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日記・コラム・つぶやき

2014年8月31日 (日)

スリランカ訪問記その4〜旅を終えて

 今回の研修の目玉には、スリランカ最大のお祭り「ペラヘラ」鑑賞がひとつあった。言ってしまえば“観光”であって、“研修”においてそれを目玉に据えるというのは「お遊びではない!」と叱責を受けそうだが、言い方を変えれば「他国の文化見学」なのである。

 勉強した証にその歴史を少し記そう。言い伝えによれば、入滅した仏陀の遺骨はインド各地に分骨されたのだそうで、そのうちの犬歯が、紀元前4世紀、インドのカリンガ王の娘がスリランカのシンハラ王家に嫁いだ際、結い上げた髪にお守りとして忍ばせられ、スリランカに渡ってきたのだという。その犬歯(仏歯)は、王朝が遷都を繰り返すたびに転々と移動させられるが、キャンディに遷都した際(1592年)、仏陀の犬歯を祀るための仏歯寺が建立され(1603年)、これまで崇められてきた。そうした歴史の中で、仏歯を崇める習慣やお祭りがスリランカで生まれ、そのひとつがペラヘラ祭りなのである。

 ペラヘラとはシンハラ語で「行列」を意味する。実に興味深いのは、仏歯が納められている(という)舎利容器を背に載せた象の後を、ヒンドゥー教のご神体を載せた象たちの行列が続いていくことだ。つまり、このお祭りは仏教とヒンドゥー教のミックスなのだ。しかも、その行列ごとに微妙に踊りや太鼓のリズムが違い、民族・地域ごとの特色を表している。まさにこの多様性と寛容さこそがスリランカなのである。

 ただ、このために津々浦々から集まるスリランカ人(プラス世界各国から見物に来る観光客)で埋まる祭りの異様さは、荘厳というよりは喧騒でもあり、この豪華絢爛ぶりが権力の象徴であったのだろうと思わずにはいられない。

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 この研修中に感じたのは、物価の高さと中国の台頭である。以前であれば、アジアを旅するのに、ケチケチ値切りはするものの、結局はあまり値段を気にするようなことはなく、食事も子どもの小遣い程度でお腹いっぱいになったものだった。しかし、(観光地であったからでもあるが)物価は日本とさほど変わらないと思うことが多かった。世界のあちこちで中国のプレゼンスを感じるのは、もう当たり前で改めて驚くことはない。ただ、これも自分が海外に行くようになった20年ほど前では感じ得なかったことだ。

 一方で、訪れた孤児院で出会ったのは、多くが貧困を理由に手Img_8774 放された子どもたちだった(つまり親と死別したわけではない)。やはり、変化の見えるスリランカにおいても貧富の格差は一向に縮まらないという状況を打開できていない。変わりゆくものと停滞しているものともまた混在しているのが、スリランカである。
 研修終盤で訪れた世界遺産・シギリアロックは圧巻だった。それは、その景色に対してばかりではなく、およそ200mもの高さにある岩の塊に要塞の如く王宮を築いた人間の強欲さに対してもである。その頂から眺めれば、今に至るまで人類はこうまでして所有したいという青天井の欲望を抱き続けてきたのかと摩訶不思議に思えてならない。その思いと突き抜ける空の青さもまた奇妙なコントラストを描いていた。

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2014年8月 2日 (土)

スリランカ訪問記・その1〜成田空港でおもふ

 今、成田空港の86ゲート前でスリランカ行きの便を待っている。もう1時間ほどで機上の人となる。

 ありがたいことに、毎年この時期、海外研修の引率で日本でないどこかへ“シゴト”で行っている。一昨年はブータンで、昨年はインド・ラダック。どちらもグローバリゼーションの押し寄せる波に抗っているところである。そこに住まう人たちが実際に何を選び、何を良しとしているのか見てこよう、つまり「開発のあり方」を考える研修という位置づけだ。そう書けば大学の教員らしい“シゴト”に聞こえるが、やはり、酷暑の日本を離れ、海外に“退避”するのは「いいなぁ〜」と言われてしまう(特に妻に(笑))。

 成田空港に向かうスカイライナーでぼんやり窓外を眺めていると、微妙な速度で在来線を追い越していった。微妙な速度ゆえに、しばらく並走し、向こうの車両の人たちの様子が明瞭に見える。通勤中と思われる疲弊気味のサラリーマンを眺めれば、卑しいのだが優越感を覚える。

 旅に出る者とシゴトに向かう者は、一方はホッとリラックスし、一方は憂鬱さを滲ませる。日常から離れることで人は癒され、日常に身を置くことで何かがすり減らされていく。

 果たして、これっていいことなのだろうか? 日常を離れなければホッとでいない生き方というのは、なんとも皮肉ではないだろうか。
 旅をすると、いつもこの矛盾にさいなまれる。日常を旅として、旅を日常とすることだってできるのではないか? 非日常だけが「旅」であっては、ドキドキワクワクは旅の特権になってしまう。

