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文化・芸術

2014年2月23日 (日)

浅田真央狂想曲

 ソチ五輪が終わろうとしている。
 終盤に来て、メダル獲得数が話題に挙がる中、唯一、例外に無冠に終わった浅田真央の最後の演技が称賛を浴びた。

 ショートプログラムでの16位スタートは、誰も想像だにしなかったことだが(もちろん当人でさえ)、これは“浅田真央らしく”有終の美を飾るための神様からの贈り物だったのではないだろうか。決して試練なんかではなく。

 わずか14歳で、シニアの国際大会で鮮烈デビューし、その年、グランプリファイナルでも優勝をさらっていった。その時の彼女は怖いもの知らずで、まさに天真爛漫の演技だったことを覚えている。周囲が天才少女と騒ぐのよそに、ただただ無邪気にリンクを舞っていたのがとても印象的だった。

 が、彼女は“成長”する。大人になるということは“恐れ”についてのセンサーが働いていく過程でもある。恐怖を徐々に感知するようになり、とうてい14歳の頃と同じように無邪気には踊れなくなっていった。
 同年代として常にライバル視された金妍児が、その大人になる過程を“ギラギラさせていく”ものとしてうまく成長していったのとは対照的に。
(ただ、その金妍児もバンクーバーの時とは違って、ソチでは輝き切れていないように見えた)

 世間は、いつしか浅田に金メダルとトリプルアクセルを要求していく。しかも、14歳でマスメディアに登場するようになった時と同様のあどけなさも重ねあわせて、“真央ちゃん”と呼びながら。そうしたアンビバレントな難題をずっと突きつけてきたのだ。
 否、そんなことはなかったのかもしれないが、少なくとも浅田本人はそれを意識せざるを得なかっただろうし、振り払おうとすればするほどそこに取り憑かれていった。

 そうした呪縛から解き放たれるためには、メダルにはとうてい届かず、ファンが失望落胆する「16位」という思いがけない結果が必要だったのだ。それは、悲劇ではない。浅田が心置きなく踊れる最後の舞台を神様が用意してくれたのだ。
 彼女がフリーの演技を終えた後、「自分が目指しているフリーの演技ができた」と言葉にしたのは、もしかするとあの無邪気なままの浅田らしいスケートを思い出すことができたという意味なのかもしれない。

 彼女が現役最後に選んだのはラフマニノフのピアノ協奏曲第2番。周りを気づかう浅田が恩返しとして滑った「協奏曲」ではなく、これからは形式にとらわれない自由気ままな「狂想曲」を滑ってほしいと個人的には思う。
 彼女は金メダルを取るために生まれてきたのではない。

2013年12月27日 (金)

ラダック訪問記⑥〜伝統文化

Img_5974_4  前回ブログは携帯を手にする尼僧の話で終わった。たしかに街に下れば、道路沿いに通信会社とおぼしき会社の店舗や看板がやたら目につく(ラダックでは右写真のair telという会社が特に目立った)。この傾向は一昨年行ったアフリカ・ウガンダでも変わらない。
 今、グローバリゼーションの波が押し寄せないところは地球上にはないのだと思う。

 例の尼僧とガイドのスカルマ氏を介して少し話をしてみた。
 「この生活はどう?」と聞くと、「スキッポ(幸福)」と即座に返事が返ってきた。すぐには解せず「どうして?」と立て続けに聞くと、「(宗教の)教えを学べるから。苦からも逃れられるし。そして生きとし生けるもののためになれる」とこれまた考える風でもなく間髪入れずに返答があった。きっとそれは常に頭の中に留め置かれていることで、彼女が尼僧になろうと決断した理由でもあったのだと思う。

 彼女たち尼僧の言動には「宇宙に幸せはない、永久な幸せはない」という
思想が根底にある。だから、日常にはびこる苦から逃れるために尼僧になるのだ。規則正しい(と言えば聞こえがいいが“まるで変わりのない”)生活が何年も続くことは我々にとって苦行にも思えるが、彼女らにしてみれば幸せになる一方法であり、極めて合理的な決断だったのだ。
 スカルマさんの話によれば、尼僧になる子は近年増えていて、その背景には社会にストレスが増えていることがあるのだろうということだった。前近代的にも見える尼僧たちの生き方は、実は現代のトレンドであったのだ。

