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スポーツ

2014年2月23日 (日)

浅田真央狂想曲

 ソチ五輪が終わろうとしている。
 終盤に来て、メダル獲得数が話題に挙がる中、唯一、例外に無冠に終わった浅田真央の最後の演技が称賛を浴びた。

 ショートプログラムでの16位スタートは、誰も想像だにしなかったことだが(もちろん当人でさえ)、これは“浅田真央らしく”有終の美を飾るための神様からの贈り物だったのではないだろうか。決して試練なんかではなく。

 わずか14歳で、シニアの国際大会で鮮烈デビューし、その年、グランプリファイナルでも優勝をさらっていった。その時の彼女は怖いもの知らずで、まさに天真爛漫の演技だったことを覚えている。周囲が天才少女と騒ぐのよそに、ただただ無邪気にリンクを舞っていたのがとても印象的だった。

 が、彼女は“成長”する。大人になるということは“恐れ”についてのセンサーが働いていく過程でもある。恐怖を徐々に感知するようになり、とうてい14歳の頃と同じように無邪気には踊れなくなっていった。
 同年代として常にライバル視された金妍児が、その大人になる過程を“ギラギラさせていく”ものとしてうまく成長していったのとは対照的に。
(ただ、その金妍児もバンクーバーの時とは違って、ソチでは輝き切れていないように見えた)

 世間は、いつしか浅田に金メダルとトリプルアクセルを要求していく。しかも、14歳でマスメディアに登場するようになった時と同様のあどけなさも重ねあわせて、“真央ちゃん”と呼びながら。そうしたアンビバレントな難題をずっと突きつけてきたのだ。
 否、そんなことはなかったのかもしれないが、少なくとも浅田本人はそれを意識せざるを得なかっただろうし、振り払おうとすればするほどそこに取り憑かれていった。

 そうした呪縛から解き放たれるためには、メダルにはとうてい届かず、ファンが失望落胆する「16位」という思いがけない結果が必要だったのだ。それは、悲劇ではない。浅田が心置きなく踊れる最後の舞台を神様が用意してくれたのだ。
 彼女がフリーの演技を終えた後、「自分が目指しているフリーの演技ができた」と言葉にしたのは、もしかするとあの無邪気なままの浅田らしいスケートを思い出すことができたという意味なのかもしれない。

 彼女が現役最後に選んだのはラフマニノフのピアノ協奏曲第2番。周りを気づかう浅田が恩返しとして滑った「協奏曲」ではなく、これからは形式にとらわれない自由気ままな「狂想曲」を滑ってほしいと個人的には思う。
 彼女は金メダルを取るために生まれてきたのではない。

2013年8月22日 (木)

ラダック訪問記④〜高地トレーニング!?

 今回の旅には3つの制限があった。
 
 まずは、前のブログにも書いたが到着当日に敷かれた「戒厳令」。ラダックは3500mほどの高地なので、それに馴化するために「とにかく初日だけはジッとしていてね」とはガイドのスカルマさんの言。それが優しさだと重々承知するのだが、修学旅行でいかに先生の目を盗んで悪巧みをするかという中学生の気持ちが40歳を超えても共感できた。


 2つ目は同じ理由で発令された「禁酒令」。これは初日のみならず、ラダック最後の夜を名残り惜しむパーティーまでお預けとされたので、さすがにこたえた。Img_6278
 実際には村滞在時にたまたま村民の三回忌があり、昼間から振る舞われたチャン
(大麦を発酵させてつくる醸造酒)を一杯いただいたが(右写真参照。要はどぶろくで手前のポリバケツに入っているのがそう)、パーティー前日のことだったので、私の“お酒史”において(闘病期を除く)おそらく最長の禁酒期間となった。

 3つ目が、「ジョギングは止しておいたほうがいい」令!?
 これは上2つほど厳しくはなく、あくまでスカルマさんからの忠告だったので、S氏はさっそく滞在二日目の朝
(つまり「戒厳令」解除すぐ)からジョグしていた。同じく高地だった昨年のブータン滞在時は引率者ということで控えたものの(ブログ参照「GNH:幸福度と真剣度」、S氏に刺激され、自分も村で2度ほど朝にジョギングを試みてみた。今回のブログでは、そのコースをなぞってみて、皆さんにも疑似体験してもらおうと思う。

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 まずはホームステイ先の玄関前。大麦畑の間を清流が流れる堰が一筋。ここで青空を仰ぎながら準備体操。

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 昨晩の交流会で舞踊を披露してくれた村のおばちゃんたちは、朝一番で広場の後片付けをしていた。申し訳なく思いながらも「ジュレー!」と挨拶を交わす。
 この時点では、体を起こすためと馴らすためにまだ優雅にウォーキング。

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 収穫間近で黄金色になった大麦畑の横をまだまだウォーキング。

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 清流が奇麗すぎて見とれる。もちろんまだウォーキング。

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 最初に村の人たちとご対面したところに出る。さすがにそろそろ走ろうという気になり、恐る恐る駆け出す。

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 村の小学校脇の道路。大通りに出るまでは幸いなことに下り坂。だから、意外に行けそうな気になっている。

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 走っているとこうしたストゥーパ(仏塔)にも出くわす。チベット仏教がちゃんと日常の中にある。

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 坂を下りきり、大通りに出ると、濁流のインダス川とぶつかる。

