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2014年8月31日 (日)

スリランカ訪問記その4〜旅を終えて

 今回の研修の目玉には、スリランカ最大のお祭り「ペラヘラ」鑑賞がひとつあった。言ってしまえば“観光”であって、“研修”においてそれを目玉に据えるというのは「お遊びではない!」と叱責を受けそうだが、言い方を変えれば「他国の文化見学」なのである。

 勉強した証にその歴史を少し記そう。言い伝えによれば、入滅した仏陀の遺骨はインド各地に分骨されたのだそうで、そのうちの犬歯が、紀元前4世紀、インドのカリンガ王の娘がスリランカのシンハラ王家に嫁いだ際、結い上げた髪にお守りとして忍ばせられ、スリランカに渡ってきたのだという。その犬歯(仏歯)は、王朝が遷都を繰り返すたびに転々と移動させられるが、キャンディに遷都した際(1592年)、仏陀の犬歯を祀るための仏歯寺が建立され(1603年)、これまで崇められてきた。そうした歴史の中で、仏歯を崇める習慣やお祭りがスリランカで生まれ、そのひとつがペラヘラ祭りなのである。

 ペラヘラとはシンハラ語で「行列」を意味する。実に興味深いのは、仏歯が納められている(という)舎利容器を背に載せた象の後を、ヒンドゥー教のご神体を載せた象たちの行列が続いていくことだ。つまり、このお祭りは仏教とヒンドゥー教のミックスなのだ。しかも、その行列ごとに微妙に踊りや太鼓のリズムが違い、民族・地域ごとの特色を表している。まさにこの多様性と寛容さこそがスリランカなのである。

 ただ、このために津々浦々から集まるスリランカ人(プラス世界各国から見物に来る観光客)で埋まる祭りの異様さは、荘厳というよりは喧騒でもあり、この豪華絢爛ぶりが権力の象徴であったのだろうと思わずにはいられない。

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 この研修中に感じたのは、物価の高さと中国の台頭である。以前であれば、アジアを旅するのに、ケチケチ値切りはするものの、結局はあまり値段を気にするようなことはなく、食事も子どもの小遣い程度でお腹いっぱいになったものだった。しかし、(観光地であったからでもあるが)物価は日本とさほど変わらないと思うことが多かった。世界のあちこちで中国のプレゼンスを感じるのは、もう当たり前で改めて驚くことはない。ただ、これも自分が海外に行くようになった20年ほど前では感じ得なかったことだ。

 一方で、訪れた孤児院で出会ったのは、多くが貧困を理由に手Img_8774 放された子どもたちだった(つまり親と死別したわけではない)。やはり、変化の見えるスリランカにおいても貧富の格差は一向に縮まらないという状況を打開できていない。変わりゆくものと停滞しているものともまた混在しているのが、スリランカである。
 研修終盤で訪れた世界遺産・シギリアロックは圧巻だった。それは、その景色に対してばかりではなく、およそ200mもの高さにある岩の塊に要塞の如く王宮を築いた人間の強欲さに対してもである。その頂から眺めれば、今に至るまで人類はこうまでして所有したいという青天井の欲望を抱き続けてきたのかと摩訶不思議に思えてならない。その思いと突き抜ける空の青さもまた奇妙なコントラストを描いていた。

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2014年8月 5日 (火)

スリランカ訪問記その3〜サルボダヤ

 コロンボ市内をバスでまわっていると"BUDDHIST TV"という看板が目に入る(ちなみに"BUDDHIST RADIO"もあった)。ガイドのサラットさんによれば、このチャンネルが結構スリランカの若者に視聴されていて、瞑想し“マジメな生活”を送ろうという人が増えているのだという。
 日本で最近の若者たちを揶揄して「さとり世代」なんて呼んでいるが
(←私は揶揄などせず、逆に彼らのライフスタイルに可能性を感じるが)、スリランカの若者たちこそ、正真正銘の「悟り世代」にあたるのではないか(笑)。

 研修3日目(実質2日目)は、サルボダヤを訪ねた。
 このスリランカ研修を企画した自分としては、このサルボダヤ訪問は目玉のひとつであった。それほどまでに入れ込むのは、自分が「開発援助」というものに興味を持ち出した90年代、少なくともこの分野に携わる者たちにとって、当時はそれなりのインパクトをもってサルボダヤが語られていたと思う。それは、先進国が押し付ける「開発」が一向に功を奏すことがなく、そこへ“途上国発”の開発のあり方として輝いて見えた思想・運動だったからであろう。「依存」ではなく「自立」を促す人間中心の思想には、なにか根本を触れられるようで、大いに可能性が感じられたのである。
 しかし、ここ最近、日本ではあまり聞かなくなっていた。