 それでもラダックにはしっかりと伝統は根付いたままにもなっている。特に、シャーマンやオンポ(占星術師)の存在が未だあり、それらが煙たがれるものではなく、生活やコミュニティの一部として位置づけられていることは、
貴重である(と我々は思ってしまう)
 現代のあり方を“通常”としている我々日本人旅行者ご一行は、その“非日常”が摩訶不思議にも思え、「もし彼らの生活を乱すことにならないのであれば、一度会ってみたいのだが…」と遠慮がちにスカルマ氏に聞いてみたら、すんなりと「アレンジしましょう」と言ってくれた。あまりの呆気なさに、私たちが警戒する以前に、そこに垣根を設けることのほうがおかしな話なのだと気づかされた。シャーマンにせよ、オンポにせよ、彼らの範疇は時空を超えた宇宙なのだから。要は、彼らの前に立つ我々が彼らの存在に敬意を払えるかどうかだけなのだ。

※下写真の左は、リクツェ村のシャーマンとその啓示を受けるツアー参加者。脇でコーヒーカップを持っているのはガイドのスカルマさん。かなり真剣にやってもらっている空気の横でくつろぐスカルマさん(ラダック出身)。そのコントラストが日常的であることの証左か!?
右はオンポの家でみんなの悩み事を占ってくれている様子。祭壇にはダライ・ラマ法王の写真が掲げられていた。


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 とはいえ、ツアー参加者から出たものの大半は、恋人ができるかとか、結婚生活がうまくいくかとか、次期選挙で当選するか
(参加者のひとりに地方議会議員がいました)など。なんとも俗っぽいこと、極まりない(笑)。
 ただ面白かったのは、占う前に「いやぁ、年上はダメでしょ」「お金を積めば問題ないよ」などと個人的な意見が挟まれたこと。その俗っぽさは日本人以上だった。

 こうした矛盾やカオスは最高である。やっぱりラダックは面白い!

2012年9月13日 (木)

身体論と

 娘が初めて意図して絵を描いた。これまでは、ただただグジャグジャ描くだけで、「グジャグジャ」する動作に面白みを感じていたようなのだが、今回ばかりは違った。描いた後にはっきりと宣言したのだ、それがなんの絵であるのかを。

 彼女曰く、テーマ「ウ・ン・チ」
(下写真)

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 これは“我が家史上”きわめて重大な出来事で、しっかりと記録しておかなければなるまい。たとえ、それが下品であろうと、なんでも「一番」には価値がある。彼女が最初に口にした言葉が何であったのかを父はすでに思い出せなくなっているのだから、のちに乙女心を傷つけることになろうとも、なおのこと、こうして記録しておくべきなのである。

 もしこれがきれいな花の絵だったら、あまりにフツーすぎてつまらない。むしろ親としては堂々とウンチを描ききってくれたことに無類の喜びを感じている。

 そこでおもしろがってFacebookにアップしたところ、知り合いのF教授から「身体論と存在論の弁証法的統一としての表現」との高尚なコメントをいただいた。実にそれは的を射ていて、事実、彼女のウンチは2歳とは思えないほど、立派で長い。
 最近では、「ひぃちゃん
(うちの娘の愛称)、ぷぅ〜したよ。クッサイよ〜」と無邪気にオナラの自白もする。物心がつく前の人間というのは、とことん正直で、最も人間臭い。まさに身体論と存在論の中でのみ生きていると言ってもいい。

 さらに悪ノリし、うちの妻もママ友連中にこの話をリークする
(父母ともに共犯である)。すると、その返信にはコミカルではあるが「日月生画伯」と称されており、こんな絵でも何かの間違いで評価を得てしまうこともあるのだろうと思ってしまう。

 そもそも芸術とは、その時代時代がめいっぱいの勝手な評価を下すことであり、“何かの間違い”は常に十分起こりうる。

 絵と言えば、最近もっとも話題を呼んだのが、スペイン北東部にあるボルハのキリスト画であろう。町の“画家”(80代のおばあさん)が修復したというそれは、元の絵の趣きがまったく無視され、まるでサルのようなまぬけなものに塗り替えられてしまった。
 画家の堀越千秋氏によれば
(参照:朝日新聞朝刊2012年9月12日文化面 「最悪の修復」に前例 キリスト画騒動に思う)、そもそも「修復作業」と「絵を描く」というのは別次元の作業で、修復を画家に任せてはいけないのだそうだ。しかも、他人の絵を直すぐらいなら自分の絵を描きたい!というスペイン人気質があるらしい(ほんとかな?)。この“画家”だと言い張るおばあさんは80代にしてまだその気概があるのだから、それはもう大したもんである。

