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時事問題(学習)

2016年2月17日 (水)

厳罰化の意味

 川崎市の多摩川河川敷で中学1年の上村遼太さん(当時13歳)が殺害されてから、ほぼ1年が経過した。先週、その判決が横浜地裁で言い渡され、各メディアはこぞってそのニュースを取り上げていた。 Fullsizerender1_3

 昨今ありがちなのは、流行り!?の“報道の中立性”というやつを過剰に意識した報道だ。とりあえず淡々と「事実」を伝え、その上で賛成と反対とおぼしき論点を(街頭インタビューに頼って)並べてたて、「後は視聴者に判断を任せたよ」という責任転嫁な構成だ。そもそも報道に中立性はそぐわないと思っているから(必要なのは各社全体としてのバランスとそれに対するメディア・リテラシー)、そういう編集にはとても違和感を覚えるのであるが、むしろ今回の報道に関しては「量刑が軽いのでは」というニュアンスを滲ませるものもいくつかあった。

 

 私が観たニュースで強調されていたのは、求刑が「懲役10年以上15年以下の不定期刑」だったものが、「懲役9年以上13年以下の不定期刑」とされ、少年法が定める上限(15年)を選択しなかったという点だった。そこでは、犯行が残虐極まりなく、厳罰を科すべきであるのではないかと疑問が呈されているように感じられた。

 そのニュースでは、被告も上村さんも知っているらしき人が報道陣のインタビューに対し、「判決は解せない」旨のことを述べていたし、上村さんの両親が「刑は軽すぎると思います」と代理人弁護士を通じてコメントを公表したことにも触れていた。当然、親であれ、友人であれ、近しく、よく知る者であれば、少しでも重い罪を背負ってほしいとの思いには至るにちがいない。もし、我が子が同じことになれば、間違いなく自分もそうした感情を抑え切れなくなるだろう。
 ただし、社会全体がそうした感情を抱き、「厳罰に処するべき」との風潮が蔓延することには危惧を感じる。

 この場合、厳罰化するということは、刑がたかだか1〜2年上積みされることにすぎない。裁判的には“量”刑と言うだけあって、その1〜2年の長さは大きな意味を持つのかもしれないが、被告が13年の刑では更生することなく、15年であれば更生できるというものでは決してないはずだ。その差が再犯防止につながるとも思えない。それでも「厳罰化せよ」と感情任せに言うような社会であってはいけないのだと思う。
(※ちなみに、清原和博元プロ野球選手の覚醒剤所持事件に関して、犯罪化とは別のアプローチが必要との論もある。〔参照〕「清原和博容疑者の逮捕、茂木健一郎氏が覚醒剤所持について『犯罪化というアプローチが適切か疑問』」http://www.huffingtonpost.jp/2016/02/02/kiyohara-mogi_n_9144360.html)

 当然、この凄惨な犯行は認められるものではない。しかし、今回の判決が妥当であると言いでもしたら不謹慎だとの“社会的箝口令”が知らず知らずのうちに個々の内面で敷かれていくことは健全とは言えない。

 厳罰を科して断罪することは、「これで終わり。もう自分は関係ないもん!」とそことの関係を断ち切り、被告を見放し、放置していくことに見える。
 裁判長が求刑通りにしなかったのは、「被告が共感性を欠くことや、問題解決力の弱さ、暴力を容認する未熟さは、両親による成育環境が大きな影響を与えている」からだと聞く。そうであるのであれば、処分して終わりと切り離すのではなく、引き続き社会が請け負っていくべき大きな課題であるはずである。

2014年2月15日 (土)

ケネディさん、もっと話を聴きたいんです!