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 山肌が朝日に照らされ始める。この度合いで時間の経過を感じるのがなんともいい。
 ただ、それとは対照的に道路工事のためのダンプが我が物顔で走り抜けていく。ここは地政学上の要衝であり、中国やパキスタンはインドがこの道路を拡張していくことを快く思っていない。
 また、レーから続くこの道は、村の人たちの生活も変えようとしている。それが“良く”変わることなのか、“悪く“変わることなのか、「通過者」である私たちは無責任に予測はできない。

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 スカルマさんが"Local Bridge"と呼ぶところで区切りがいいので折り返し
(ただし、ここはまだ走り始めて1kmほど…)。さすがにこの橋を渡ってみようという気にはならない。

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 振り返って来た道を見るとこんな感じ。ラダックらしい壮観な景色。

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 岩をも貫く落書き? ハートマークを描き、愛を誓うのは万国共通。あらかた成就しないのも万国共通か?(笑)

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 山肌がだいぶ照らされてきている。そんなに距離走ってないのになぜだ? ちなみに時計を見るとキロ6分超のペース。これはサロマ湖100kmウルトラマラソンに出た時の終盤のペースに近い…。

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 皆さんには平坦に見えるかもしれませんが、少々の上りが結構きつい。息もきつい。

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 リクツェ村0km地点(起点)の標識。
 白状しよう。ここに来るまでに苦しくて一度歩いてしまった。

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 もうひとつの橋が見えたので、これまたいい区切りと早くも折り返す。まだ2kmにもなっていない。

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 この橋の脇にもイタズラ描き。見えづらいが、"Always alert AIDS is killer"と。
 意外だったがラダックでもエイズは社会問題になりはじめているよう。リクツェ村の保健センターで聞くと、ここではまだまだのようだけども。

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 畑仕事をしている人たちの牧歌的な風景が苦しさを和らげてくれる。

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 本道から外れて砂利道へ。ホームステイ先へのショートカット。
 このルートは、この前の日に遭った少女から(間接的に)教わった。

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 途中からは砂利道からも外れて、
最短距離で「オアシス」を目指し、崖を昇ることになる。

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 ここが「オアシス」。近くの人が洗濯物などをしに来るところ。ホームステイ先では隣りに家を新築していたが、そこへ出稼ぎに来ていたネパール人も前日ここで歯磨きをしていた。
 この水はうちらも飲めるものでヒマラヤの雪融け水。ひんやりしていて美味い! 「南アルプスの天然水」なんぞ足元にも及ばない正真正銘の「ヒマラヤの天然水」。当然ここでのどを潤し、頭から水をかぶる。
 ただし、走ったのは2〜3kmほどで、時間にして20分弱。これでもういっぱいいっぱい。

 前の日の朝、ここで洗濯をしていたらノートを片手に持つ少女がさっきの崖を駆け上がってくる。「学校に行くの?」と訊いたら、健気に「うん」と頷いてくれた。彼女は毎朝ここを「通学路」として歩いてくるのだろう。
 ほんの一瞬の会話だったがあまりに実直で好印象だったので、思わずカメラを向けた。学校に通う自然な後ろ姿を撮りたかったが、気配を感じたのか、こちらをキリッと向き直し、なおかつ「気をつけ!」をしてレンズのほうに微笑み返した。本当に実直である。

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 ヒマラヤの雪融け水でサッパリした後、家に戻る。部屋に入るまで誰ともすれ違わなかったはずなのに、戻った瞬間、家人が現れ、温かいチャイを魔法瓶で持ってきてくれる。この“温かさ”がすべてに安堵をもたらせてくれる。
 お皿のビスケットは来た時から置きっ放しだが、湿度が低いので、何日経っても一向に湿気らない。

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 次回は、あの少女の通う学校(政府管轄)と他に見学した形態の違う学校2校(私立/NPO立?)について報告したい。

2013年8月17日 (土)

東北勢躍進におもう

 ラダック訪問記は小休止。

 以前、ブログで演歌が好きだ、というようなことを書いたと思う。理由は、歌詞が単純だから。そして、その分かりやすさの魅力、と書いたのではないかと思う。その単純さ、分かりやすさが多くの人の記憶にオーバーラップし、共感を呼ぶのだろう。
 勝手な解釈だが、田舎の人が演歌好きなのは、彼らの思考と演歌のそれが似ているからなのではないか。これはなにもバカにしているわけではなく、そこが私はとても好きなのである
(そもそも私も田舎者だが)

 昨日まで、祖母の三回忌、祖父の五十回忌を兼ね、帰省していた。お盆ということもあり、お寺で法要をし、その後は市内の温泉に移動し、親戚一同で一泊した。
 
 サウナに入ると、恰幅のいいオジサンがすでに2人入って、世間話をしている。田舎の人の“恰幅がいい”というのは、単なるデブなのではなく、田んぼ仕事のせいなのか、力士のように引き締まった恰幅のよさで、これもまた私の好きなところである。

 「花巻東の相手は済美だろ。安樂の球、打でねぇべ」
 「んだな。まず勝でねぇべな」
 「仙台育英も結局なんにもでぎねがったな」
 「だったら、初戦は浦和学院が勝ち上がった方がいがったべ」
 「小島君の投球、もっと見だがったもんなぁ」

 田舎
(この場合、「東北の人」という意味)の人は得てしてネガティブ思考だ。で、ちょっと安易であきらめが早い。というか、あまり自分を前面に出して、褒めるということをしない。それが田舎の人の美徳なのである。
 極端な仮説だが、その美徳が東北の高校を長い間、西日本の強豪校に太刀打ちできない負け癖をつけてきたのではないかと思う。少なくとも私が高校野球をやってきた頃、岩手県代表は一回戦を勝ちあがればいいほうで、僕らの目標は“甲子園にでること”にすぎなかった。池田高校のやまびこ打線もPL学園のKKコンビもテレビの中の雲の上の話だった。