 このまぬけな絵は、「世界最悪の修復」と酷評される一方で、復元計画を見直し、そのまま残しておくべきだとの声も多い。オンライン上では、ボルハ市に対し、復元計画の見直しを求める署名が1万8千人分も集まったそうだ
(先月下旬時点)
 当初、“失敗”との烙印を押されたこの絵は、結果としてとてつもない力を持っていたことを証明した。その「承認」が今後も継続していくか、私にはとても想像がつかないが、現世が認めたれっきとした「現代アート」であることには間違いない。もうそれはそれでよくて、後世で受け入れがたくなれば、また修復してもいいではないか。
 そもそも“修復”というものは、酷似させようが、似ても似つかぬものになろうが、別物になったわけなのだから、その差の程度はどうでもいいと私は思う。だから、あの修復画はアリなのだ。

 誰もキリストを見たわけではなく、どんなに信仰心にあふれても想像で描いているにすぎない。だから、
“偶像として”なのであれば、あれが間違いだと言うわけにはいかない。
 
むしろ、私の娘のように身体論と存在論で表現することが人間臭さの極みであるのであれば、写実的ではなくなったあの修復画はもっとも“キリストっぽい”ともっと賞賛を浴びてもいいのかもしれない。


【参考】
AFPBB News(8月26日) 「世界最悪」の修復キリスト画が大人気、訪問者が急増
http://www.afpbb.com/article/life-culture/culture-arts/2897332/9413856

2012年8月14日 (火)

悪戯好きな坊主からの教え

 ブータン3日目(8/11)、首都ティンプーからプナカへ向かう。

 およそ3時間の道中は、途中、3150mのドチュ・ラ峠を越えるのだから、かなりの山道をくねくねと行く。それでも、なんの拍子でそうなったのかよく思い出せないが、ブータンチームと日本チーム対抗の“紅白歌合戦”と相成り、カラオケボックスと化した車中は異様な盛り上がりで、すっかり時間が経つのを忘れてしまった。
 ちなみに、ブータンチームと言っても、日本語通訳のデキ(Deki)さん、現地ガイドのソナム(Sonam)さん、Img_3683_2 ドライバーのタシ(Tashi)さんのわずか3人で、我らチームジャパンに対抗しなければならない。しかも、タシさんはハンドルは握れても、当然マイクは握れないし、デキさんは人前で歌うのを終始嫌がったため、 とどのつまり、ブータンチームは「ソナム・ワンマンショー」であった。こちらはメンバーが順繰りに歌えば、結果、ソナムさんはブータンの歌を10曲以上も続けざまに披露することになった。彼のそのエンターテイナーぶりとホスピタリティには、いくら感謝してもしすぎるということはない。
 勝敗をつけるでもなく終わった歌合戦の後は、路傍の屋台で買った焼きトウモロコシ
(参考までに1本30ヌルタム=約45円)をみんなで頬張り、遠足さながらの往路となった。

 プナカは1955年に
Img_3770遷都するまで首都機能を担っていた。言うなれば京都である。ブータン中のゾン(僧院と行政の機能を併せ持つ建物。現在では、県庁的な位置づけであるものが多い)の中で最も美しいと言われるプナカ・ゾン(Punakha Dzong) は本当に荘厳であるが、首都であったことを思わせるのはそれぐらいで、周りには鄙びた風景が広がっている。とりわけチミ・ラカン寺院(Chimi lhakhang)までの道のりは、棚田の合間を縫う畦道で、我の少年時代の登下校とそのまま重なってくる。風のそよぎと稲穂の匂いまでもが一緒なのだ。

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 そうして浮かび始めた原風景をかき消すように、まるで対照的な景色もプナカにはある。ほとんどの家の軒先や壁には、射精する男根があからさまに描かれたり、あるいはそれをかたどった木彫りが吊るされている。