 「サルボダヤは今はどうなっているのだろう?」

 そこに触れるのが今回の研修の目的のひとつだった。それは、開発のあり方の行く末を見通すことになるとも思ったからだ。

 一教師であったアリヤラトネ氏が、1958年、学生たちを貧しい地域に連れて行き、シュラマダーナ(労働の分かち合い)キャンプを始めたことがサルボダヤの発端である。

 サンスクリット語である“サルボダヤ”はもともと「労働の分かち合いを通した人々の覚醒」という意味で、「
開発、平和、さらには精神的な覚醒(目覚め・気づき)に統合的、ホリスティックにアプローチするユニークな自助組織」Sarvodayaの日本語ページより引用)である。
 つまり、物質と精神のバランスのとれた開発を目指すのがサルボダヤの哲学で、仏教的な価値観をもとに、貧しさも過度の豊かさもない自立した社会を理想としている。

 しかし、今回訪れて、その思想哲学のダイナミズムをあまり感じることはできなかった。Img_8709
 それはひとえに私たちの訪問が限られた時間で、かつ現場を訪れず、本部での説明と一部事業の現場(孤児の支援)を見たにすぎないからだということは重々承知している。事実、重要な会議があるにもかかわらず、我々の到着を待ってくださった国際部門のトップBandula氏は「できれば数週間滞在し、現場にも出向いて見てほしい」と懇願されていた。

 きっとそうなのであろう。それが正しい訪問にちがいない。
 しかし、それでもスリランカにおけるサルボダヤのインパクトが弱まっているのは事実のようなのだ。Bandula氏を引き継いだ若手スタッフの話では、国内でのサルボダヤの事業数も認知も減少しており、予算が減少していることが大きく影響しているとのこと。
 以前は輝きを放っていたサルボダヤの開発哲学に、西欧諸国の援助団体から多額の資金が入ってきた故、西欧的な効率性重視のあり方に変わらざるを得なくなっていった。そういう批判が実は20年前からあった。昨今、陰りがあるという噂も聞く。
 それでも「NGOの役割はまだある」と若手スタッフは力強く答えてくれた。

 たしかに、役割はまだまだある。アリヤラトネ博士の思想哲学も今こそ肝に命ずべきだとも感じる。
 半世紀以上も前に始まったサルボダヤ・シュラマダーナ運動に、もし陰りが見えたというのであれば、それは“浸透”したという結果の表れなのかもしれない。サルボダヤが語ってきたことは、今の開発現場で普通に語られる「サステナビリティ」や「レジリアンス」といった言葉などに置き換えられていっているようにも思う。

 ただ、大きな問題は、概念として浸透しても、やはり具現化は未だされていないということだ。
 サルボダヤが新鮮さを失ったというのであれば、それは当たり前のものになったのだとむしろ歓迎すべきことである。しかし、だからこそ、NGOを見る眼差しは変化している。その変化している眼差しにどう応えていくか、新しい境地に立たされているのだ。

 Bandula氏が向かった“重要な会議”とは、全国から1600人ものサルボダヤのリーダーたちがコロンボに集まって「これからの10年」を喧々囂々するものらしい。どう新しい境地を切り開いていこうとするのか、その会議での決議が気になるところだ。

 サルボダヤの精神は普遍のものとして、21世紀にも根付いていくものなのだろうか。今の若者たちにも引き継がれていくものなのだろうか。
 その答えはもう少し先のことになる。

※下写真はサルボダヤのメディテーションセンター

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2014年8月 4日 (月)

スリランカ訪問記その2〜NGOアプカス(APCAS)訪問

 実質、研修初日の昨日(8/3)、手始めに(お決まりで!?)コロンボ市内観光から。

 街の風景や訪れた寺院から感じるのは、まさにカオス。スリランカ全体でみれば、圧倒的にシンハラ人が多いのだが、ここコロンボに限れば、Img_8664_2 その不均衡は弱まる。仏教徒が多いことには変わりないが、ムスリムもヒンドゥーも相当数見かける。寺院にいたっては、仏教寺にヒンドゥーの神も祀られているなんとこともある。それらを拝むことで“他宗教の神々にも功徳を与える”のだそうだ。そうした行為は、寛容なのか、敬意を払っているのか、はたまた横柄なおせっかいなのか、まるで計りかねるが、そのごちゃ混ぜ感こそがスリランカなのである。
 お堂の中の仏像たちが、ミケランジェロが教会に描いた宗教画のように見えるのは
(右写真)、そのせいなのだと思いたくもなる。

 実は、市内観光の前にAPCASというNGOを訪れた。着いた翌日が日曜日だったため、どこも休みで予定が立てられなかったのだが、快く訪問を受け入れてくれたのがAPCASだったのだ
(ありがたい!)