 成田空港の広い空を見ていると、この昂揚感をふだんも感じてみたいとも思うのだ。

 さぁ〜て、そんな思索に耽りつつしていると、搭乗時刻がまもなくとなる。今回、旅するこの面々と、どんなことを感じてこられるのか、とにかく楽しみなのである。


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2014年2月23日 (日)

浅田真央狂想曲

 ソチ五輪が終わろうとしている。
 終盤に来て、メダル獲得数が話題に挙がる中、唯一、例外に無冠に終わった浅田真央の最後の演技が称賛を浴びた。

 ショートプログラムでの16位スタートは、誰も想像だにしなかったことだが(もちろん当人でさえ)、これは“浅田真央らしく”有終の美を飾るための神様からの贈り物だったのではないだろうか。決して試練なんかではなく。

 わずか14歳で、シニアの国際大会で鮮烈デビューし、その年、グランプリファイナルでも優勝をさらっていった。その時の彼女は怖いもの知らずで、まさに天真爛漫の演技だったことを覚えている。周囲が天才少女と騒ぐのよそに、ただただ無邪気にリンクを舞っていたのがとても印象的だった。

 が、彼女は“成長”する。大人になるということは“恐れ”についてのセンサーが働いていく過程でもある。恐怖を徐々に感知するようになり、とうてい14歳の頃と同じように無邪気には踊れなくなっていった。
 同年代として常にライバル視された金妍児が、その大人になる過程を“ギラギラさせていく”ものとしてうまく成長していったのとは対照的に。
(ただ、その金妍児もバンクーバーの時とは違って、ソチでは輝き切れていないように見えた)

 世間は、いつしか浅田に金メダルとトリプルアクセルを要求していく。しかも、14歳でマスメディアに登場するようになった時と同様のあどけなさも重ねあわせて、“真央ちゃん”と呼びながら。そうしたアンビバレントな難題をずっと突きつけてきたのだ。
 否、そんなことはなかったのかもしれないが、少なくとも浅田本人はそれを意識せざるを得なかっただろうし、振り払おうとすればするほどそこに取り憑かれていった。

 そうした呪縛から解き放たれるためには、メダルにはとうてい届かず、ファンが失望落胆する「16位」という思いがけない結果が必要だったのだ。それは、悲劇ではない。浅田が心置きなく踊れる最後の舞台を神様が用意してくれたのだ。
 彼女がフリーの演技を終えた後、「自分が目指しているフリーの演技ができた」と言葉にしたのは、もしかするとあの無邪気なままの浅田らしいスケートを思い出すことができたという意味なのかもしれない。

 彼女が現役最後に選んだのはラフマニノフのピアノ協奏曲第2番。周りを気づかう浅田が恩返しとして滑った「協奏曲」ではなく、これからは形式にとらわれない自由気ままな「狂想曲」を滑ってほしいと個人的には思う。
 彼女は金メダルを取るために生まれてきたのではない。

2013年12月31日 (火)

ラダック訪問記⑩〜おまけの番外編

 「おまけの番外編」で『ラダック訪問記』シリーズをしめたいと思う。暮れ行く一年とともに。Img_6434

 ラダックを後にした我々は、ヒマラヤに連なる峰々を超え、インド・デリーを経由して帰国の途に。

 デリーでは、著名な環境活動家であり、思想家でもある、あのヴァンダナ・シヴァ氏に会うことができた。あれほどの方から直接話を聞き、質問できるという機会は千載一遇のチャンスである!
(そうした場をセッティングしてくれたスカルマ氏には本当に感謝したい)

 食事を一緒にとる僅かな時間だけではあったが、そこでのやりとりは
、この研修の大きな土産のひとつとなった。強大なグローバル企業や自由貿易に対し、固有種、在来種の保護に市民レベルで抗ってきた彼女が“重要なこと”としてきたことは次のことである。

・誠意をもって取り組むこと
・社会運動には時に科学的裏付けも必要であること
・みんなで同時にひとつのことに力を注ぎ込むこと
・どんな馬鹿げたことと思われることも継続させて、当たり前にしていくこと

 その上で「何年かかっても恐れずにやる」ことと「認識することが変化につながる」ことを強く私たちに訴えかけた。
 どこの馬の骨だか知れない連中だろうがなんだろうが、自分の信念を共有してくれるのであれば、寸暇を惜しまず、そしていつでも同じテンションで話すだろう彼女の姿勢に偉大さを感じた。

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 気を良くして、さらに帰国の途を進める。
 が、アクシデントはここから起こる。むしろ、こここそが研修のクライマックスだったのかもしれない…。