 私のゼミでは、この春休み中、後期からの活動を継続させ、テーマを持ってグループワークに取り組んでもらっている。年度末の3月下旬には、とりあえず中間発表としてのプレゼンテーション合宿を2泊3日で予定している。
 あるグループは「犬猫の殺処分」問題を取り扱っている。これがゼミのテーマ「サステナビリティ(持続可能性)」とどう関係しているのかといえば、少し回りくどくなるがこういう図式になる。

 【持続可能な社会(生活)】 → 【持続可能であるということはみんなに幸福感があるから】 → 【でも犬猫は相当数、そしてずいぶんと呆気なく殺処分されてるらしい】 → 【つまり、ペットとしての動物たちが持続可能とは言えない】 → 【それって人間の社会が歪んでいるから?】 → 【ということは、現代社会は幸福感があるとは言えない?】 

 現在、日本で飼われている犬猫は推計2000万匹。そのうち、売れ残ったり、捨てられたりして年間16万匹が殺処分されているのだという。
 比して、ドイツの殺処分数はゼロ! ドイツでは、飼い主に「ペットを飼う資質」が問われ、ペットを飼うスペースを十分に確保する、飼い主はペットと交流し、しつけをきちんと与えるということが法的義務となっている。そして、イヌ税というのが課されており、ペットを飼うにはかなりの税金を払わなければならない
(2匹目以降はさらに課税料金が上がる。ただし、盲導犬や救助犬などは課税が免除されている)。そもそもドイツには殺処分場などというものはない。こうしたドイツの取り組みには、無責任な飼い主や悪質なペットショップ・ブリーダーを放置しないという背景がある。
 さすがに、ドイツの状況から見ると野放しな感じのある日本でもオークションで売れ残ったり、病気や障がいで競りにすら出品できない犬猫を引き取り、新たな飼い主探しやトリマー学校の教材犬として“第二の人生”を見つけるネットワークを作る活動も出てきている。

 これらはつまり「動物愛護」の問題である。以前、カナダでグローバル教育の第一人者ディヴィッド・セルビー氏のセミナーを受けた際、グローバルにモノを見るのであれば、人権(human rights)だけではなく、アニマル・ライツ(animal rights)へも思いを馳せるよう諭されたのが思い起こされる。

 昨今、キャロライン・ケネディ駐日大使がTwitterで「米国政府はイルカの追い込み漁に反対します。イルカが殺される追い込み漁の非人道性について深く懸念しています」とつぶやいたことが論議を呼んでいるが、これもその“アニマル・ライツ”の思想に基づくものと言えるのだろうか。

 このつぶやきは、暗に
(でもないか)捕鯨の町であった和歌山県太知町のイルカ漁に向けられている。アカデミー長編ドキュメンタリー賞を受賞した映画「ザ・コーブ」の公開以降、海外からの太知町漁師たちへの風当たりは強くなっている(この件は4年前にブログでも取り上げたので、下記「参考」にアクセスしてみて下さい)
 これら非難の根拠のひとつは「やり方が残虐である」ということだが、非難する人たちが食べるであろう牛肉や豚肉だって、そのプロセスは“残虐”である
(映画「いのちの食べかた」をご覧いただければ一目瞭然である)。だから、このロジックはまるで成り立たない。

 そこで次に挙げられるのが、もうひとつの根拠、「クジラやイルカは“賢い”」というものだ。つまり「人間に近い動物だから」ということだ。科学者たちは、遺伝子レベルで本当そうなのかどうなのかという議論をしたがっているが、この問題においてそのことはそれほど重要ではない。「人間に近い」ということを論拠にすること自体が大きな問題なのだ。それを軸に話をする以上、それは動物たちの権利を守るというものではなく、あくまでヒト目線の人間中心主義に拠るものになるからである。

 しかし、そんな分かりやすいロジックで反論できるのに、賢いであろうキャロライン・ケネディ駐日大使が軽率にそうツイートするには、私ら一般市民には知り得ない何か力学でも働いているのだろうか? 彼女の主張をもっとじっくり140字以上で聴いてみたい。


【参考】
・朝日新聞2014年2月2日「売れなくても 生かす道 ペット業者がシェルター 競り、幼いほど人気」
・朝日新聞2014年2月12日「『賢いイルカ』は特別か 追い込み漁をめぐる問題 人間との『近さ』 権利論に発展」
・石川的徒然草2010年3月13日 「ザ・コーブ」受賞におもう http://daikichi-sun.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-92c7.html

2013年6月 8日 (土)

DJポリスに学ぶ

 「DJポリス」なるものを知ったのは昨日の天声人語。サッカー日本代表がW杯出場を決めた夜、その賑わいの象徴として、こぞってマスコミが渋谷駅前交差点の模様を流していたが、そこに彼の存在があった。あの狂気じみたとも言える若者たちが「DJポリス」と名付けるほど、喝采を浴びた彼の“名言”はこんな感じ。