 しかし、今の東北代表は堂々と互角に渡り合える。今夏は、秋田代表以外の5校が初戦を突破し、その健闘が話題にもなった。
 それは元高校球児としては嬉しいことなのだが、お盆の帰省中だから余計にか、全国が一色になるようで寂しくもある。均一化していくという弊害を持つ“グローバリゼーション”が、日本の中でも起こっているような気がするからなのだろうか。まことに勝手な思いである。

 現在、花巻東対済美をテレビ観戦中。おおかたの予想を覆して、5回終了、3対0で善戦し、勝っている。
 大会9日目終了で、関西勢、九州勢で残っているのはそれぞれ一校ずつ。高校野球の勢力図は均一化するどころか、塗り替えられつつある。
 24年前、私たち水沢高校野球部の夏を終わらせたのが花巻東高校。隔世の思いを感じながら、岩手県代表花巻東高校の今後を見守りたい。
 

2013年8月15日 (木)

ラダック訪問記③〜トイレ等の生活事情

 研修前のスカルマさんとの打ち合わせは傑作だった。

 村でのホームステイ中、お風呂はどうするのか聞いたところ、「ラダックの人はお風呂に入らないですねぇ」といつも通りの表情でフツーに回答された。ホームステイは3泊の予定なので、都合、4日間もお風呂に入らないという“驚愕の事実”を参加者に
(特に女性参加者へは)どう伝えるか思案し、少々気が引けた。

 事実、私がホームステイしたところの人たちは、4日間、おおよそ同じ服装だった。さすがに若い娘さんたちは、微妙に違う格好をしていたが、とうとうお父さんImg_6266の違う服装を滞在中に見ることは全くなかった。
(※右写真は、我がホームステイ先の家庭状況をみんなで聞き取り調査しているところ。左手前が、我が家のお父さん。ただし、一妻多夫制における“二番目のお父さん”)

 結局、私たち自身も途中から「今夜はもうこのままで寝るわ」とか、「パンツは昨日のまま」とか、億劫になり、というか“朱に交われば赤くなる”生活を自ずとしていた。実際、とても乾燥していてほとんど汗をかかないので、思ったより嫌な気がしなかったのだ。

 また、村では当然水洗トイレではなく、いわゆる「ボットン式」
(と書くと、18世紀ぐらいにどこかの西欧人が発明した特別な方法に感じる)なので、「日本人はトイレットペーパーを持参した方がいいですよね?」と聞けば、「そうですね」とすんなり。

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※上写真の左はレーで泊まったゲストハウスの(リサイクル)トイレ、右はホームステーした家のトイレ外観

 ただ、気になるので「ちなみに、現地の人はどうしているんですか?」とさらに聞くと、「トイレットペーパーは使わないですね」とのこと。

 それは想像できたのだが、一応ラダックもインドなので、さらにさらに「右手を使ってお尻を水で洗うんですよね?」と聞くと、「え、何も使いませんよ」と予想外の回答。
 「じゃ、ウ○チがついちゃうじゃないですか?」と聞けば、「あれ、どうだったけな…」というような顔から「あ、そうだ!」という確信の顔に変わり、「いや、つかないですね」と断言!
 「いやいや、そんなわけないじゃないですか。さすがのラダック人だって下痢することありますよね?」と聞けば、やっぱり「あれ、どうだったけな…」という顔をしてから、「いや、みんなブリッとウンチは切れてつかないです。すごく乾燥していますから」とのこと。

 「スカルマさん、ラダックの人たち全員のウンチしてるとこ、チェックしたわけないですよね!」とツッコミを入れたかったが、同席した旅行会社の社長さんは「それじゃ、犬のようですね。ガハハ」と笑い飛ばしているので、自分もそうすることにした。

 ちなみに、滞在中の我がウ○チだが、ブリッと切れることはなく、毎回、チリ紙を必要とした。スカルマ説は、少なくとも日本人においては実証されなかったのである。

 それから、私の他にも参加者にジョギング好きなS氏がいたので、「ジョギングはできますかね?」と高地であることを心配して聞いてみると、「ラダックの人はジョギングしませんねぇ」と。
 「ここでジョギングしたら、普通に高地トレーニングになってしまうよな。たしかにハード」とその回答にはこちらは大人しく納得した。

 たしかに、滞在中、ジョギングする人を私とS氏以外で見かけることはなかった。一度、レーの街中で駆けている中学生ぐらいの子を見たが、そうなのか、ただ単に急いでいるだけなのか、はっきりと判別することはできなかった。

 こうなると、「ジョギング」という概念すらないのではないかと思ったが、S氏が朝ジョギング中に村長と出くわし、向こうが走る格好をして「ジョギングか?」と聞いたらしいので、それは否定された。それでも単純に「朝から何をそんなに急いでいる?」と聞きたかっただけなのかもしれないと思うほど、ラダックの人が走る姿は想像できない。きっとユキヒョウにでも遭遇しない限り、時速20km以上で身体を移動する経験などしないのだろう。

 とはいえ、私が滞在中にジョグしたのは村で2回。正直、すぐに息が切れ、何度か歩いた。日本に戻ればよっぽどこの2回の“高地トレーニング”が効いていることだろうと思ったが、いまだ試せていない。標高3500mで走ることもリスキーだが、35℃以上のところを走るのもやっぱりリスキーで、まるで走る気が起きないのだった…。

 次回は、ジョギング体験記をアップしたいと思う。
(下写真は村の入口で、インダス川に向かう私のジョギングコース)

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※現在、トイレをテーマにした教材を作ろうとも目論んでいる。なので、世界各国のトイレの写真を集めています。いつか世界のトイレランキングでもしようかと。ラダックで最も美しいと言われている僧院ティクセ・ゴンパの入口にある観光客用のトイレからの眺めは最高。“しながら”観光が楽しめる!?