 APCAS(アプカス)という響きから、それが日本のNGOだとはあまり察しがつかないだろう。それもそのはず
(と言っていいのか)、アプカスというのはアイヌ語で、「歩く」という意味であり、スリランカの人々はじめ国内外の周縁化された人たちと“ともに歩く”という思いが込められている。
 ちなみに、APCASとはAction for Peace, Capability and Sustainabilityの頭文字をとったものでもある。2004年に起きたスマトラ沖地震による大津波の被災者支援を契機に活動が始まり、2008 年1月にNPO法人格を取得している。

 アイヌ語にこだわるのにはワケがある。APCASの事務所は北海道函館市にあるのだ。「あえて東京ではなく、地方からの発信にこだわった」と話してくれたのは、今回の訪問で私どもの対応にあたってくださった
(奇しくも私と同じ)石川直人氏だった。それは、NGOが乱立している東京よりは注目度が高くなるとImg_8649いう戦略的な意味合いに加え、周縁化された人々を取り巻く問題に取り組んでいくというAPCASのポリシーとも合致する。

 私たちが訪れたのは、
視覚障がい者の雇用促進として事業展開しているマッサージサロン「Thusare(トゥサーレ)」である。「トゥサーレ」もアイヌ語からとったもので「癒す」という意味になる。マッサージサロンとしてはうってつけの店名である。
 しかし、こうした事業ひとつとっても異国の地で活動するのは一筋縄にはいかない。石川氏が語るところによれば、そこには「障がい者へのバリア」と「“マッサージ”という言葉のバリア」が横たわっていたという。

 日本では、視覚障がい者の職業として、真っ先にマッサージ師が浮かぶ。それほど当たり前の選択肢として日本では保証されている感があるが
(ただし、最近では無資格の“セラピスト”がいる格安マッサージ店が増えてきて、有資格者の視覚障がい者の雇用がだいぶ侵されているとも聞く)、スリランカではそうではない。障がい者は、社会の構成員として職を担う対象とはなっておらず、手を差し伸べる憐れみの対象として見られている。
 石川氏が訓練後の雇用創出のため、営業に出向き、話をすると、それが障がい者のことだと分かった瞬間からオーナーの表情が曇り始めるらしい。「うちは雰囲気を大事にする店だから」という全く失礼な理由を述べて。
 そもそも障がい者自身も「パウゥ」という言葉をとにかく多用するとも石川氏は嘆いていた。「パウゥ」とはシンハラ語で“かわいそう”という言葉で、とにかく小さな頃から周りからそう言われ続け、憐れまれるのが当然と自分自身で思ってしまっているのだそうだ。

 また、言葉の問題も厄介である。スリランカで“マッサージ”と言えば、それはあらかた性的なものを意味する。
 「マッサージ店を開業するので、物件を探している」と不動産屋に行けば、眉をひそめて断られ続け、100件近くも回って見つけたのが今の物件だとのこと
(それもうまく言い回しを工夫しながら、やっとのこと成約に漕ぎ着け…)
 この物件、少々家賃が高くてもあえて富裕層の多いコロンボ7区にしたのだそうだ。それを家賃が半分になるからと、隣りの区
(日本で言う歌舞伎町のようなところか)で借りてしまうと、結局、“性的”なイメージを払拭するのはかなり難しくなる。「7区にある」ということで、そのイメージからの脱却と店のブランディング、そしてワーカーの自尊感情の回復が図れるとの戦略がある。

 石川氏の話は予定の時間を大幅に過ぎ、ランチタイムにまで食い込んでしまった。それでもなお質疑応答が続いたのは、彼の話に“未来”が見えるからである。話の其処此処にビジョンと戦略がクリアに見える。日本のNGOの助成金頼みな脆弱性に触れ、しきりに「APCASの支援活動のいくつかをソーシャルビジネス化していきたい」と話していた。

 日本にNGOが台頭するようになって
(その時期を70年代後半と仮定すれば)40年近く経ち、今、日本のNGOは岐路に立たされており、向かうべき先を探しもがいているように思う。
 石川氏も同様にもがいているにはちがいないのだが、そこに突破口を開いてくれるのではないかと勝手に期待する。入り交じるカオスのこの国であれば、そんなブレイクスルーが起こる気がするのだ。

 まずは、スリランカでの(実質)1日目が終わり、旅がここから始まる。



【追記】
Img_8652_2  石川氏のお話の後、お試しで参加者何人かがマッサージを受けさせてもらった。さっそく長旅の疲れを癒してもらい、恍惚とした表情を全員がしていたということは、APCASの雇用促進訓練と彼らの腕に間違いナシ!ということですね。