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 実は、チミ・ラカン寺院は、奇行を繰り返し、風狂な僧侶とされたドゥクパ・キンレ(Drukpa Kinley)が祀られているお寺である。ガイドさん曰く、セックス好きであったドゥクパ・キンレは、性的な戒律をことごとく破る、悪戯好きな僧侶だったそうだ。そこには教条主義的な仏教の教えに反発するという彼なりのポリシーがあった(ことはあった)。例えそうだとしてもそんな方法論はいかがなものかと思うが、融通の利かない社会に痺れを切らし、その上での八面六臂の活躍だったのであれば合点もいく。
 彼は、あえてそうすることで庶民の生活に入り込んでいったのだ。聖人として決して崇められようとはせず、上辺だけでない社会の負の部分を見ようとしたというのだから共感はできる
(この点は現代のブータン国王にも通じるところがある)。そこにこそ庶民たちの本心があり、彼はなんとかして真実を見ようとしていたわけだ。言わば、彼は“ブータンの遠山の金さん”だったのだ。
 いまだにどの軒先にもそれが描かれているということは、時を超えてドゥクパ・キンレが愛されている証しであり、彼への敬意の表れである。

 とはいえ、露骨すぎる
(と日本人には見える)
 「いくらなんでも今の時代には…」と思い、「ブータンの人たちはこれらをどう見てるんですかね?」とDekiさんに訊いたところ、「何とも思ってない」と間髪入れずに答えが返ってきた。「ま、大人はそうだとしても子どもはさすがに…」と、さらに「村の子どもたちは?」と重ねたが、やはり「何とも思ってないでしょ」と即答された。
 ちなみに、Dekiさんは見目麗しき20代の女性である
(よく熊田曜子に似ていると言われるらしい)。恥ずかしげもなく即答されると、こちらが余計に恥ずかしい。

 現代の私たち日本人は、どこか“肌感覚”のようなものを敬遠してきてしまったか、失ってしまったかのようである。あたかも実物に触れているように取り違え、なんでもかんでもラップに包んで頂戴している。
 そっくりそのままではないにせよ、聖人ドゥクパ・キンレの方法論は、“生きる力”を失った日本人にこそ入り用なのかもしれないと思った。

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【余談】
 チミ・ラカン寺院(写真上)は子宝の寺としても有名で、それを祈願する参拝客も多い。実際に子宝に恵まれた人は御礼参りでお坊さんから名前ももらうことになっている。
 せっかくなので私もここで祈願した。するとなんとなくの流れで、子宝に恵まれるかどうかを占ってもらうことにもなった。その結果は、次もまた女の子を授かれるとのこと! それだけではなく、小坊主が差し出す単語帳のようなものから紙を一枚選ぶと、そこに書かれているのが付けるべき名前らしく、「Kinley Pem(キンレ・ペム)」という名前を(勢いで)授かることにもなってしまった。いくらなんでも第二子に「吉田 キンレ・ペム」とはつけられない(笑)。ただ、「ペム」というのは「蓮」という意味らしく、その一字を使った名前も悪くないと思った次第。
(「キンレ」はドゥクパ・キンレからとったもので、このお寺では必ずそれがつくことになっている)

2011年8月26日 (金)

ケータイのある暮らし

 通信業界の勢いはすさまじい。卑近な例を挙げれば、プロ野球の母体企業をみればいい。昔は鉄道系のものが幅を利かせていたが、最近参入したところといえば、ソフトバンクであり、楽天であり、情報通信系の企業になってくる。

 この情勢は、世界をみても変わらない。
 私が今夏訪れたウガンダ、マレーシアでもそうだった。地元の新聞や看板広告を見れば、統計を見なくともおおよその状況は把握できるものだ。

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 これらの写真は、ウガンダ滞在中にケニアへとつながる幹線道路を移動の道中で撮ったものである。 車中から時折現れる町を眺めれば、両脇に見える商店(あるいは民家なのか?)の多くには広告ペイントが施されている。あくまで印象のレベルだが、半分ほどは通信会社のものであるように感じられた。

 偶然(本当に偶然!!)、ウガンダの片田舎でJOCV(青年海外協力隊)として2年前に派遣されていた知人に出会った。せっかくなので、一緒に町の食堂で昼食をともにすることにし、道中の様子を彼に聞いたところ、4社(上記写真にそれぞれが写っている)がしのぎを削って、シェア拡大に躍起になっているのだそうだ。

※ちなみに、その偶然出会った知人は、私が担当している講座の3年前の受講生で、次のHPでその活動が紹介されている。
 JICA『世界HOTアングル』 「金色の稲穂より輝く」 
 http://www2.jica.go.jp/hotangle/africa/uganda/000898.html