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2012年7月19日 (木)

蛮カラな夏

 少し前に送られてきた実家からの宅急便。野菜が包まれていた地方紙の写真に目が留まった。Img_3445 しわくちゃにはなっていたものの、手のひらで伸ばし、まったく変わっていない母校の蛮カラ応援団を懐かしく眺めた。すでに高校を卒業してから20年以上経つが、こうも形を変えずにいることが不思議ですらある。“伝統”とは、この上なく健気であり、律儀なものだ。

 野球部だった私は、彼らの応援が嫌いであり、好きでもあった。相手校は華やかなブラスバンドで、ヒットを放つと金管楽器の突き抜けるような音が球場に鳴り響く。かたや、我が校は、男子の野太い声で「いいぞ、いいぞ、石川(いっしかわ〜)!」とやる。せっかくヒットを打ったのに、塁上に立った時の高揚感が半減されるようで、恨めしく相手側スタンドを見つめたものだった。
 ただ、7回になるときまってやる応援があり、それをなんと呼んでいたかはもう覚えていないが、日ハムの稲葉ジャンプのように、球場が一体となってうねるような空気感が生まれる応援があった。それには妙な力があって、選手にその波動が伝わるかのような魔力があり、実際、得点に結びつくことが多かったように思う。

 選手権大会出場へ向けて、
全国津々浦々で予選が繰り広げられるこの季節。甲子園で野球をすることを許されなかった元高校球児たちの心中は、何年経ったとしても、またモヤモヤとし始め、あの時の何とも言えない緊張感が蘇ってくる。そうした複雑な思いは決して晴れることはなく、これはもう死ぬまで抱える“トラウマ”なのである。

 故郷を離れはしたものの、この時季に限り、全国版の新聞に母校の名を見ることができる。たった2文字「水沢」と小さくあるだけだが、一喜一憂し、勝敗を確かめるのを楽しみにしている。
 そして、例年いいところまで行く我が母校は、今年も“いいところ”までしか辿り着けなかった。同じ高校でやはり野球部だった弟からは「夏の高校野球、水高はまだ残っています。順調に行けば、準決勝で花巻東と激突」とメールが届いていただけに、その実現を期待していた。センバツでも優勝候補に挙げられ、“東北のダルビッシュ”とプロも注目する花巻東・大谷投手との対戦を目前としていたが、それすら叶わず、昨日敗退した。

 彼らもまたトラウマを抱えながら、後輩たちの悲願達成を見守ることになる。しかしそれは、線香花火のような、彼らにとってかけがえのない夏の風物詩となっていく。

2012年7月 4日 (水)

ちょっと前のこと

 もう一年の半分が終わり。日々、あれこれブログに書きたいことが浮かぶにも関わらず、無情に時間は過ぎていく。こうして「あぁ、あれもできなかった、これもできなかった…」と後悔ばかりが募るうちに人生は終わってしまうのだろうか?
 そんな風に思ってしまうと徒に悲しくなってくるので、ただただ淡々と書き連ねていくのが賢明か。それはまさに“徒然なるままに”ということなのだろう。あまり深く考えずにブログのタイトルにしてあるが、それが究極の心の持ちようだと思えてきた。

 6月17日
 学生たちと皇居を1周(5km)する駅伝大会に出場。まったく宣伝していないにも関わらず、我がTRC(拓殖大学ランニング倶楽部)に4名の新入生が入ってくれ、その歓迎も兼ねた今年度初の大会。
 もう定年退職されてしまったが元拓殖大学職員の三浦さん
(前列真中)も参加。彼はこのTRC立ち上げをけしかけた張本人であり、名誉会長(と勝手に私は命名)でもある。

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 4人でタスキをつなぎ、2チームを構成。スタート地点の桜田門付近で、出場した8人でパチリ。

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 練習不足で記録は全然だったが、全力を出し切ったので自分に納得。そして、今回も「骨髄バンクにご協力下さい!」のタスキをかけて走ったのだから、それだけでOK。


 6月23日
 地元飯能のエコツアーに参加。「観光と開発」という講義を履修している学生たちに机上のお勉強だけではどうかと、今年から“課外授業”としてエコツーリズム体験希望者を募ってみた。6名(うち3名は留学生)が興味をもってくれ、加えてうちのゼミ生も月一会
(石川ゼミとして月に一度はなんかオモシロイことをしようというもの)企画として3名が参加してくれた。

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 まずは飯能中央公民館に集合。ガイドを担当してくれる「活動市民の会」の濱田さん、高沖さんからオリエンテーション。

 お二人は退職されたのち、このガイドボランティアに関わっているのだそうだ。それまでは仕事ばかりで、あまり地元飯能のことを知らなかったというのだから、不思議なもの。こうしてエコツアーガイドとして関わることが足下を見直すきっかけになったとも。

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 神社の脇にある大木。「木は呼吸していて、氣が流れているので触って感じてみて」と言われ、試してみる留学生の3人。半信半疑?(笑)

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 阿吽の呼吸についてや神社へのお参りの仕方など、日本人でも意外と分かっていないことを改めて知る。門をまたぐのは左足からだって、皆さん、知ってました?

