫があります。
持続可能と幸福感。。。よくわかりませんが、あまり関係ないような。持続という「状態性」は幸福感という「瞬間性」とは、むしろ反対の位置にあるように思います。持続が生むのは「安定感・安心感」だろうと思います。
ペットに関しては、(個人的には)持つこと自体に疑問があって、私が動物の弁護団で権利を主張するなら(権利も一種の「巧妙な工夫」だと思いますが)、「今後、人間は私たちをペットにしないで欲しい」と訴えたい気がします。まったくその可愛がり方がどこまでも人間の御都合だからです。(個人的には)ドイツのやり方でも同罪になります。「人には動物をペットにする資格はない」

ただし、ペットが必要な人もいると思います。その人はペットを持てばいいと思います。幸福感も得られることでしょう。生き物の命を食べる権利がないように他の生き物をペットにする権利もないと思いますが、こうした「権利」というのは「人間的な工夫」であると思いますので、それを犯すことは、これまた宿命。どこでどんな線引きをするのかは、文化的にも個人的にも差異があるのも当然。気にするのも気にしないのも、ありだと思います。

森井さん、いつもコメントありがとうございます。久々のブログアップですが、嬉しい限りです。
 さて、私の表現が十分でなかったのだと思いますが、ペットを飼うこと自体に私は反対ではありません。ゼミ生たちもアニマルセラピーがあるように、その効能を肯定しており、問題にしているのは飼い方のほうです。
 それと、持続可能性と幸福感の話ですが、「状態が続いている」ということは、そのことを否定してはいないということで、決して不幸ではないということ(消極的な捉え方かもしれませんが)。
 逆に「持続可能でない」ということは、その状態をあきらめて投げ捨てたとか、限界が来ているとかいう結果の現れなわけで、幸福な状態ではない、という判断です。

最近は、本を読む時間が減るので、ネットから脱出したいと思いつつ、どこか依存症的なところがあるようで、私は「抜けなきゃ」と思いながらもずるずると「持続して」います。(笑)

ペットは「ペット(愛玩する)」という愛され方をするので、もし人間ならどう思うかな?と考えると気の毒ですが、いやいや、そんなことで本来の生き方ができなくても嫌になったりしないだろう、所詮は犬猫だ。。。みたいに思えれば何の痛痒も感じないように思います。アニマルセラピーも人間のためであり、動物にとっては、けっこう負担じゃないかな?と思うんですが、あくまで想像で、言葉が通じなくてよかったなと思うばかり。人は実に巧妙だと思いますが、それでこそ人だなとも。

「巧妙」といえば、「ちょっとかすかに罪悪感を感じる程度にマインドセットしておく」というのが、たぶん幸福度が最大限に得られるのかも知れないと(皮肉な感じにもなってしまいますが)思ったりします。昔の人はよく供養塔なんかを建てていますね。ああいう感じでしょうか。

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