「みなさんは12番目の選手です。チームワークをお願いします。駅のほうに進んで下さい」

「警備にあたっている怖い顔をしたお巡りさんも、皆さんと気持ちは同じです。皆さんのチームメートです。チームメートの言うことを聞いて下さい」

「目の前にいるお巡りさんも、みんなが憎くて怖い顔をしているわけではありません。心の中ではW杯出場を喜んでいるのです」

「お互い気持ちよく、今日という日をお祝いできるよう、ルールとマナーを守りましょう」

そして、胴上げを始めた集団に対しては、「それはイエローカードです」と諭し、

その軽妙なコメントに「お巡りさん!」コールが起きると、「声援もうれしいですが、皆さんが歩道に上がってくれるほうがうれしいです」と返し、

終電の時間が近づくと、「皆さん、明日も仕事です。そろそろ帰りましょう」と促したのだそうだ。


 実は彼はお巡りさんではなく、機動隊員。その中の「広報係」という役職で、機動隊警備広報競技会なるもので、今年優勝した“つわもの”だ。検定試験
(というものがあるらしい)で「上級」にも合格しているとのこと。
 この記事を読んで、
その機動隊員と「生協の白石さん」が重なった。その二人を評価すべきは軽妙洒脱なコミュニケーションにあるのだろうけども、その真髄はどうしたら“人を動かす”ことができるのかを心得ているというところなのだろう。

 今年、私はゼミ生たちに、テーマであり課題として「“人を動かす”にはどうしたらいいか徹底的に考えなさい」と、事あるたびに言っている。
 しかし、そう言っている私自身、ゼミ生たちに対しては「遅刻はするな!」「課題はやってくるもんだろ!」といった言葉がどうしても口を衝いて出てくる。頭ごなしに直截的な物言いしかできていないのである。当然、彼らはまだ遅刻もするし、課題も忘れる。自分の非力さ、未熟さを痛感させられる。

 私はじめ凡人は、何かを封じようとする時、直感的に安易な言い方に走りがちだ。が、安易な言い方には、安易な反応が返ってくる。それは必然である。
 機動隊もバリケードで封じていたそのやり方にきっと限界も感じていたのだろう。押せば、人は押し返すものなのだ。要は押し方ではなく、引き方なのであろう。が、言うは易し、行うは難し…。

 さて、警視庁は、かの20代の機動隊員に警視総監賞の授与を検討しているとのこと。その理由は、パフォーマンスそのものではなく、あくまでトラブルの抑制に貢献したから、だとか。そこはもっと直截的に言ったほうが、警視庁の評価も上がったと思うのだが。

【参考】

◆朝日新聞掲載関連記事
http://www.asahi.com/shimen/articles/TKY201306060631.html?ref=nmail

◆ネット上の関連記事
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130607/crm13060718490013-n1.htm

◆YouTubeにアップされている動画
http://www.youtube.com/watch?v=gWWxK7UBRsY

2013年2月 6日 (水)

AKBのイタい涙

 関わっているNPOの会議があって、後楽園駅で降りた。時間は18時頃だったから、家路につく人々の流れに逆らって歩く。駅前には小さな公園とも呼べないような広場があり、その砂地を平均よりは少し遅い足取りで20代半ばと思われる女性が歩いて向かってくる。不思議な速度に思えたが、すれ違いざま、街灯の角度の関係で、一瞬、その女性の頬に涙を流したであろう跡が光って見え、腑に落ちた。目線は宙に浮いていたから、彼氏に「もう別れよう」というメールでももらったのであろうと安易に勘ぐった。その推測が一番合点がいったが、もしかしたら、家族の訃報に接したか、上司に惨めなぐらいにこき下ろされたのかもしれない。
 いずれにせよ、その涙は制御できずにホロリと溢れ出してきたものであることには違いない。そうした涙はどこか共感を覚えてしまう。

 

 AKB48の峯岸みなみさん(と知ったように書いているが、この一件で初めて知った)がYoutubeに丸刈りになって涙ながらに謝罪する動画がアップされ、論議を巻き起こした。実際、この動画を見ることはできていなかったが、新聞記事に掲載された写真は、とてもイタイタしいものだった。