 デリーの空港に着くと、日本航空の直行便に何人か乗れそうだという話をカウンターのフロアスタッフから持ちかけられる。旅も終盤で疲れが溜まり、体調不良の参加者がいたので彼らに優先して乗ってもらうことにした。さらに追加で乗れるということで、特に急ぐ用事もないすこぶる健康な私を含む4名を残し、他のメンバーはデリーの空港を発っていった。

 「ま、ちょっとアンラッキーだったね。でも、もともとの便に乗れるわけだから」ぐらいにしかこの時は思ってなかったが、さらにそれが不運を呼ぶ。

 乗り継ぎの上海で時間になっても成田行きのアナウンスが鳴らない。十分な説明もないまま待たされた上、聞こえてきたアナウンスは「成田行きは今日は飛ばない」。その不適切な対応と不遜な態度に我々ならず、同乗する他の客も暴動が起きそうな空気になったが、彼らの言うなりになるしかここでは生きていく方法がない。さらに長時間、空港内をあちこち移動させられた上、結局、収容車のようなバスに乗せられ、どことも分からぬ土地を移動し、とても寂しいところにポツンとあるホテルに一泊させられた。
 そこでの生活はまるで軍隊のようであった。

 食事は一列に並ばされ、お代わりをしようと思えば怒鳴られた。明朝何時に出発か聞けば、まだ分からないと曖昧にされ、部屋は強制的に二人一組に。我々は男3名、女1名の構成だったから、私は男部屋の床に寝る羽目に…。

 朝は朝で、突然6時ごろに叩き起こされ、あと30分後に出発!と。しかもそれが中国語で伝えられる。
 とにかく服を着て、荷物を持ってロビーに降り、またも収容車に乗る。朝食も出ていたが、ほとんどの人はそれに手をつける元気もなく、文句タラタラに空港へ向かった。

 そんな“オプショナルツアー”がおまけでついた4人は“戦友”となった(笑)。
 それもまたいい思い出で、私の2013重大ニュースにランキングされることとなったのであった。

 2014年が皆さんにとって良い年となりますように…

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※上写真は一日遅れでなんとか無事到着した成田空港にて、“戦友たち”と。

2013年12月30日 (月)

ラダック訪問記⑨〜旅を終えて(その2)

 総括しろと言われると毎回同じことを報告書に書いてしまう。スタディツアーはどこまで意味があるのか、と。

 おおよそ10日間だけの滞在で「分かった」と言うのはとてもおこがましいし、現地の人たちが“いつも通り”に接してくれているとは限らない。大抵、私たち訪問者はお客様扱いされ、彼らにとっても特別な日々とされたものを共有することになる。私たちが混じり気のない日常に接することなど土台不可能で、知った気になってはいけないのである。
 ただし、知った気にはなっていけないが、その経験を話してはいい。色眼鏡で見ましたよ、と堂々と。

 偏見や先入観で見ることは良しとされることはまずない。しかし、普段、人は
(無責任に)堂々と主観を交じり合わせ、それを自身の中で編集し、勝手に腑に落とさせている。その無数の繰り返しで社会は形成されている。カオスそのものは、それで一定の秩序を保っているというわけだ。

 ラダックに押し寄せるグローバリゼーションの波は、そうした我々が土産話を持ち帰るのと同じ原理で、ラダック人同士の様々な主観を編み合わせ、彼らの生活を形作っている。そこには善も悪もあり、行きつ戻りつしている。だから、一時として同じ形状はしていない。
 つまり、ラダックをこうだと定義することはできない。我々訪問者が見たラダックもラダックの人たちが感じているラダックも次の瞬間には“ウソ”になっているのである。だから「堂々と色眼鏡で見ましたよ」と言い訳がましく言っていいというのではない。あらゆる瞬間がその形成に影響を及ぼし合っているのであり、その一部に紛れなく自分もなっているという自覚は必要なのである。単なる旅人は、社会の形成者でもある。

 だからこそ、私たちは恐れずに先生はこう見てきたよと伝えよう。そして、謙虚にみんなにはどう伝わったかなと問いかけてほしい。これが真実なんだよと下手な客観を伝えるよりも先生はこう感じてきたんだという主観と姿勢をイキイキと見せてほしい
(イキイキではなく、重々しかったり、マジメにだったりしてもいいのだが)
 きっとそれもまた社会を形成していくことになるのだから。

 一泊した尼寺のまだあどけない尼僧たちや「日本やアメリカがどこにあるか分からない」と笑い飛ばした村の女性たち、素性を知らない日本人の悩み事を聞いてくれたシャーマンやオンポ(占星術師)たちもまた不意の交流によって「伝統」と言われるものを変化させつつも、それを連綿とつなげていく責をしっかりと担っていってくれていると信じたい。