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油断していると時折放たれるオヤジギャグ。学生たちに好評なのか、不評なのか(笑)、苦笑されながらも繰り出されるダジャレに雰囲気は自然と和んでいく。

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 森の中を心地よく散策し、ほどなく天覧山山頂に到着、小休止。みんなで飯能市街を一望。

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 程よい疲労感もあり、絶妙のタイミングで大野さん飯能市エコツーリズム推進室)より地元銘菓「四里餅(しりもち)」が振る舞われる。
 ひとつ食べれば四里(約16km)はもつという通説があり、まるで「一粒300メートル」のグリコのキャラメルのよう。飯能に越してから、そう由来を聞いていたのだが、「名栗川(入間川上流域)の四里の急流を下る際、いかだ師達は餅を食べ、尻餅をつかずに難所を乗り切ったという逸話が残っており、これらの話が由来
(Wikipediaより)でもあるらしい。
 ちなみに、餅には「四里餅」との焼き印が押されているが、その字の向きによってこし餡か粒餡か区別ができるようになっている。


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 ま、そんな蘊蓄はさておき、“花より団子”

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 山を下って反対側に行くと、湿地がある。ラムサール条約を出すまでもなく、湿地帯にある生態系の重要性を目にした。
 蛙と聞けば、普通にいるものと思いがちだが、今や絶滅危惧種に指定されるものもいる。ここではモリアオガエルやヤマアカガエ
などが見られるらしい。他にもわずか7gしかないカヤネズミという小動物もいるとのこと。来る途中にも希少になったギフチョウやカントウカンアオイという植物の話も聞くが、私たちはその多くを「チョウ」とか「草」と一般名詞でしか呼べない。それも絶滅危惧種に追いやるひとつの理由であるように思えた。

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 天覧山山頂で撮った集合写真。
 
 ツアー終了後、地元の蕎麦屋に入って、みんなから感想を聞く。一様に「楽しいツアーだった」「また参加してみたい」と言ってはくれたが、「若者にはウケないかも…」と正直な意見も。
 授業でエコツーリズムの話をした時には、「経済的にはどうなの?」といぶかしがる意見が結構あった。“観光業”という以上、たしかにそれは無視できない。が、お金では計れない価値がここには回っている。観光とは、どうしても参加する側の視点でものを言いがちになるが、受け入れ側や企画する側の視点も併せた総体で評価すべきだと思う。そう考えれば、定年後にイキイキとガイドボランティアをする濱田さんと高沖さんの場があるということ自体に意義ある価値を見出せる。そうした価値だって無視できない。

 昨今、経済的価値だけで豊かさを見るGDPという指標の限界が囁かれている。フランスが幸福度を計ろうとする新しい指数を提唱しているのはその証しだ。
お金だけで物事を見ないという風潮が出てきたのは頼もしい。ただ一方で、先月のリオ+20で採択されるはずだった成果文書(宣言文)からは、日本やブータンが提案した幸福度指標は削られた。
 今はそれら価値観がせめぎ合い、どちらの方向に向かうのか、対話が必要とされるエポックメーキングにある。

 いずれにせよ、こうして学生たちと時間をともにするのは幸福なことだ。そんな風に考えた、学生たちとの「ちょっと前のこと」でした。

【余談】
 エコツアー開催の日は、娘の留守を妻に頼まれていたので、子連れで参加。だから、実はあまりガイドの説明を聞けていない。最初は見慣れぬ学生たちに緊張し、大人しくしていたが、時間が経つにつれ、飽きと母親がいないストレスからかワンワン泣き始め、すっかり体力を消耗したよう。
 ちょっと申し訳ないことしちゃったかなぁ…。

 ※写真は天覧山山頂にて
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2012年5月18日 (金)

拝啓 ライバル・猫ひろし様

 私が東京マラソンに初出場できたのは2008年の第2回大会のことである(ちなみに、以後、2010年、2011年と3度出場させてもらい、一応、すべて完走している。写真は、完走するともらえる各大会のメダル)Img_3179 これ自体がフルマラソン挑戦2度目のことだったが、記録としては市民ランナーがとりあえず目指すサブフォー(4時間切り)は達成できたので、自分としてはよくやったほうだと思う。ただ、30km以降はボロボロで、何度か歩いてしまっていた。

 “走っているつもり”のほぼウォーキングでかろうじて前へ、前へゴールに向かっていた37km地点。後ろからみるみる声援の波が押し寄せてきた。おそらく著名であろう人が近づいてきているだろう気配。一ランナーとしては抜かれることの悔しくはもちろんあるが、ミーハーである私としては順位がひとつ下がることよりも誰が近づいてきているかのほうが気になって仕方ない。

 「この声援の大きさは、その有名人の人気に比例するにちがいない」

 そう思い込み、むしろ追い越されるその瞬間を待ち望んだのだった。それが、今やオリンピック選手候補にまでなった猫ひろし氏だった。完全にバテている私は、颯爽と彼に追い抜かれ、余裕で抜かれてしまった上に“そこそこ”の有名人だったことに二重のショックを受け、その後はやっとこさゴールにたどり着くような有様だった。
 猫氏は3時間48分57秒で、私が3時間53分49秒
(ネットタイムだと私は3時間49分10秒。ちなみに、有名人に追い越されたのは彼だけで、私の少し後に鈴木宗男氏がゴールしている)。わずか5分ほどの差だったライバルは、年々記録をぐんぐん伸ばし、あとは皆さんご承知の通りである。
 彼とはほぼ同レベルだと思っていたが、沿道の声援にその都度「にゃ〜」と何百回とやりながら42.195kmを走りきった潜在力を当時は計り知ることはできなかった。