2014年8月 2日 (土)

スリランカ訪問記・その1〜成田空港でおもふ

 今、成田空港の86ゲート前でスリランカ行きの便を待っている。もう1時間ほどで機上の人となる。

 ありがたいことに、毎年この時期、海外研修の引率で日本でないどこかへ“シゴト”で行っている。一昨年はブータンで、昨年はインド・ラダック。どちらもグローバリゼーションの押し寄せる波に抗っているところである。そこに住まう人たちが実際に何を選び、何を良しとしているのか見てこよう、つまり「開発のあり方」を考える研修という位置づけだ。そう書けば大学の教員らしい“シゴト”に聞こえるが、やはり、酷暑の日本を離れ、海外に“退避”するのは「いいなぁ〜」と言われてしまう(特に妻に(笑))。

 成田空港に向かうスカイライナーでぼんやり窓外を眺めていると、微妙な速度で在来線を追い越していった。微妙な速度ゆえに、しばらく並走し、向こうの車両の人たちの様子が明瞭に見える。通勤中と思われる疲弊気味のサラリーマンを眺めれば、卑しいのだが優越感を覚える。

 旅に出る者とシゴトに向かう者は、一方はホッとリラックスし、一方は憂鬱さを滲ませる。日常から離れることで人は癒され、日常に身を置くことで何かがすり減らされていく。

 果たして、これっていいことなのだろうか? 日常を離れなければホッとでいない生き方というのは、なんとも皮肉ではないだろうか。
 旅をすると、いつもこの矛盾にさいなまれる。日常を旅として、旅を日常とすることだってできるのではないか? 非日常だけが「旅」であっては、ドキドキワクワクは旅の特権になってしまう。

 成田空港の広い空を見ていると、この昂揚感をふだんも感じてみたいとも思うのだ。

 さぁ〜て、そんな思索に耽りつつしていると、搭乗時刻がまもなくとなる。今回、旅するこの面々と、どんなことを感じてこられるのか、とにかく楽しみなのである。


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2013年12月31日 (火)

ラダック訪問記⑩〜おまけの番外編

 「おまけの番外編」で『ラダック訪問記』シリーズをしめたいと思う。暮れ行く一年とともに。Img_6434

 ラダックを後にした我々は、ヒマラヤに連なる峰々を超え、インド・デリーを経由して帰国の途に。

 デリーでは、著名な環境活動家であり、思想家でもある、あのヴァンダナ・シヴァ氏に会うことができた。あれほどの方から直接話を聞き、質問できるという機会は千載一遇のチャンスである!
(そうした場をセッティングしてくれたスカルマ氏には本当に感謝したい)

 食事を一緒にとる僅かな時間だけではあったが、そこでのやりとりは
、この研修の大きな土産のひとつとなった。強大なグローバル企業や自由貿易に対し、固有種、在来種の保護に市民レベルで抗ってきた彼女が“重要なこと”としてきたことは次のことである。

・誠意をもって取り組むこと
・社会運動には時に科学的裏付けも必要であること
・みんなで同時にひとつのことに力を注ぎ込むこと
・どんな馬鹿げたことと思われることも継続させて、当たり前にしていくこと

 その上で「何年かかっても恐れずにやる」ことと「認識することが変化につながる」ことを強く私たちに訴えかけた。
 どこの馬の骨だか知れない連中だろうがなんだろうが、自分の信念を共有してくれるのであれば、寸暇を惜しまず、そしていつでも同じテンションで話すだろう彼女の姿勢に偉大さを感じた。

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 気を良くして、さらに帰国の途を進める。
 が、アクシデントはここから起こる。むしろ、こここそが研修のクライマックスだったのかもしれない…。

 デリーの空港に着くと、日本航空の直行便に何人か乗れそうだという話をカウンターのフロアスタッフから持ちかけられる。旅も終盤で疲れが溜まり、体調不良の参加者がいたので彼らに優先して乗ってもらうことにした。さらに追加で乗れるということで、特に急ぐ用事もないすこぶる健康な私を含む4名を残し、他のメンバーはデリーの空港を発っていった。

 「ま、ちょっとアンラッキーだったね。でも、もともとの便に乗れるわけだから」ぐらいにしかこの時は思ってなかったが、さらにそれが不運を呼ぶ。

 乗り継ぎの上海で時間になっても成田行きのアナウンスが鳴らない。十分な説明もないまま待たされた上、聞こえてきたアナウンスは「成田行きは今日は飛ばない」。その不適切な対応と不遜な態度に我々ならず、同乗する他の客も暴動が起きそうな空気になったが、彼らの言うなりになるしかここでは生きていく方法がない。さらに長時間、空港内をあちこち移動させられた上、結局、収容車のようなバスに乗せられ、どことも分からぬ土地を移動し、とても寂しいところにポツンとあるホテルに一泊させられた。
 そこでの生活はまるで軍隊のようであった。