※本稿は、国際開発教育ファシリテーター養成コース2013(第10期)の海外開発現場研修報告書の研修総括として掲載された原稿を転載してあります。
 研修に参加してくれた10期生8名の皆さんと企画・引率して下さったジュレーラダックのスタッフの皆さん、そして出会ったラダックの人々ひとりひとりに、学び多き研修となったことに対し心より感謝いたします。

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2013年12月25日 (水)

ラダック訪問記⑤〜尼寺にて

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 結構、今の職業を気に入っている。理由は生活のリズムが“不規則”だからだ。

 そもそも大学の教員などというものは偏屈な個人店主がやる自営業のようなもので堅気の職業とは言えない。それでも講義があるから、それなりにリズムがあるのだが、その講義も年内は先週で終了し、とりわけ今は自由業気取りである。

 昨日は娘の迎えもあってのことだが、3時過ぎに帰宅しようとすると、車中は朝とはまるで違う風景となり、終業式を終えたのであろうか、閑散とした車内に浮かれ騒ぐ女子高生たちの声が響く。電車から降りれば、漂う空気も届く光も「いつもと違う」と一瞬にして体感された。それらは人の速度と比例して作られるようでもあり、そうしたメリハリを体は時々欲しているのではないかとも感じるのだ。だから、こんな時の駅から家までの数分は至極幸せな時間になる。

  しかし、あの子たちは違った。まるで逆のことで幸せを感じている。
 今夏訪れたラダックでは一晩だけ尼寺に泊まらせてもらった。そこで出会った尼僧たちの一日は決まり事に“支配”されている。そして、それが何年も繰り返されていくのだ。
 
見れば、小学校低学年ほどの年齢の子もおり、ということは、ほぼ一生、この極めて規則的な生活が続いていくことになる。
(※下記写真:朝起きてまず顔を洗い、歯を磨く。この後、中で五体投地や読経が行われた)

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でもそれが不幸せなことだとは感じていない。彼女たちは幸せになるための手段として尼僧になることを決めたのだ(「決めさせられた」のかもしれないけれど)
 僕たちは“変化すること”を幸せだと思い、彼女たちは“変化しないこと”を幸せだと思っている
(「幸せ」の言葉を「自己実現」に置き換えてもいい)。生き方とは実に多様で、時に真逆にさえなるのだと彼女らに教わった。だから前回のブログで書いたことに引き続き)「イキル」の意味がますます分からなくなる。

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 そんなことを想っていると、目の前の尼僧がおもむろに裾から携帯を取り出し、誰かに電話をかけている。これで「イキル」がからっきし分からなくなった…(笑)。

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 こんなコントラスト、矛盾、混沌があるからラダックの今は面白い!

※現地でアップできず、こんな年の瀬までまとめるのを延ばしてしまったので、一年のまとめと反省を兼ねて、「ラダック訪問記」の続きをどうにか年内に書き切ろうと(は)思っています。
 

2013年12月13日 (金)

ブログ再開に際し…

 前回書いたブログが8月31日だったから、もう季節はひとつ飛びに冬になっている。そんなにサボっていたつもりはないのだが、人の意識とはそんなものである。一年の計は元旦にあり、と誓いを立てても、まったく何もしないまま大晦日を迎えるなんてことはありがちな話だ。なにより自分の英語学習なんぞはその最たるものである。毎年、12月31日にはペラペラになっているはずなのだが、そうなった試しがない。そして1月1日に神社で手を合わせ、また祈るのである、「ペラペラになれますように」と。
 日常に流されるのはいともたやすいことなのである。

 9月に授業が再開し、バタバタしつつ、なんとか体裁は保って仕事はこなしてきたつもりだ。それでも
例年どおり!?“自転車操業”であったことにはちがいない。
 
加えて、妻の妊娠が夏に分かると間もなくして、第一子の時と同様、ひどい悪阻になり、ほぼ4ヶ月間、寝たきりとなった。一切合切の家事を切り盛りせねばならなくなり(夕飯は義父母宅でお世話になりましたが。多謝!)、朝などは、朝食の支度、洗濯、洗い物、保育園の連絡帳記入、送迎などなど本当にあっぷあっぷだった。「いやぁ、まったく休みがなくて…」という日本人特有の“忙し自慢”だけはみっともなくてしたくないのだが、事実、週末が予定で埋まることも多く、家族には悪いことをした。
 とりわけこの12月上旬には大きな仕事が重なり、その準備にてんてこ舞いだったが、水曜日にその山を越え、やっと一息つけることとなった。今晩は職場の忘年会があり、もうすっかり年忘れモードである。
 というわけで、久々のブログ再開!という気になったのだ。
(相変わらず前置きが長い…)