 「恋愛禁止」というAKBの内規!?に反した故の自主的なケジメらしいが、どうにもこうにも解せない。“本人の判断による”というのも真相かどうか分からず、多少なりのプロデューサーの演出(売り込み)もあるような気もする。そもそもアイドルを「恋愛禁止」という幻想で包み込み、ファンを裏切らないとする手法自体が時代錯誤であるが、それに乗っかっているファンもきっと相当数いるのだろう。そのやり方が見え見えだと分かった上で、ニーズがあるのであれば(プロレスのように“演じ切る”痛快さも同様の「見え見えのニーズ」であ
)、それはそれであっていい。

 

 だから、そこにあまり問題を感じない。問題なのは、丸刈りになる(させられる)という手段の意味である。坊主頭はいずれ元に戻るから一時的に反省させる方法としてはちょうどいいのかもしれない。ただ、そこに及ぶのが、“関係性における圧力”であることを問題にすべきだと私は思う。
 今回の件は、特に女性であるが故、それは服を剥ぎ取る行為
と同等のものと捉えてよく、そうしたイタさも加わっているのだが、やはり、あそこにはちっぽけなコミュニティの逃れられない決まり事によって、あるいは逆らえない誰かからの指示によっての決断があったように思う。たとえ、それが明文化されたルールでもなく、上下関係のある誰かの声とし届いてもおらず、彼女自身が「誰にも相談せずに坊主にすることを自分で決めました」と言ったのだとしても、である。

 峯岸さんの涙に共感を覚えないのは、そ
うした暴力性のようなものを感じるからではないだろうか。私はそれが一種の“体罰”であるかのように思えてならない。
 
一見、飛躍しているように思われるかもしれないが、大阪市立桜宮高校のバスケ部や女子柔道界の昨今のニュースは、丸刈りにさせる風潮としっかり通底している。

 センチメンタルに過ぎるが、昨晩すれ違った女性は明日になれば、笑みを取り戻してくれているのではないかと期待する。涙はそう思えるものであってほしい。

【参考】
朝日新聞朝刊2013年2月2日社会面「AKB 涙の丸刈り謝罪…そこまでするワケは」

2012年12月 7日 (金)

異色の芸人、おしどりマコ・ケン

 ワークライフバランスも大事だし、インプット/アウトプットのバランスも必要だ。
 教員
というものは、ややもすると、忙しさにかまけてしまい、気づくとインプットがおろそかになってしまっている。アウトプットをするだけして、学生たちからは知力も体力も吸いとられ、ぼやぁ〜っとしている間にアホになっている。

 今年度は新しい
講義をつ持たされ、必死にアウトプットしているに、やや疲弊気味になり、そしてアホになりつつあることにふと気づく。そんな折、池住さんから「大学院の授業聴講しに来ませんか?」とのお誘いメールが来た(ちなみに、私個人にだけ来たものではないのだけど)池住義憲氏は、この業界で名のしれた名ファシリテーターである。そして、「自衛隊イラク派兵差し止め訴訟」の原告代表であり、2003年の愛知県知事選に立候補した経験(結果は大差はついたが次点)もある、異色の人物である。
 今でこそ、私は「ファシリテーター」という職能を持ち合わせているかのように振る舞っているが、もとはと言えば、池住さんとの出会いがその始まりになる。私が大学院生だった時に受講していた国際協力・国際教育のリーダー養成講座「地球市民アカデミア」の夏合宿に講師として来られたのが池住さんで、日間にわたって繰り広げられたワークショップでの彼のファシリテーションにはとても魅了された。今でも“新しい学びのあり方”に触れたあの時の時間の流れ鮮明に覚えている(このエピソードは『開発教育−持続可能な世界のために』(学文社 2008年)の担当章の冒頭で触れている)