 食事は一列に並ばされ、お代わりをしようと思えば怒鳴られた。明朝何時に出発か聞けば、まだ分からないと曖昧にされ、部屋は強制的に二人一組に。我々は男3名、女1名の構成だったから、私は男部屋の床に寝る羽目に…。

 朝は朝で、突然6時ごろに叩き起こされ、あと30分後に出発!と。しかもそれが中国語で伝えられる。
 とにかく服を着て、荷物を持ってロビーに降り、またも収容車に乗る。朝食も出ていたが、ほとんどの人はそれに手をつける元気もなく、文句タラタラに空港へ向かった。

 そんな“オプショナルツアー”がおまけでついた4人は“戦友”となった(笑)。
 それもまたいい思い出で、私の2013重大ニュースにランキングされることとなったのであった。

 2014年が皆さんにとって良い年となりますように…

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※上写真は一日遅れでなんとか無事到着した成田空港にて、“戦友たち”と。

2013年12月30日 (月)

ラダック訪問記⑨〜旅を終えて(その2)

 総括しろと言われると毎回同じことを報告書に書いてしまう。スタディツアーはどこまで意味があるのか、と。

 おおよそ10日間だけの滞在で「分かった」と言うのはとてもおこがましいし、現地の人たちが“いつも通り”に接してくれているとは限らない。大抵、私たち訪問者はお客様扱いされ、彼らにとっても特別な日々とされたものを共有することになる。私たちが混じり気のない日常に接することなど土台不可能で、知った気になってはいけないのである。
 ただし、知った気にはなっていけないが、その経験を話してはいい。色眼鏡で見ましたよ、と堂々と。

 偏見や先入観で見ることは良しとされることはまずない。しかし、普段、人は
(無責任に)堂々と主観を交じり合わせ、それを自身の中で編集し、勝手に腑に落とさせている。その無数の繰り返しで社会は形成されている。カオスそのものは、それで一定の秩序を保っているというわけだ。

 ラダックに押し寄せるグローバリゼーションの波は、そうした我々が土産話を持ち帰るのと同じ原理で、ラダック人同士の様々な主観を編み合わせ、彼らの生活を形作っている。そこには善も悪もあり、行きつ戻りつしている。だから、一時として同じ形状はしていない。
 つまり、ラダックをこうだと定義することはできない。我々訪問者が見たラダックもラダックの人たちが感じているラダックも次の瞬間には“ウソ”になっているのである。だから「堂々と色眼鏡で見ましたよ」と言い訳がましく言っていいというのではない。あらゆる瞬間がその形成に影響を及ぼし合っているのであり、その一部に紛れなく自分もなっているという自覚は必要なのである。単なる旅人は、社会の形成者でもある。

 だからこそ、私たちは恐れずに先生はこう見てきたよと伝えよう。そして、謙虚にみんなにはどう伝わったかなと問いかけてほしい。これが真実なんだよと下手な客観を伝えるよりも先生はこう感じてきたんだという主観と姿勢をイキイキと見せてほしい
(イキイキではなく、重々しかったり、マジメにだったりしてもいいのだが)
 きっとそれもまた社会を形成していくことになるのだから。

 一泊した尼寺のまだあどけない尼僧たちや「日本やアメリカがどこにあるか分からない」と笑い飛ばした村の女性たち、素性を知らない日本人の悩み事を聞いてくれたシャーマンやオンポ(占星術師)たちもまた不意の交流によって「伝統」と言われるものを変化させつつも、それを連綿とつなげていく責をしっかりと担っていってくれていると信じたい。

※本稿は、国際開発教育ファシリテーター養成コース2013(第10期)の海外開発現場研修報告書の研修総括として掲載された原稿を転載してあります。
 研修に参加してくれた10期生8名の皆さんと企画・引率して下さったジュレーラダックのスタッフの皆さん、そして出会ったラダックの人々ひとりひとりに、学び多き研修となったことに対し心より感謝いたします。

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ラダック訪問記⑧〜旅を終えて

 仕事柄、海外には比較的よく行くほうだ。だから、経験上、それがいい旅だったのか、それほどでもなかったのか、なんとなく判断できる。帰国してからあまり経っていないのに「あぁ、なんかだいぶ昔のことのように思えるな」とふと思い返す瞬間があれば、その旅は非常に濃密な“よい旅”であったと確信する。なぜなら、もし旅を「非日常に身を置くこと」と定義するのであれば、日常が旅と対比され、そのギャップが浮かび上がれば上がるほど、時間の経過は実際よりも長く体感されるものだと思うからだ。帰国から4ヶ月経った今、こうしてラダックへ行った夏を思い起こすとまさにそんな感覚におそわれる。