 けども、ブログ再開はショッキングな話から始めなければならない。

 木曜日は講義のない日で、家族サービス
(という言葉は好きでないが)や地元の活動に基本充てている。昨日も週に一度連れて行っている野外での自主保育へ娘をまず送らねばならなかった。その道中、「いつもの場所へは行かず、近くのK氏宅に集合してくれ」と携帯に緊急の連絡が入った。その慌ただしさといつにない声色から、そして「そこに子どもたちは決して近づかせないように!」と暗に匂わせる電話にただならぬものを感じざるを得なかった。

 私たちが自主保育をやっている場所は「果樹園」と呼ばれている。ディズニーに出てくるような小人たちが住んでいてもおかしくない
“小さな森”といった具合のところである。そこはK氏が中心となり、間伐材で遊具をつくったり、竹で大きなドームを組んだりして、子どもたちの格好の遊び場となっている。週末にはフリーマーケットをすることもあり、地域で活動している人たちの憩いの場ともなるところである。

 その果樹園の中ではなかったのでまだよかったのかもしれないが、その脇を流れる小川の川縁で首つり自殺があったのだ。
 見れば、30歳前後の若めの男性で、木の下には彼の物と思われるバッグが置いてあった。

 保育をお願いしているH氏がその第一発見者であった。彼女は、すぐに110番通報し、その後、我々のところに先ほどの緊急連絡が回ってきたというわけである。
 そんなことは(当然)つゆ知らず、K氏宅に集められた子どもたちは、普段どおりに無邪気に遊び始めているからH氏にはそっちへ行ってもらうことにし、というか、そもそも「震えが出てきた」と動揺し始めてもいるので、K氏と私とで現場の対応をすることになった。

 先回りして電話で警察に現場の様子を伝えているK氏の後を追っていくと、程なくして鳴り響くサイレンが近づき、まずは消防車で緊急救命士たちが駆けつけた。その後、近所の交番のお巡りさんも加わり、改めて情況を説明することになった。

 自主保育が始まるのは9時だから、H氏が発見したのはその少し前である。決して人通りが多いところではないが、それでも
K氏の話では朝には散歩する人がそこそこいるし、車の通行だってそれなりにあるらしい。なのに、太陽がかなり昇ったその時間帯まで発見されなかったのは不思議である。「なんでだろう?」とK氏とも話をした。
 たしかに、川は道路下を流れているし、ガードレールが視界を若干遮ってもいる。実際、救急車が辿り着く前、私の横をジョギングする男性がいたが、気づた素振りもなく
通り過ぎていったそれでもH氏が第一発見者になることはなかったように思う。

 なにも現代人の無関心を非難しているわけではない。さすがにその現場を発見し、110番通報せずに放っておく人はいないだろう。本当に気づかなかっただけなのだ。
 その首を吊った若者がどんな思いでそうする決意をしたのか、想像することなどできないが
、何時間もその状態であり続けねばならなかった彼に憐れみを覚えてしまう。死んでしまっては、それも意味のないことであると分かっていても…。

 しばらく経って、鑑識の人たちが到着し、彼らと入れ替わり、自分はその場を去った。
 すぐに大通りに出るのだが、すれ違う車中にいる人たちは何食わぬ顔をしてハンドルを握っている。

 当たり前だ。
 当たり前ではあるが、彼らの肌のすぐ外でそうした“一大事”が起こったことにまるで気づいていないことは、たまたまふたつを知った自分にとっては違和感がありすぎた。

 奇しくも今週講義した社会学で取り上げたテーマは「自殺」であった。
 日本には年間3万人ほどの自殺者がおり、その自殺率はOECD諸国の中で男性は3位、女性は2位となっている。
こうした数字は“自殺大国”と言われる所以となっている。
 もしその人たちが自殺せず、普通に暮らしていたならば過ごしていたであろう年数を合算すると85万年分に相当する。この数字にあまり意味がないことは重々承知している。それを“失われた”とするのは生きている者サイドの視点にすぎないのだ。そう思うと「イキル」と「シヌ」の差はどれほどのものなのかますます分からなくなる。

 ブログを通して彼の死を想い、せめてもの供養になればと思う。偽善なのかもしれないが。

 合掌。

【参考】
"Saving 10000 Winning a war on Suicide in Japan(自殺者1万人を救う戦い)"
 http://www.saving10000.com/ja/
 ※これは社会学の授業で見せたドキュメンタリーです。

2013年8月31日 (土)

映画『陸軍登戸研究所』

 仕事で写真係を任されることがあるのだが、もっとかっこよく撮れないものかとほとほと嫌になる。というのも、以前、写真教室に通っていたことがある分だけ、そうでない人となんら変わらない程度の写真にしかならないことに嫌気が差すのである。もうだいぶ大昔のことなので、「腕が鈍った」ということにしてもいいし、デジカメの登場する前の話でそもそも技術が違うのだということにしてもいい。そんなことは言い訳にもならないことは重々承知だが、いずれにせよ、もろもろの記憶がおぼろげになるほど前の話なのだ。