 3年前に出した拙著『ケータイの裏側』コモンズ)では、「アフリカは、固定電話回線数の倍以上に携帯電話のインフラが整備され、急速に普及しつつあるとはいえ、普及率は10%を超えたばかりである」(p59)と書いた。その時点での確認できる最新情報のはずだったが、その数字はすでに50%近くになっているようだ。国によっては100%に近い普及率を達成しているところもある。(WirelessWire News「急成長するアフリカ携帯電話市場」

 インドや中国といった新興国が台頭するアジア以上に、アフリカは携帯電話契約数の成長率が高い。固定電話のインフラを整備するよりは、携帯電話のほうがコストが抑えられることが、アフリカがその潜在性を持ちうる理由となっている。
 私が移動するバスの窓外に見た光景もまた、それを裏付けるように、片手に携帯を持つ多くの人々の姿があった。
 彼らの生活は、その道具を持つことで豊かになったのであろうか? 
どうもそんな風に大げさに考えてしまうのだが、考えるだけ無駄なのかもしれない。

 拙著での私担当の章の締めくくりは、取材したNECの技術者の次の言葉を紹介している。

 「人間が持つモノとして身体機能的な側面からみた場合、ほぼいまの形が完成形でしょう。いまのケータイの機能を満たすうえで、それほど大きな形態変化はもうないと思います」

 道具はどんどんと進化する。過去の人間の想定以上に。
 けども、スマートフォンを片手にする私の生活は、幸福度を増すことになったのであろうか?
 実感としてそれはあまりない。根本を変えられたような気は到底しないのだ。

 だとすれば“進化”とは何なのか。単に自己満足であると思えなくもないが、よく分からない。
 それでも時代は“進化”していく。それに抗おうとまでは思わないが、それについていこうと食らいついてくのもどこかしっくりこない。だったら、ただひとり止まってみるのもいい。結構気持ちのいいものなのだと思う。 
 

 

2011年6月 9日 (木)

哲学ライブ「ブッダ」 in 光文堂

 すぐに書こう書こうと思って、後回しになってしまっていたのが、今回のブログ。「完全主義者ほど仕事の達成率が低い」といった研究記事を読んだことがあるが(完璧を求めるあまり、なかなか捗らないのに対し、「とりあえず出しちゃえ」と多少至らない部分があっても“結果”を出し続ける人のほうが、評価される傾向があるというようなものだったはず)、まさに自分がそれに当てはまる。しかも私の場合、出来も悪いときたから、たちが悪い…。
 ただ、今回はしっかり書いてあげたいなと感じていて、数行のブログにはできないなとの思いがあった。結婚前は“都心志向性”のあったうちら夫婦が(出会いも東京)、飯能に腰を据えてはや5年。子どもが生まれ、そろそろ“地元回帰”で地に足のついた活動をしたいと考えていた矢先の僥倖があったのだ。

 前にもブログでシンクロニシティに触れたことがある。そうした感覚は本当に妙でありながら、不思議なリアリティがある。その週末もいくつかの偶然が重なりあった。

 もう10日も前になってしまったが、5月最後の週末、地元で「原発と放射能」という講演会があるというので、一度、しっかり専門的な話を聞いておきたいと妻が参加申し込みをしていた。
 が、その前日、知り合いの酒屋さんを訪れた際、「哲学ライブ」と書かれたチラシが目についた。たしか、だいぶ前にもそう書かれていたチラシをここで目にしていたのだが、日程があわず見送った記憶がうっすらある。“哲学”と“ライブ”といったミスマッチがその印象をわずかに残してくれていたのだと思う。

 当日(5/28)になって、その印象がムズムズしはじめ、妻と相談し、「哲学ライブ」に向かうことにした。似たような講演会はきっとまたあるだろう、とのことで。

 赤ちゃん連れになることと、当日参加で空席があるのか気になって問い合わせてみたが、「まだ大丈夫です。赤ちゃんがおられるのも全然気にしません。むしろ、いろんな方に参加していただきたい」と電話口のなにがし氏は歓迎してくれた。そのなにがし氏とは、関西で演劇と哲学を研究していたという異色の小林壮路氏である。