 拓殖大学では社会人向けの公開講座として「国際開発教育ファシリテーター養成コース」という通年コースを毎年開講している。そして、夏休み期間中には「海外開発現場研修」と称し、参加者を募ってアジアやアフリカのフィールドに出かける。昨年、“幸福の国”と呼ばれるブータンへ赴いたのに続き、今年度の研修をラダックにしたのは、グローバリゼーションの波が押し寄せる中で、「開発」をどう捉えていくかという課題を共通に抱えているからで、参加者のみんなとそのあり方をとことん考えてみたかったからである。

 研修終盤、突き抜けて青いラダックの空のもと、風にそよぐリクツェ村の広場の芝生にメンバー8人でスカルマ氏を囲んで座った。そして、あれやこれやと旅をふりかえる。市民活動をする弁護士やNPOスタッフとの対話、尼寺での滞在、レーの私立学校と村の公立学校訪問、SECMOLの持続可能な生活、そしてリクツェ村の人々とのふれあい。そうした貴重な種々のアプローチでラダックの姿をより立体的に見せてくれたスカルマ氏、加瀬氏をはじめとするジュレーラダックの皆さんに感謝している。

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 ただ、今夏ラダックを訪れた我々8人が明確な解答に辿り着いたわけでは決してない。つまり、ラダックの人々を私たちの日常とのコントラストとして見てはいけないのであって、それは私たちの課題としても日々思い、考え続けていかなければならないことに気づかされたからである。だいぶ昔のように思えるなと感慨に耽ると同時に、自分事として考えていかなければならない宿題をいただいたとも今改めて思っている。

※本稿はNPO法人ジュレーラダックのニュースレターに掲載されたものを一部修正して転載しています。

2013年12月29日 (日)

ラダック訪問記⑦〜グローバリゼーション

 今回の研修はグローバリゼーションと開発の問題を考えにきたと言っていい。それは「観光」ではきっと分からないのだろうから、僕らは悪あがきに「スタディツアー」と銘打ってなんとか答えに辿り着きたいと思っていた。そういう点で、レーから車で何時間も揺られ、リクツェ村で4日間のホームステイをしたことの意味はある。
 ただ、彼らと
(わずか4日間ではあるが)寝食を共にして感じたのは、グローバリゼーションの波に侵されているような、いないような…といったつかみどころのものなのではあるが。

 興味深かったのは、リクツェ村滞在最後の夜に村の人が総出で集まってくれて、男性グループ、女性グループ、若者グループ、そして我々の四者でディスカッションをしたことである。Img_6300

 「今一番欲しいものは?」と問えば、女性たちは「お金!」と遠慮なく言い、「だって教育費にお金がかかるし、旦那は収入がないし(笑)」と笑い飛ばす。一方、男性たちは「お互い助け合いでやっているので、お金は必要ない」と言い張る。でも少し間を置き、「でも、これからはお金が必要になってくるかも…」とも言い加えた。
 若者は率直に「車、パソコン」と答えた。

 「いろいろ社会が変化していく中で、これから家族の関係はどうなっていくのだろう?」という疑問には、意外にも若者が口火を切って「今のままであってほしい」と言い、大人たちは「いや、崩れているだろう」と案じる。それでも若者は「いやいや、そうなってほしくはない。どうなるかは自分たちの手中にある」とも力強く言った。そんな宣言ともとれる若者の決意めいた言葉を尻目に、女性たちが「でも私たちゃ、もう生きてないね」とやはり笑い飛ばして、最後、持っていってしまう。

 この時間の結論。グローバリゼーションの行き着く先は“女性の時代”ということである(笑)。

 途中、「東京のように時間に追われる生活をどう思うか?」という問いも参加者から投げられた。「時間どおりに事が運ぶ日本のほうがいいと思う」と真剣な顔をして話してくれたが、そもそもこのディスカッション、数時間も遅れて始まった。そのことを突っ込むと、「それは言わないで下さい」と村の人たちは苦笑い。
 たしかに、畑仕事が手間取ったのが主な理由なので責めるつもりは毛頭ないのだけど、道路工事には遅れないで行っているとのこと。

 前にブログでも少し触れたが、ここは経済的な発展に伴い、中心地レーから舗装された道路が延びようとしてるところであるとともに、地政学上も非常に重要な経路となっており、政策的に道路建設が行われているのである。移動中、何度も道路工事の場面に出くわしたのはそのせいだ。