 彼から来たメール
は、「コンテキスト(Context、社会の現実)にまさるテキストText、教材)はないとの書き出しに始まり、尖閣諸島領有権問題、非暴力トレーニング、死刑制度、児童ポルノ問題、米国大統領選、狭山差別事件、セクシャルマイノリティ、拉致問題、ガンジー、マーティン・ルーサー・キングjretcと興味津々なワードが立て続けに並べられていた。日程を見れば、ちょうど私が夜間の社会人向け講座を担当する曜日で、日中であれば比較的都合をつけられるスケジュール。これ幸いと、さっそく池住さんに連絡し、立教大学大学院で行われる後期の彼の授業を聴講させてもらうことにした。


Img_4513  時折、アウトプットからインプットへシフトすること、そして環境を変えてみることは、いい刺激になる。なにせ、拓殖大学
と立教大学では吸う空気すら違っているように感じるのだから。
 この時季のイルミネーションは、拓大にもあることにはあるが、ミッション系である立教大学のそれに叶うはずもなく
(左写真)キャンパスに入っているショップだって立教がオシャレなカフェのTULLY'S COFFEEであるのに対して、拓大吉野家なのだ
 その歴然たる差を感じつつ
TULLY'S COFFEEのカプチーノを片手に、講義が行われる教室へと向かった。教室に入るや否や、いつもと違う明るさにワクワク感が募る。今回行われる講義は、興味津々のカリキュラムの中でも最も楽しみにしていた「おしどりマコ・ケン」の回なのだった。

 おしどりマコ・ケンは吉本の芸人さんである。ただ、皮肉なのだが私が彼らを知ったのは夫婦音曲漫才師さんとしてではなく(ごめんなさい!)、コラムニストとしてであった。定期購読していた『DAYS JAPAN』の連載コラム「おしどりマコ・ケンの実際どうなの?」での切り込み方、そして何より「吉本の芸人がなんでここまで?」と(池住さん同様)その異色ぶりに興味を惹き、気にはなっていたのである。

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 90分(では到底おさまりきらなかったが、ありがたいことに)の彼らの講義は、このブログで取り上げていてはきりがないので、詳細は割愛する。とにかく、それだけ1秒1秒に思いの詰まった講義だったのだ。

※ぜひウェブマガジン『マガジン9』の「おしどりマコ・ケンの脱ってみる?」を参照してもらいたい。特に最新アップの「『アフリカに原子力を推進するために、福島原発事故の汚染を住民が受け入れることが必要』というOECD/NEAアジア会議の件。」は、講義でも触れていた内容だし、総選挙にも関係してくるので、お目通しいただきたい。

 おしどりマコ・ケンの話を聴いていると、自分の講義で言っていることとも共鳴してきて嬉しくなった。

 紹介された飯館村の人たちの話で、「もう科学は信じない。みんな“答え”だけを置いていく。『これが答えです!』という先生はもういらない。『答えを探している』という先生の言葉を信じたいと思う」というのは、私が講義・講演でよく引き合いに出すグローバル教育の第一人者ディビッド・セルビー氏の「"I don't Know"と言える先生でありたい」という言葉とオーバーラップする。

 「マスコミは“自主規制”がかかっている」とのコメントは、メディア・リテラシーの授業で私も指摘している。それは、小さな自主勉強会に足を運んでくれた森達也氏からの言葉でもある。そこに込められたメッセージは、呪縛さえ解ければ社会は変わる(しかも自分たちから!)というものである。
 
 こうした重なりの実感は「思いは繋がっているんだ」との後押しに
る。ただ、その一方で、なかなかそれが力になっていかないという甚だしいもどかしさにもなっている。
 
最後、その思いをおしどりマコ・ケンにぶつけてみた。そして、(他に聴いているみんなも不思議に思っているだろうとお節介ついでに彼らがどうして吉本に居続けられるのかということについても。

 面白かったのは、ある提案。「みんな、テレビや雑誌でやる今日の占い』『今週の運勢のような占いものが好きなので、「今日のラッキーカラー」とかだけでなく、「今日のラッキー社会問題」とか載せたらいい」というもの。
 きっとイメージするとこんな感じだろう。例えば、「
牡羊座のあなたはのラッキー社会問題は『尖閣諸島領土問題』。独りよがりにならないで、みんなの意見も聞いて考えてみてね。留学生が近くにいたら絶好のチャンス!」とか、「双子座のあなたは『アラブの春』。もう過ぎ去ったニュースなんて思わないでね。だって、現地ではまだまだ解決してない問題なんだから♪」ってな感じだろうか。