 小林氏は飯能出身で、祖父が駅前の銀座通り(とは言うものの、ここも御多分に洩れず、かつての賑やかさは薄れている)で光文堂という書店をやっていたのだそうだ。その後、布団屋になるものの、今は空き家になっている。見た感じは「10畳もあるだろうか?」というほどの大きさしかないが、なにより立地の良さは抜群だ。まだ看板も何もないが、実際、哲学ライブをやっている最中、「なにをやっているのだろう?」と不思議に窓の中の私たちを見ていく人が何人もいる。
 実は、その窓の中の私たちはたったの8人(しかもうちの9ヶ月の娘含む)。元大学教授とそのお知り合いらしき女性、地元で演劇をしている(していた?)おじさん、(あとで分かったことだが)小林氏の父であって光文堂のオーナーと、その親友で井上ひさしに瓜二つのおじさん。そしてうちら家族がその内訳だ。

 どう天地がひっくり返っても出会わないだろう8人が狭い空間で何をしたかと言えば、一人芝居を観て、そこを出発点に誰からともなく対話を重ねていくこと。それが小林氏の発案した「哲学ライブ」である。
 第3弾となる今回のテーマは「ブッダ」(ちなみに、第1弾、第2弾は「ソクラテス」)。正直、難解な用語が飛び交い、台詞だけではスッと入ってこないところもあるのだが、演技によって醸し出される場の空気感のようなものが対話を誘発させてくれる。最近、映画は3Dばやりだが、哲学ライブとは哲学書の3D化と言えるのではないだろうか。
(写真はブッダを演じた土屋氏)Img_1582

 私が専門とするファシリテーションやワークショップももとを辿れば、そのルーツは演劇にもある。
 そもそも演劇とは文字を操れない民衆の社会に対する唯一とも言える表現(抗議)方法だった。劇場は、舞台と観客席の境が曖昧にされ、演劇を観ていた観客が共感すれば、どんどん舞台に上がり、一緒に演じてしまう。その引き出し役(盛り上げ役)がファシリテーターの原型であったと言われている。要は、ファシリテーターとは今も昔も“場づくり屋さん”なのである。
 湯浅誠氏も著書の中で「活動家とは、『場』をつくることを通じて多くの人に気づきの機会を与え、変化のスピードに遅れすぎないように社会を引っぱっていく存在である」
(『活動家一丁あがり! 社会にモノ言うはじめの一歩』NHK出版, p54)と述べている。社会を変えていくためには、人が場に集い、そこで対話を始めることが大前提となる。“場づくり屋さん”の存在は極めて重要だと今改めて思う。

 哲学ライブの終盤は、くしくもその場づくりの話になった。映画館がひとつもなく(昔は一館あったらしいが閉館)、文化的土壌の弱い飯能において、こうして集い、語り合える場ができることは救いで、大きな可能性を秘めていると、一同、話が盛り上がった。銀座商店街にあるいくつかのカフェなどのお店をつなぎ、哲学の連動企画をやって盛り上げたらいいだとか、哲学的な思索のできる絵本の読み聞かせを学校帰りの子どもたちにやったらいいだとか、とにかくそれを言ってる自分たちがワクワクしてくる。
 社会変革は、なにもヘルメットをかぶってバリケードを張ったり、デモで声を張り上げたりすることばかりでなく、雲の動きのようなものもありだと思う。静かでありながら、ダイナミックな変化というもののほうが地域には適しているかもしれない。

 周りが勝手に盛り上がるのを苦笑いしながらも目尻を下げて見ていた小林氏父の表情が印象的だった。おそらく貸店舗にしたほうが経済的な利益は見込めるだろうに、息子の使命とも思えるビジョンに賭けてみようかと傾きかけている温かい表情だった。それは彼だけではなく、そこに集ったみんなが小林氏のビジョンに賭してみたい、そう思いかけたものを後押しするものでもあった。

〈追記〉
・哲学ライブでの土屋氏の一人芝居、最後の2分ちょっとをiPhoneで撮影したので、それをYouTubeにアップしてみました。(ちなみにYouTubeにアップしたのは生まれて初めて)
 哲学ライブ!「ブッダ」in 光文堂
 http://www.youtube.com/watch?v=wa9TSXd2_t0

・当日のより詳しい様子は小林氏のブログ『光文堂プレス』をご覧下さい。
 http://kohbun-press.jugem.jp/

・やけに仏教に詳しいコメントをする参加者だなぁと思ったら、「唯識」思想を研究し、立教大学で教鞭をとられていた大先生でした。最新刊の『阿頼耶識の発見 よく分かる唯識入門』(幻冬社新書)を勧められ、非常に面白そうだったのでさっそく購入。

・哲学ライブの直後に「震災語る哲学カフェ 対話を重ね考え続ける場」(朝日新聞朝刊文化面2011年5月30日)の記事を見つけ、雑誌『大人の隠れ家』7月号で哲学が特集されているのを知り、ここにシンクロニシティを感じた。96ページには前述の大先生・横山紘一氏が主宰する哲学カフェの取り組みが紹介されている。

2010年5月 5日 (水)

かぶけ、歌舞伎座よ!