 その道路工事には村人たちも駆り出され、彼らの今の生活を支える大きな収入源となっている。そのことは、もろもろに彼らの生活へ影響を及ぼしてもいる。
 ディスカッションの中では「8時に迎えにくる車には遅れないで行っている。遅れたら給料から割り引かれるから」と話していた。また、今まで心配することのなかった泥棒が出るかもしれないということで「鍵をかけるようになるかも」とも話していた。人の行き来も増えるから、これ好機と「
畑をもっと開拓して、稼ぎたい」と言い、「でもマーケットがないからそういう場も欲しい」と惜しげに話してもいた。
 彼らの心中は微妙に揺れ始めている。

 朝のジョギング中に見つけた岩肌にあった落書きにはこう書かれていた。

 "LADAKH IS THE PRIDE OF OUR COUNTRY"

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 ガイドのスカルマさんに聞けば、これは落書きではなく、日本で言うところの国交省のようなところが描いた標識みたいなものらしいが、それでもラダックの人たちの心情そのものでもあると思う。それはいろいろな意味で。

 彼らは決して自分たちのことを“インド人”とは言わず“ラダッキー”なのだと言う。
 ホームステイ先にあったカレンダーを覗いたら8月15日のところに"Independence Day"とあったので、「この日は村でお祭りでもするの?」と聞いたら、「何もしないよ」と素っ気なく答えられた。18年前に訪れたインド・カルナタカ州の村では盛大なお祭りをしていたのに、だ。

 道路や家の建設でネパールから出稼ぎに来ている人ほどガツガツ働きはしない様Img_6078子を「どうしてか?」と聞けば、「ラダッキーはLazy
(怠惰)だから」と彼らを横目に言う。(左写真は、出稼ぎのネパール人たちが建てているホームステイ先の新居)
 これは、昨年言ったブータンでも全く一緒で、出稼ぎの人たちに対して自分たちをLazyと
謙遜であるのか言っていた。それは自分たちのこれまでの生き方を曲げたくないというプライドでもあるように私には聞こえた。

 だから、あの岩肌にあった言葉はラダックの豊かな自然資源を謳ったものではあるのだろうが、私には複雑に、そして意味深げに映ったのだった。
 
 ラダックを後にして、乗り換えのデリーのホテルでおもむろにテレビをつけるとCNNのニュースが流れていた。奇しくもそこではラダックの道路建設のことを特Img_6474集しており、見覚えのある風景をバックにレポーターが話している。
 その特集のタイトルは"Road woes in Ladack" 
 意訳すれば「延伸する道路がもたらすラダックの苦悩」といったところか。

 その道はどこへ続いていくのだろうか…。

 ラダックの未来は僕たちの未来とも重なるのだと思うと、その道がどこに繋がるのか、他人事とは言っていられないのだろう。

【参考】
JICA's World 2013年7月号 「太陽光で自然に優しい生活を」(NPO法人 ジュレー・ラダック)
http://www.jica.go.jp/publication/j-world/1307/ku57pq00001f7taf-att/04.pdf
※ラダックでは、ジュレーラダックの協力のもと、新しい開発のあり方として自然エネルギーの利用も進められている。

2013年12月27日 (金)

ラダック訪問記⑥〜伝統文化

Img_5974_4  前回ブログは携帯を手にする尼僧の話で終わった。たしかに街に下れば、道路沿いに通信会社とおぼしき会社の店舗や看板がやたら目につく(ラダックでは右写真のair telという会社が特に目立った)。この傾向は一昨年行ったアフリカ・ウガンダでも変わらない。
 今、グローバリゼーションの波が押し寄せないところは地球上にはないのだと思う。

 例の尼僧とガイドのスカルマ氏を介して少し話をしてみた。
 「この生活はどう?」と聞くと、「スキッポ(幸福)」と即座に返事が返ってきた。すぐには解せず「どうして?」と立て続けに聞くと、「(宗教の)教えを学べるから。苦からも逃れられるし。そして生きとし生けるもののためになれる」とこれまた考える風でもなく間髪入れずに返答があった。きっとそれは常に頭の中に留め置かれていることで、彼女が尼僧になろうと決断した理由でもあったのだと思う。

 彼女たち尼僧の言動には「宇宙に幸せはない、永久な幸せはない」という
思想が根底にある。だから、日常にはびこる苦から逃れるために尼僧になるのだ。規則正しい(と言えば聞こえがいいが“まるで変わりのない”)生活が何年も続くことは我々にとって苦行にも思えるが、彼女らにしてみれば幸せになる一方法であり、極めて合理的な決断だったのだ。
 スカルマさんの話によれば、尼僧になる子は近年増えていて、その背景には社会にストレスが増えていることがあるのだろうということだった。前近代的にも見える尼僧たちの生き方は、実は現代のトレンドであったのだ。