 その写真教室
の旧知から映画に行かないかと誘いが来た。「楠山さんが映画を作ったみたいだから観に行ってみないか」というのだ。
 楠山さんとは、当時私たちが通っていたPARC(アジア太平洋資料センター)というNPOが開講していた写真教室の講師で、好々爺然という風をしていた。ただ、ジャーナリストとしての厳しい眼差しを覗かせることも時折あり、彼がPARCというところで講師を務める意味がその時分かるのだった。それは自分が青二才なのだと知らしめてくれることでもあった。

 彼が映像を撮るということは聞いてはいたが
(日本映画学校の講師をしていたとも聞いていたし)、映画館で上映するような映画になると聞けば、さすがに足を運んでみようかなとも思った。
 映画のタイトルは『陸軍登戸研究所』。アメリカ本土への風船爆弾を開発したところとして知る人もいると思うが、そればかりでなく、秘密戦・謀略戦の兵器開発基地として殺人光線や毒物・爆薬の研究、生物・化学兵器の開発、偽札製造を進めるところでもあった。近代的な戦争においてなくてはならないものとされていく一方で、実際には“ないもの”ともされていた場所である。

 映画は6年もかけて製作されたということもあり、上映時間180分という大作となっていた。多くの証言者の協力を得て完成に漕ぎ着けたそれは、「編集」という機械的な作業によって削ることを余儀なくされるわけだが、幾星霜を経た証言はそれだけで貴重で、断腸の思いであの作品になったのだと思われる。

 “多くの証言者”とは書いたが、それはあくまで映画に登場する人物の数としては一般的に“多い”というだけで、未だ話せないおびただしい数の人がいるにちがいない。映画は、それを承知の上で、幾ばくかを結晶させたにすぎない。それでも「記録」できたことには大きな意味がある。“未だ話せない人”の中には、墓場までそれを持っていき鬼籍に入ってしまった人のほうが大多数だろうと推測されるからである。

 だからなのか、映画に登場する“話せる人たち”はむしろ屈託がなく、明るさすら感じることが多々あった。特に、研究所で働いていた女性たちや風船爆弾製造に動員された当時の女子学生たちは、結構あっけらかんとしていた。

 「所長の布団を敷きに行ったら、戦時中なのに羽毛布団だった」
とか、「貧血を起こして泊まらされたら、嗅いだこともないいい匂いがしてきた。軍人さんは、日中、あんな怖い顔して私たちを管理しているのに、夜はドンチャン騒いでいるようなら、この国はきっと負けるだろうなと思った」とか、はたまた「恋愛もあったわよ〜」などいう“証言”も飛び出していた。

 その天真爛漫ぶりは、当時15〜6歳だった少女そのものなのかもしれないが、映画に抱いていたイメージとはかなりギャップがあった。
 ただ、だからといって彼女らの証言がウソだとか映画用のものだとか疑うつもりはさらさらない。なぜなら、写真の中の彼女たちは、無垢であどけなく、研究所には「日常」という平穏な空気が流れていなければならなかったからだ。研究所の中にそうした「日常」を作り出しておくことが、彼女らの背面にある塀の向こう側を暗渠としておくことができたのだ。

 映画でキーパーソンとして何度も(名前だけは)登場する伴繁雄氏は、晩年に『陸軍登戸研究所の真実』を上梓した。60歳で再婚した奥さんによれば、その本を書き上げる前と後では、表情がまるで違ったという。出版前、彼は一度も笑ったことはなく、恐ろしくすら感じていた、と笑うようになった写真を差し出しながら言っていた。その「恐ろしく」にはきっといろいろな意味が含まれているのだろう。
 私はその本を読んではいないが、それでも本がすべてではないはずだ。やはり、墓場までもっていったものが結構あるに違いない。彼が幸いにも死ぬ直前に晴れ晴れとできたのは、「言いたいことは言えた」というだけで、彼もまた“話せる人”にはなっておらず、後世に残された我々から見たら“未だ話せない人”というレッテルを貼るべきなのではないだろうか。あくまで独断ではあるが。

 皆さんよろしければ、劇場に足を運んでみてください。(渋谷・ユーロスペースで上映中)

【参考】
朝日新聞夕刊 2013年8月29日「陸軍極秘機関 若者が迫る 『登戸研究所』 偽札・風船爆弾 元所員ら35人証言」
朝日新聞デジタル 8月29日「『陸軍登戸研究所』たどる記録映画 偽札・風船爆弾…
http://www.asahi.com/national/update/0829/TKY201308290033.html

2013年8月22日 (木)

ラダック訪問記④〜高地トレーニング!?