 多くのメディアで惜しまれるように取り上げられていたので、銀座の歌舞伎座が4月の公演をもって閉場するとの報道をご覧になられたのではないだろうか。たしかに、数週間前に用事があって東銀座に行くと(岩手県のアンテナショップ「銀河プラザ」に行ってました。啄木の「ふるさとの訛りなつかし 停車場の人込みの中に そを聞きに行く」心境ですね)、かなりの人が歌舞伎座にデジカメやケータイを向けて全貌を写真に収めていた。ただし、そのほとんどが歌舞伎座で歌舞伎を観たことがない人であって、下手をするとそもそも歌舞伎自体にほとんど興味がない人たちであるかもしれない。
 どうも人は「最後の○○」とか「残り○日」と区切りをつけられると心理的に動かされてしまう。急に「自分も行っておかないとソンをする」ような気分になるのだろう。うちのゼミ生たちにもその手で学ぶ意欲をかき立てようと思うのだが、すぐに見透かされてしまうかな? というか、まさに自分が「歌舞伎座がなくなる」との報道に心揺り動かされ、観に行った口なのだ。昨年末、夫婦で歌舞伎座に出かけてみたのである。(そして、写真も撮った…)
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 結婚3年目ともなると、クリスマスの重要性がだんだんと薄れてくる。ロマンティックなことよりも実利的なことのほうがプライオリティが高い。しかも企画力も衰えをみせる…。
 そこで、「なくなる前に行ってみたい」との私の希望を押し付け、「あえてクリスマスに“和”なことをやろう!」とこだわりがあるかの如く見せかけ、12月公演のチケットを取った。

 切羽詰まって取ったので、花道もよく見えない席だったが、雰囲気を感じるにはむしろよかったかもしれない。昔、モスクワのボリショイ劇場で「白鳥の湖」を観たことがあるが、奥行きよりも垂直に空間がある造りは意外と似ていると感じた。椅子の間は狭く、決して快適ではないのだが、そのほうがワクワクするのはどうしてだろう。

 さて、観るほうであるが、皮肉なことに一幕目の古典的なもの(これぞ歌舞伎!といったもの)よりも演出家の野田秀樹氏が脚本を書いた「野田版鼠小僧」(歌舞伎というより現代劇といった感)が楽しめた。数年前に、寿司屋で中村勘三郎氏と野田氏が意気投合し、「サンタと鼠小僧ってなんか似てないか」からトントン拍子で企画が進んだ、ある意味“奇天烈な歌舞伎”なのであった。
 初体験の歌舞伎がこれであってよかったのか、観劇後、妻と感想を述べあったのだが、「抱腹絶倒したのだからいいじゃない。元は取ったよ」ということで落ち着いた。

 きっと江戸時代に観ていた歌舞伎と昭和に観ていた歌舞伎と2013年に再開する歌舞伎座の歌舞伎はそれぞれ違ったものであったと思う。そうであれば、なにが「歌舞伎」なのかは、その時代時代が決定していくのだろう。ただ、「歌舞伎」の語源が“勝手な振る舞いをする、奇抜な身なりをする”といった意味の「傾く(かぶく)」であると言われているから、そこだけは通底するモチーフなのだ。
 私たち夫婦がイヤホンで解説を聞かねばストーリーが理解できなかった一幕目も歌舞伎であれば、野田版も歌舞伎である。3年後、新しい歌舞伎座にまた私たち夫婦が行って観たいと思う歌舞伎がそこにはあってほしいと思う。

【参考】
 ・ 歌舞伎座のHP http://www.kabuki-za.co.jp/
 ・ 歌舞伎座、59年の歴史に幕
  http://hochi.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20100501-OHT1T00006.htm

※58年前の改修での歌舞伎座復興の際には、なんとダグラス・マッカーサー元帥や当時の総理大臣・吉田茂氏から祝辞が寄せられている。
 http://www.kabuki-za.co.jp/siryo/history/ka_index.html