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2016年10月23日 (日)

1. NO POVERTY〜貧困をなくそう

 貧困について書こうと思ったら、時宜よく、世界銀行から最新の報告書のニュースが入ってきた。1日当たり1ドル90セント未満で暮らしている「極度の貧困層」が、世界で7億6700万人に上るというものだ。これは2013年時点での調査結果だが、その前年に比べて13%も減少していたという“朗報”である。
 ただし、その層の世界人口に占める割合は10.7%に及び、大半がサハラ砂漠以南のアフリカに集中する。中国、インド、インドネシアなどアジアにおいては経済成長に伴って貧困層は半減したが、一方、アフリカの貧困にあえぐ人々自体はあまり減っておらず、状況が改善しているとは言い難い。

 このような現状にある国際社会が掲げた「貧困をなくそう」という壮大な目標は、果たして現実的に実現可能なものなのであろうか。

 そもそも人類の歴史は常に貧困と対峙してきた。大げさでもなんでもなく、これまでに貧困のない時代などなかったのである。狩猟採集を主とした旧石器時代は常に死と隣り合わせの不安定な時期であったし、古代においては階級社会が生まれ、生きていくための最低限のものを確保することに必死な奴隷や零細農家がほとんどであったと考えられている。中世においては封建制が進む中で、都市に住む者の多くが屋外で寝起きしていたとも言われ、近代においては産業革命が起き、資本家階級が誕生し、搾取される労働者階級は貧困にあえいだ。植民地以前は経済にも精通し、豊かな土地柄であったアフリカは、欧米列強による侵略と略奪により、現代においては貧困の象徴のように捉えられてしまっている。

 辛辣な言い方をすれば、社会は貧困層という“必要悪”を作り出すことで、それを踏み台に自分にとって居心地のいい社会を積み上げてきた。そこには宮沢賢治の言う「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という思想はなく、あえて貧困には目をやらなかったのである。否、踏み台にしていることすら知らずにここまで来てしまっているのかもしれない。

 「知りながら」であろうが、「知らずに」であろうが、いずれにせよ、非はある。しかし、そこを責める以前に、その構造自体を問題視せねばなるまい。

 貧困には絶対的貧困と相対的貧困とがあるが、「貧困をなくそう」との壮大な目標を成就するにはそのどちらへのアプローチも必要になってくる。主には、途上国にある絶対的貧困と先進国にある相対的貧困の問題の二つに対して、ということになる(もちろん、途上国における相対的貧困と先進国における絶対的貧困の問題もある。そもそも「途上国」「先進国」といった言葉でカテゴライズする意味がますます薄くなっているのだが)。

 とりあえず、そう紋切り型に捉えたとすると、現代の日本で議論していく貧困の問題は相対的貧困ということになるだろう。
 記憶に新しいところでは、8月に放送されたNHKのニュースで「こどもの貧困」を取り上げた際、実名で登場した女子高生が1,000円以上のランチを食べているとか、身の回りが嗜好品で溢れているとかで、「彼女は決して貧困ではない」とネット上で炎上していることが話題になった。さらには、片山さつき参議院議員がこれに噛みついたことで、“貧困”とは何か?といった議論を再燃させることともなった。

 平たく言えば、相対的貧困とは、ある社会の中にいる他の誰かと比べた場合に自分が貧しさを覚えるという状態のことである。それは、必ずしも食うや食わずの状態に常にあるわけでない。飢餓やホームレスのような「見えやすい貧困」(絶対的貧困)は問題意識をもってもらうことは比較的できるが、「見えにくい貧困」は可視化されにくく、違う意味で根深い問題なのである。「明日死ぬかもしれない」という身体的に限界に近い状態と、「明日生きていたくない」という社会的、心理的に切羽詰まった状態は、生命の持続可能性という意味では、どちらのほうが重いとか軽いとか比較できる問題ではない。
 しかし、認識されなければ、または共感を得られなければ、政策は打ち立てづらい。そして、何よりも今回のように「あれは決して貧困とは言えない」などとバッシングを受け、二重に社会から見放されることになる。

 相対的貧困とは、前述したが、文字どおり、他者と比べての貧しさのことである。よくOECDの定義が用いられるが「等価可処分所得(世帯の可処分所得を世帯人数の平方根で割って算出)が全人口の中央値の半分未満の世帯員を相対的貧困者」であるとするものだ。つまるところ、所得格差の問題だ。日本では122万円のところに相対的貧困のラインが引かれ、それにあたる割合は実に16.1%にのぼる。すでに6人に1人が貧困状態にあるということになる(2012年国民生活基礎調査)。

 この所得という視点ではかる相対的貧困の考え方は、常に貧困層を生じさせる。100%完璧な社会主義、共産主義でない限り、相対的貧困とは貧困を「あるもの」として対置させることを前提としているからだ。相対的貧困が「所得」という観点で見る狭義のものである以上、それは決してなくなりはしないものになる。

 だから、何かを踏み台にして成立する枠組み、それ自体をなくしてしまうことが、問題解決の打開になりはしないだろうか。つまり、相対的に見るのではなく、相対主義的に物事を見ていくのである。

 無論、貧困層を現状のままに留めてよいとするのでは決してない。経済的な視点も放念してよいものではないが、それだけでは計測できない豊かさにも力点を置いて、政策立案するなり、価値観やライフスタイルの転換を図っていくなりする先に”NO POVERTY”の社会が実現していくような気がする。
 「相対的貧困とは何か?」との問いに行き詰まり、定義しきれなくなった時、つまり誰かと比べて良いとか悪いとか、高いとか低いとか言えなくなった時、この問題の解決に光が差すのではないかと思う。「みんなを金持ちにしちゃおうぜ!」というという方向性よりは、こっちのほうがよりプラグマティックで、実現可能性がある気がするのだが。

 もし、今の貧困層にあたる人たちのGDPが今の富裕層のレベルになった時、まだ見上げる人々がいるのであれば、彼らは何を思うのだろうか? そもそも富裕層の生活が、人が目指すべきゴールとしていいものだろうか? そこは果たして桃源郷なのだろうか?

 人は他者との比較をしたがるもの。永遠にその「人と比べる」という呪縛から逃れられなければ、世界は青天井への階段をひたすら昇り続けなければならない。それよりもそろそろ踊り場で歩を止めて、互いが優雅にダンスする様を眺め合っていているほうが私はいいと思うのだが。
 貧困の対義語は、豊かさではなく、多様さなのだ。試しにそう言ってみたら、世界は肩の荷をだいぶ下ろすことができるのではないだろうか。

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コメント

興味深く読ませていただきました。

貧しさは相対的に主観的に感じることが多いと思います。

自分ではなにも貧しくは感じていなくても、「ケータイ持ってないよ」とか「車持ってません」いうだけで「貧しいに違いない」と思われたり、「無職です」と言うと、やはり同じ目で見られます。ま、そういうものも気にしなければ、何でもありません。ただ、「貧しさ」はそういうところにも創造されるということです。

「格差を少なくする」と「豊かさ」は感じにくいかも知れませんが、同時に「貧しさ」も感じにくい世の中に近づくと思います。

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