 それでもラダックにはしっかりと伝統は根付いたままにもなっている。特に、シャーマンやオンポ(占星術師)の存在が未だあり、それらが煙たがれるものではなく、生活やコミュニティの一部として位置づけられていることは、
貴重である(と我々は思ってしまう)
 現代のあり方を“通常”としている我々日本人旅行者ご一行は、その“非日常”が摩訶不思議にも思え、「もし彼らの生活を乱すことにならないのであれば、一度会ってみたいのだが…」と遠慮がちにスカルマ氏に聞いてみたら、すんなりと「アレンジしましょう」と言ってくれた。あまりの呆気なさに、私たちが警戒する以前に、そこに垣根を設けることのほうがおかしな話なのだと気づかされた。シャーマンにせよ、オンポにせよ、彼らの範疇は時空を超えた宇宙なのだから。要は、彼らの前に立つ我々が彼らの存在に敬意を払えるかどうかだけなのだ。

※下写真の左は、リクツェ村のシャーマンとその啓示を受けるツアー参加者。脇でコーヒーカップを持っているのはガイドのスカルマさん。かなり真剣にやってもらっている空気の横でくつろぐスカルマさん(ラダック出身)。そのコントラストが日常的であることの証左か!?
右はオンポの家でみんなの悩み事を占ってくれている様子。祭壇にはダライ・ラマ法王の写真が掲げられていた。


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 とはいえ、ツアー参加者から出たものの大半は、恋人ができるかとか、結婚生活がうまくいくかとか、次期選挙で当選するか
(参加者のひとりに地方議会議員がいました)など。なんとも俗っぽいこと、極まりない(笑)。
 ただ面白かったのは、占う前に「いやぁ、年上はダメでしょ」「お金を積めば問題ないよ」などと個人的な意見が挟まれたこと。その俗っぽさは日本人以上だった。

 こうした矛盾やカオスは最高である。やっぱりラダックは面白い!

2013年12月25日 (水)

ラダック訪問記⑤〜尼寺にて

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 結構、今の職業を気に入っている。理由は生活のリズムが“不規則”だからだ。

 そもそも大学の教員などというものは偏屈な個人店主がやる自営業のようなもので堅気の職業とは言えない。それでも講義があるから、それなりにリズムがあるのだが、その講義も年内は先週で終了し、とりわけ今は自由業気取りである。

 昨日は娘の迎えもあってのことだが、3時過ぎに帰宅しようとすると、車中は朝とはまるで違う風景となり、終業式を終えたのであろうか、閑散とした車内に浮かれ騒ぐ女子高生たちの声が響く。電車から降りれば、漂う空気も届く光も「いつもと違う」と一瞬にして体感された。それらは人の速度と比例して作られるようでもあり、そうしたメリハリを体は時々欲しているのではないかとも感じるのだ。だから、こんな時の駅から家までの数分は至極幸せな時間になる。

  しかし、あの子たちは違った。まるで逆のことで幸せを感じている。
 今夏訪れたラダックでは一晩だけ尼寺に泊まらせてもらった。そこで出会った尼僧たちの一日は決まり事に“支配”されている。そして、それが何年も繰り返されていくのだ。
 
見れば、小学校低学年ほどの年齢の子もおり、ということは、ほぼ一生、この極めて規則的な生活が続いていくことになる。
(※下記写真:朝起きてまず顔を洗い、歯を磨く。この後、中で五体投地や読経が行われた)

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でもそれが不幸せなことだとは感じていない。彼女たちは幸せになるための手段として尼僧になることを決めたのだ(「決めさせられた」のかもしれないけれど)
 僕たちは“変化すること”を幸せだと思い、彼女たちは“変化しないこと”を幸せだと思っている
(「幸せ」の言葉を「自己実現」に置き換えてもいい)。生き方とは実に多様で、時に真逆にさえなるのだと彼女らに教わった。だから前回のブログで書いたことに引き続き)「イキル」の意味がますます分からなくなる。

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 そんなことを想っていると、目の前の尼僧がおもむろに裾から携帯を取り出し、誰かに電話をかけている。これで「イキル」がからっきし分からなくなった…(笑)。

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 こんなコントラスト、矛盾、混沌があるからラダックの今は面白い!

※現地でアップできず、こんな年の瀬までまとめるのを延ばしてしまったので、一年のまとめと反省を兼ねて、「ラダック訪問記」の続きをどうにか年内に書き切ろうと(は)思っています。