 確定したかと思われていたロンドンオリンピックへの出場が絶たれ、記者会見を開いたのが今日12日。そこで猫氏は現役続行を誓った。私は素直に彼を応援したいと思う。
 「標準記録に達する選手がいない場合は(おそらく今後の競技の普及発展を見込んで)男女1人ずつ選手を派遣できる」という“裏技”を使い、カンボジア国籍を取得してロンドンオリンピックを目指すと表明して以来、賛否両論
(おそらく彼に届く声は「否」のほうが多かったと思うが)が沸き立つ中、こうした顛末に両者の溜飲が下がったにちがいない。4年後のリオデジャネイロオリンピックへの出場に意欲を見せているようだが、今回仕切り直しをし、ルールに則った形で五輪出場資格を得て、チャレンジすればいいのである。正直、年齢的な問題と芸能活動との二足の草鞋では、五輪出場という夢の実現はかなり厳しいと思う。それでも彼が折れずに前を向いたことにエールを送りたい。

 そもそもスポーツ界において「国籍」はほとんど意味を成していないと言っていい。五輪に出ることは“国を背負って”との形容詞をつけられることがあるが、そんなことを思って競技をしているアスリートは皆無だろう。彼らは、自分自身に挑戦し、その限界に近づくことに、あるいはそこに到達すればさらに先へ限界を設け、再挑戦していくことに喜びを覚えているのである。「国」という枠は、五輪というエンターテイメントを盛り上げる“仕掛け”にすぎない。高校野球で、県外の有望選手をかき集めた強豪校でも「同郷」として応援したくなる心理と一緒で、心理学では「類似性の要因」と呼ぶのだそうだ。A国、B国と枠で括り、対抗意識を煽り立て、「メダルをいくつ取った」とランキングさせれば、ひとつの応援のフォーマットができ上がる。手っ取り早いオリンピックの楽しみ方は、単にそこに乗っかればいいのである。

 一方で、アスリートたちは限界に挑む(=最高の舞台で自分を試す)ことができるのであれば、そうした枠組みは形式的に利用する。それは日の丸だろうが星条旗であろうが背負うものは関係ない。アフリカの中長距離の選手がこぞって中東の国に国籍を変え、その国代表としてオリンピックに出ているのがいい例だ。それらは「限界に挑む」というアスリートの本質的なところではなく、お金目当てや功名心にはやってだと言う輩もいるだろうが、いずれにせよ、国というこだわりをまるで度外視して活躍の場を求めた点では一緒である。

 そもそも五輪憲章には、「オリンピック競技大会には、個人種目または団体種目での選手間の競争であり、国家間の競争ではない」と明記されている。国別に代表団を送らせたり、開会式で行進させたりしているのは、あくまで運営上の便宜だと考えたほうがいい。

 今回、猫氏の国籍変更が物議を呼ぶことになったが、これまでもサッカー・ワールドカップ予選で日本の本戦出場が危ぶまれた時、直前で国籍変更した呂比須ワグナーが活躍し、その危機を救ったり、中国からの卓球選手が帰化して日本選手権で優勝するなど、その例は挙げれば枚挙にいとまがない。
 逆に、日本人選手が外国籍をとる例もある。ロシア選手とペアを組んでバンクーバー五輪のフィギュアスケート・ペアでメダルを取るため、川口悠子がロシア国籍を取得した例は記憶に新しい。
 そうした日本にとって“いいニュース”となる変更は波風が立つことはないが、シンクロナイズドスイミングで日本代表コーチだった井村雅代が、北京五輪に向けて強化を図る中国で代表監督に就任した際には、「売国奴」などと痛烈な非難が浴びせられる。
(この場合は、選手ではないので、国籍変更したわけではないが)

 ただ、今回の猫氏の場合の物議は、そういった類いとは違うところで起きている。
(カンボジアオリンピック委員会を買収した疑いがあると一部週刊誌が報じているが、その真意は私には確かめる術がない)
 これまでの例は、選手がレベルを一段階下げて出場の機会を目論んだり、強化策の一環として普及推進がねらいであったりした「スポーツ先進国(または強豪国)」と「スポーツ中進国(または強化推進国)」間のやり取りであったのだが、猫氏の場合、「スポーツ途上国」とのやり取りだったため、あからさま加減がいい印象を与えなかったのだろう。

 そうなると、猫氏の今回の言動をカンボジア国民がどう見たのかというところの問題になる。ここに限っては、アスリート個人としての「限界に挑む」という本質だけで片付けられることではなくなってくる。Img_2
 もし、再度、“カンボジア人”としてオリンピックを目指すのであれば、マラソンの魅力をどれだけカンボジアの人たちと共有できるようになっているかが、猫氏へ課されてくる。その猶予は、長いのか、短いのか、4年という歳月だ。彼は、アスリートとしてよりいっそう磨きをかけるとともに、“大使”としての大きな任務も背負うことになる。

 その覚悟が、あの会見でできていたものだと昔のライバルとして思いたい。


2012年2月29日 (水)