 今回の旅には3つの制限があった。
 
 まずは、前のブログにも書いたが到着当日に敷かれた「戒厳令」。ラダックは3500mほどの高地なので、それに馴化するために「とにかく初日だけはジッとしていてね」とはガイドのスカルマさんの言。それが優しさだと重々承知するのだが、修学旅行でいかに先生の目を盗んで悪巧みをするかという中学生の気持ちが40歳を超えても共感できた。


 2つ目は同じ理由で発令された「禁酒令」。これは初日のみならず、ラダック最後の夜を名残り惜しむパーティーまでお預けとされたので、さすがにこたえた。Img_6278
 実際には村滞在時にたまたま村民の三回忌があり、昼間から振る舞われたチャン
(大麦を発酵させてつくる醸造酒)を一杯いただいたが(右写真参照。要はどぶろくで手前のポリバケツに入っているのがそう)、パーティー前日のことだったので、私の“お酒史”において(闘病期を除く)おそらく最長の禁酒期間となった。

 3つ目が、「ジョギングは止しておいたほうがいい」令!?
 これは上2つほど厳しくはなく、あくまでスカルマさんからの忠告だったので、S氏はさっそく滞在二日目の朝
(つまり「戒厳令」解除すぐ)からジョグしていた。同じく高地だった昨年のブータン滞在時は引率者ということで控えたものの(ブログ参照「GNH:幸福度と真剣度」、S氏に刺激され、自分も村で2度ほど朝にジョギングを試みてみた。今回のブログでは、そのコースをなぞってみて、皆さんにも疑似体験してもらおうと思う。

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 まずはホームステイ先の玄関前。大麦畑の間を清流が流れる堰が一筋。ここで青空を仰ぎながら準備体操。

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 昨晩の交流会で舞踊を披露してくれた村のおばちゃんたちは、朝一番で広場の後片付けをしていた。申し訳なく思いながらも「ジュレー!」と挨拶を交わす。
 この時点では、体を起こすためと馴らすためにまだ優雅にウォーキング。

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 収穫間近で黄金色になった大麦畑の横をまだまだウォーキング。

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 清流が奇麗すぎて見とれる。もちろんまだウォーキング。

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 最初に村の人たちとご対面したところに出る。さすがにそろそろ走ろうという気になり、恐る恐る駆け出す。

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 村の小学校脇の道路。大通りに出るまでは幸いなことに下り坂。だから、意外に行けそうな気になっている。

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 走っているとこうしたストゥーパ(仏塔)にも出くわす。チベット仏教がちゃんと日常の中にある。

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 坂を下りきり、大通りに出ると、濁流のインダス川とぶつかる。

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 山肌が朝日に照らされ始める。この度合いで時間の経過を感じるのがなんともいい。
 ただ、それとは対照的に道路工事のためのダンプが我が物顔で走り抜けていく。ここは地政学上の要衝であり、中国やパキスタンはインドがこの道路を拡張していくことを快く思っていない。
 また、レーから続くこの道は、村の人たちの生活も変えようとしている。それが“良く”変わることなのか、“悪く“変わることなのか、「通過者」である私たちは無責任に予測はできない。

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 スカルマさんが"Local Bridge"と呼ぶところで区切りがいいので折り返し
(ただし、ここはまだ走り始めて1kmほど…)。さすがにこの橋を渡ってみようという気にはならない。

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 振り返って来た道を見るとこんな感じ。ラダックらしい壮観な景色。

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 岩をも貫く落書き? ハートマークを描き、愛を誓うのは万国共通。あらかた成就しないのも万国共通か?(笑)

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 山肌がだいぶ照らされてきている。そんなに距離走ってないのになぜだ? ちなみに時計を見るとキロ6分超のペース。これはサロマ湖100kmウルトラマラソンに出た時の終盤のペースに近い…。

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 皆さんには平坦に見えるかもしれませんが、少々の上りが結構きつい。息もきつい。

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 リクツェ村0km地点(起点)の標識。
 白状しよう。ここに来るまでに苦しくて一度歩いてしまった。

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 もうひとつの橋が見えたので、これまたいい区切りと早くも折り返す。まだ2kmにもなっていない。

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 この橋の脇にもイタズラ描き。見えづらいが、"Always alert AIDS is killer"と。
 意外だったがラダックでもエイズは社会問題になりはじめているよう。リクツェ村の保健センターで聞くと、ここではまだまだのようだけども。

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 畑仕事をしている人たちの牧歌的な風景が苦しさを和らげてくれる。

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 本道から外れて砂利道へ。ホームステイ先へのショートカット。
 このルートは、この前の日に遭った少女から(間接的に)教わった。

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 途中からは砂利道からも外れて、
最短距離で「オアシス」を目指し、崖を昇ることになる。