川内優輝の五厘刈り

 東京マラソンの翌日、川内優輝は坊主頭で現れた。

 
床屋の息子である自分には分かる。ましてや高校球児で18歳まで坊主頭にしていたのであるあれは間違いなく五厘刈りだ。球児にとって一般的なのは五分刈りだが、一休さんばりにあそこまで青くなるのは、五厘の長さにしないとなりはしない。
 日頃、五分刈りの球児が五厘刈りにするというのは、よっぽどの時である。ああ見えてもお年頃であるのだから、少しでも長くしていたいと思っている。それでも五厘刈りにするというのは、試合に大敗した時か、なにか悪さをしでかした時である。つまり、五厘刈りに“する”のではなく、“される”のである。内心、悔い改めようとしていなかったとしても、表面上、それで“懺悔”とされていたのである。

 朝のラジオを聴いていて、川内優輝のそのニュースを伝えたナビゲーターは「いやぁ、これがケジメというものなんでしょうかね。なんかすごく日本人的ですね」とコメントしていた。それを聴いた妻はさらに「なんでこういう時、日本人って坊主にするんだろうね…」とやや納得しない口調で言い添えた。彼女にしてみれば、その日本的な“慣習”に従っているのが、あまり解せないらしい。

 ただし、川内優輝に共感する人は多い。きっと東京マラソンを見ていた人たちのほとんどは彼に声援をおくっていたにちがいない。
 そこまで脚光を浴びるのは、単に「公務員ランナー」というだけだからではない。あの古めかしい実直さや歯を食いしばって意地と根性で走り抜く姿、あるいは企業スポンサーではなく、家族や友人に支えられてレースに臨んでいることに多くが同情している。だからこそ、共感も得る。
 そこには復古主義とも言える“古き良き時代”への郷愁が見え隠れする。それは『冬のソナタ』とまったく一緒の現象であり、川内優輝は私たちにとっての“三丁目の夕日”なのである。

 私もそうした面に共感しないわけではないが、評価すべきは彼の実直さではなく、むしろ破天荒ぶりのほうである。1シーズンに何度もレースを重ねながら調整していくのはこれまでのマラソン界の常識を逸脱している。ほぼ内定しかけた五輪切符を放棄してまで、自分の内での「五輪基準」を突破しようと異例の再レースに臨んだことも無謀に見える。
 が、そうした自分を裏切らない攻めの姿勢こそ、停滞している今に求められることなんだと評価していいと思う。

 レース後の会見で「しっかり結果を出した人が(ロンドンオリンピックへ)行くべきだ。びわ湖でも6、7分台が出ると信じている。そういう選手が日本代表になれば、僕が存在した意味もあるのかな、と思う」と川内選手は話したそうだ。
 今度の日曜に行われるびわ湖毎日マラソンの結果次第では、代表に滑り込む可能性は僅かながらまだ残されている。それでも川内選手の中で、それはすでに0%になっている。彼の五厘刈りがレース惨敗に対する懺悔ではなく、次を見据えての心機一転というのであれば、あの坊主頭はありだと私は思う。

2012年2月20日 (月)

昔の名前で出ています

 このタイトルを見て、思わず「京都にいるときゃ〜、しのぶとよばれたのぉ〜♪」と口ずさんだ人は、演歌好きか、それなりの年代の人かだろう。“それなりの年代”でなくとも聞いたことがあるというのは、片岡鶴太郎(のモノマネ)の影響にちがいない(あ、それももう“それなりの年代”でないとピンとこないかな?)。私は妹が「しのぶ」だったので、何度となく口ずさんでいたり、口ずさまれていたりした。

 昨日は学生たちと青梅マラソンに出てきた。仕事が立て込み、まるで練習できていなかったのだが(といつも何かのせいにしている…)、とにかく歩かず完走することを目標にすればなんとかなりそうだと気を楽にした。青梅マラソンは、市民マラソンの草分けで
(「円谷選手と走ろう」をキャッチフレーズに1967年に始まった。当時は、一般市民が参加できるマラソン大会はなかった)、その歴史ゆえんか、とにかく沿道からの応援が温かい。それに元気づけられるから、声援におされて完走は何とかなる気がするのである。

 自分が楽しみなのは、序盤、青梅駅前を通過する時。町の小さなレコード屋さんが松村和子の『帰ってこいよ』のサビを何度もリフレインして大音響で流してくれている。あれを聴くと、青梅路の起伏をなんとか克服し、這いつくばってでも戻ってこられそうな思いになる。
 スタート前、学生たちにその話をしたのだが、サビを歌ってもキョトンとし、そもそも演歌『帰ってこいよ』自体を知らない。だとすれば、彼らは青梅駅前を通過する時、あれがあまり響いてこないのだろうか? きっと40代以降とそれ以前では序盤でのパワーのもらい方に差が出るのだろう、ありがたいことに。
(学生たちにとっては、悲しいことに)
 ちなみに東京マラソンだと、銀座に入る直前で西城秀樹の『YMACA』
をはちきれんばかりに踊っているグループに遭遇する。そろそろ疲れ始める頃なのに、多くのランナーがその場でお約束の"Y,M,C,A"と手を高く掲げてやるのである。もちろん立ち止まるわけにはいかないので、バランスが崩れそうになりながらでもやってしまっているのだ。あの一体感もなんともエネルギー増幅につながる。

 青梅マラソンは、例年、誰がスターターになるかも見物(みもの)である。これまで、長嶋茂雄、Qちゃん、瀬古利彦、杉山愛、朝原宣治などスポーツ界の錚々たる面々が務めている。
(意外なところで、石原都知事がやったことがあった。これは自身が主導して開催にこぎ着けた東京マラソンを青梅マラソンが例年行われている日程、2月第3日曜にぶつけてきたことが背景にあるようだ。市民ランナー、特に青梅マラソンをこよなく愛するランナーや沿道の住民たちからの相当のブーイングがあったので、その罪滅ぼしだったと私は踏んでいる)
 今年はそれを女子レスリングの吉田沙保里が務めた。
(下の写真は、参加者全員に当日配られるスポーツ新聞特別号と私のゼッケン)
Img_2762_2  実は、私の妻も「ヨシダサオリ」という。昔の名前ではなく、れっきとした今の名前である。
 最初、“私の妻もヨシダサオリです”と大きく書いた紙をスタート地点で掲げてアピールしようと思ったが、それをその後30kmも持って走るわけにもいかない。そこで、できるだけ吉田沙保里の近くにコース取りをし、「私の妻もヨシダサオリって言いま〜す!」って大きく叫んでみた。周りからは失笑を買ったような笑い
(あるいは「そんなウソつかなくても」的なものだったか?)が少し起こったが当の本人は分かったような分からなかったような…。要は、相手にされなかったということである。

 走っていてもうひとつ楽しみがあるそれぞれのランナーが“メディア”になっていてアレコレ思わせてくれる。30kmであれば(私の場合)3時間弱もただただ自分の空想力で時間つぶしをしなければならないのだが、それぞれのランナーを見ていて、勝手なストーリーをでっち上げ、それで結構、飽きがこない。コスプレで走る人もいれば、メッセージをTシャツにプリントしている人もいる。
 走り終わった私の記憶にいまだいくつか残っている。
(ちなみに括弧内はその時の私の心中)

 「居酒屋まで体力温存」 (BEER! BEER! BEER!)
 「I AM NOT A VIRGIN」 (なんて粋なおばさんだこと)
 「がんばりましょう、フォー!」 (え、今どきそれですか?)
 「チョーップ」 (???)

 理解不能なものもあるが(笑)、それはそれでその人の人生が凝縮されている。黙々と走っているように見えて、ドラマは全面展開している。

 さて、自分も例外なく、こんかいも「骨髄バンクにご協力ください」のタスキをかけて走りきった。道中、「登録してますよ」と何人かの人から声をかけてもらった。きっと、直接声をかけられなくとも(息苦しいから、せめて)私の背中に向かって、「私も入ってます」と思いを向けてくれた人もいただろう。“メディア”としての私はどれだけ自分の人生を思ってもらうことができただろうか。練習不足でも完走できたのは、ラッキーだったのではなく、“後押し”があったからだと感じている。
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【参照】
石川的徒然草(2011年12月19日掲載)「骨髄バンクにご協力ください!」
http://daikichi-sun.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-6d85.html

2011年12月19日 (月)

骨髄バンクにご協力ください!

 来年は東京マラソンに出られない。出られると思ったのに出られない。もちろんその理由は抽選に漏れたからなのだが、漏れるはずないと思っていた。
 いつもならフルマラソンにエントリーするのだが、今年は10kmの部にエントリーした。フルマラソンにはないが、10kmには「移植者の部」があり、そんな特別なカテゴリーにはあまりエントリーがないだろうから、当選確実だと信じてやまなかったのである。信じてやまなかったのに落選したもんだから、そのショックたるや、目玉焼きの焼き加減をしくじり、目玉のトロリ感をなくしてしまった時ほどである。
(目玉焼きの黄身の硬さ加減にはこだわり以上に執念がある)

 目標を失うと人間のモチベーションはいとも簡単に崩壊する。ここ最近は週に何回というレベルでなく、月に数回しかジョギングをしていないという有様だ。なので、ほぼぶっつけ本番で、昨日はTRC
(拓殖大学楽ラン倶楽部)の学生たちと高尾山天狗トレイルラン大会に出場した。風邪気味だったが、彼らとの約束だから出るしかない。
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 幸い、死なずにゴールできた。年代別で14位だったから、練習しない割にはまずまずだ。
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 以前、東京マラソンに出場するにあたって、骨髄移植がうまくいった恩返しに、なにかPRができないかと考え、骨髄移植推進財団に掛け合い、「骨髄バンクにご協力ください!」と書かれたタスキをお借りすることができた。それをかけて完走し、沿道からは何度も「がんばれ、骨髄移植!」
(文法的にはおかしいが、走り抜けるランナーにはその程度の文字数しか時間的にかけられないのだろう)と声をかけてもらった。
 それを今年の東京マラソンに出場する際にも思い出し、再度、タスキをお借りした。それ以来、出場するマラソン大会、駅伝では必ずそのタスキをかけるようにしている。 どれだけ役に立っているか分からないのだが。

 ところが、今日、初めてランナーに声をかけてもらった。

 「そのタスキ、いつもかけてるんですか?」 
 「あ、はい」
 「ああ、やっぱり。前にも見たことありますよ。で、ドナーになったんですか?」
 「いえ、自分、白血病みたいな病気に罹って、骨髄移植を受けてるんですよ」
 「え、そうなんですか。何年前に移植されたんです?」
 「もう10年以上も前になりますね」
 「元気になりましたね。がんばって下さい!」

 そう言ってそのランナーは駆け抜けていった(つまり、あっさり抜かれた…)。

 実は、同じ日、骨髄バンク20周年記念大会が開催されていた。自分もそのお知らせは受けていたのだが、トレイルランにすでにエントリーしていたので参加は見合わせた。
 私が移植を受けた当時は、ドナー登録者が30万人に達すれば、希望する患者の8割に移植が可能と言われていた。今は40万人もの登録があるのだが、実際に移植に至っているのは6割に過ぎない。

 タスキはまだまだ掛け続けようと思っている。