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 ここが「オアシス」。近くの人が洗濯物などをしに来るところ。ホームステイ先では隣りに家を新築していたが、そこへ出稼ぎに来ていたネパール人も前日ここで歯磨きをしていた。
 この水はうちらも飲めるものでヒマラヤの雪融け水。ひんやりしていて美味い! 「南アルプスの天然水」なんぞ足元にも及ばない正真正銘の「ヒマラヤの天然水」。当然ここでのどを潤し、頭から水をかぶる。
 ただし、走ったのは2〜3kmほどで、時間にして20分弱。これでもういっぱいいっぱい。

 前の日の朝、ここで洗濯をしていたらノートを片手に持つ少女がさっきの崖を駆け上がってくる。「学校に行くの?」と訊いたら、健気に「うん」と頷いてくれた。彼女は毎朝ここを「通学路」として歩いてくるのだろう。
 ほんの一瞬の会話だったがあまりに実直で好印象だったので、思わずカメラを向けた。学校に通う自然な後ろ姿を撮りたかったが、気配を感じたのか、こちらをキリッと向き直し、なおかつ「気をつけ!」をしてレンズのほうに微笑み返した。本当に実直である。

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 ヒマラヤの雪融け水でサッパリした後、家に戻る。部屋に入るまで誰ともすれ違わなかったはずなのに、戻った瞬間、家人が現れ、温かいチャイを魔法瓶で持ってきてくれる。この“温かさ”がすべてに安堵をもたらせてくれる。
 お皿のビスケットは来た時から置きっ放しだが、湿度が低いので、何日経っても一向に湿気らない。

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 次回は、あの少女の通う学校(政府管轄)と他に見学した形態の違う学校2校(私立/NPO立?)について報告したい。

2013年8月17日 (土)

東北勢躍進におもう

 ラダック訪問記は小休止。

 以前、ブログで演歌が好きだ、というようなことを書いたと思う。理由は、歌詞が単純だから。そして、その分かりやすさの魅力、と書いたのではないかと思う。その単純さ、分かりやすさが多くの人の記憶にオーバーラップし、共感を呼ぶのだろう。
 勝手な解釈だが、田舎の人が演歌好きなのは、彼らの思考と演歌のそれが似ているからなのではないか。これはなにもバカにしているわけではなく、そこが私はとても好きなのである
(そもそも私も田舎者だが)

 昨日まで、祖母の三回忌、祖父の五十回忌を兼ね、帰省していた。お盆ということもあり、お寺で法要をし、その後は市内の温泉に移動し、親戚一同で一泊した。
 
 サウナに入ると、恰幅のいいオジサンがすでに2人入って、世間話をしている。田舎の人の“恰幅がいい”というのは、単なるデブなのではなく、田んぼ仕事のせいなのか、力士のように引き締まった恰幅のよさで、これもまた私の好きなところである。

 「花巻東の相手は済美だろ。安樂の球、打でねぇべ」
 「んだな。まず勝でねぇべな」
 「仙台育英も結局なんにもでぎねがったな」
 「だったら、初戦は浦和学院が勝ち上がった方がいがったべ」
 「小島君の投球、もっと見だがったもんなぁ」

 田舎
(この場合、「東北の人」という意味)の人は得てしてネガティブ思考だ。で、ちょっと安易であきらめが早い。というか、あまり自分を前面に出して、褒めるということをしない。それが田舎の人の美徳なのである。
 極端な仮説だが、その美徳が東北の高校を長い間、西日本の強豪校に太刀打ちできない負け癖をつけてきたのではないかと思う。少なくとも私が高校野球をやってきた頃、岩手県代表は一回戦を勝ちあがればいいほうで、僕らの目標は“甲子園にでること”にすぎなかった。池田高校のやまびこ打線もPL学園のKKコンビもテレビの中の雲の上の話だった。

 しかし、今の東北代表は堂々と互角に渡り合える。今夏は、秋田代表以外の5校が初戦を突破し、その健闘が話題にもなった。
 それは元高校球児としては嬉しいことなのだが、お盆の帰省中だから余計にか、全国が一色になるようで寂しくもある。均一化していくという弊害を持つ“グローバリゼーション”が、日本の中でも起こっているような気がするからなのだろうか。まことに勝手な思いである。

 現在、花巻東対済美をテレビ観戦中。おおかたの予想を覆して、5回終了、3対0で善戦し、勝っている。
 大会9日目終了で、関西勢、九州勢で残っているのはそれぞれ一校ずつ。高校野球の勢力図は均一化するどころか、塗り替えられつつある。
 24年前、私たち水沢高校野球部の夏を終わらせたのが花巻東高校。隔世の思いを感じながら、岩手県代表花巻東高校の今後を見守りたい。
 

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