 半分冗談半分マジなこの提案は、あまりに無頓着で思考停止になった日本人への警鐘であると受け取った。
 
 お二人は、震災前、「売れてやるぅ〜!」との野望を持って大阪から東京に乗り込んできた。しかし、震災直後、芸人の先輩がハッピを着て枝野さんの隣で「大丈夫ですよ」と言っていたのを見て、「テレビで売れるとはこういうことなんだ…」と愕然としたのだという。だから、その路線に乗っかれないことにはまるで未練ないように見えた

 「自分たちがここで吉本を辞めてしまったら、後に続く同じ志を持った後輩芸人が入ってこられなくなる」
 
 だから、吉本の芸人という立ち位置は変えずに、おしどりマコ・ケンは今の活動を続けている。そのタフさぶりには、ただただ感服する。とことん応援したくなる二人だから、今度は劇場に足を運んでみようと思う

2012年8月11日 (土)

GNH:幸福度と真剣度

 出張すると、体調管理と街の様子をみる目的で、ホテル界隈をジョギングするのが、私の中でのしきたりだ。体調管理というのは気休めにすぎない気もするが、ある程度の地理的感覚をつけておくことや、地元の人たちがやってることとその表情を見る等々で全体的な街の空気感をなんとなくつかんでおくことは必要だし、楽しい。
 ただ、今回はそうもいかない。ジョギングシューズとウェアを持ってはきたのだが、よくよく考えるとここティンプーは標高2320mである。引率する者が高山病で倒れてしまっては元も子もない。その理由がジョギングだとなれば、なおのこと、非難は免れまい。泣く泣く諦めるが、シゴトなのだから至極当然のことである。

 せめて、街の様子だけでも見ておこうとジョギングを散歩に変更する。が、まだ朝の6時前なので、まったく街が動いていない。人気はまるでなく、ただただハトのImg_3660大群に遭遇するだけである。
 街だけでなく行く先々の寺院もそうで、あまりのハトの多さに鬱陶しさをめいめい口にしていた。「幸福の国なんだから、平和の象徴・ハトがこれだけいたっていいわけだ」と皮肉さえ飛び出る有様だ。

 しかし、そうしたアンビバレントな感情はまさに今のブータンを言い表しているように思う。
 4月の緊急テレビ演説で、ジグミ・ティンレイ首相は「消費を抑えよう」と国民に訴えかけた。昨今、資本主義的な思考が流れ込んでくることで、精神的な充足よりも物質的な欲望が勝り、ローンに悩まされる人々が増えてきているというのだ
(朝日新聞2012年8月1日朝刊オピニオン面「インタビュー『幸福の国』の悩み)Img_3647Img_3537_3際、 ここに来て目につくのは、建築中の骨組みと渋滞である。今散歩してきただけでもいくつかの建物がそうであり、郊外に出ればそれはいっそう多くなる。渋滞は、他のアジアの都市に比べれば、実はそれほどでもないのだが、おそらく急速に台数が増えていくだろうことは想像に難くない。Img_3564_2 昨日は市内の学校を見学に行ったが、ちょうど子どもを学校に送る親たちの車で校門前に渋滞ができていたのは、その証左となろう。

 見学させてもらったDruk School
(ちなみにDrukとは現地語で「ブータン」という意味。日本でいえばNipponにあたる)は、最近できた小中一貫の私立学校で、校内の施設や授業の質はほとんど日本と遜色ないように思えた(あるいは上を行ってるか…)。
 教育熱の高まりは、小国であるが故のブータンの“生き残り策”である
(参照:朝日新聞2012年6月6日朝刊国際面「より幸せな国へ宝磨く 『国民総幸福』ブータン教育事情)。だからこそ、徹底して教育実践のそこここにGNHの理念が埋め込まれていっている。それは、現場の教員へのインタビューからも強く感じとることができた。そうした実践が、この先、どう花咲き、実を結ぶのか、行く末を追いたいと思った。

 きれいな人工芝の校庭で行われた全校朝会は瞑想から始まる。瞑想はGNHに基づく教育の大事なカリキュラムの一環なのだそうだ。誕生日の児童生徒がいれば、全校で"Happy Birthday"を歌い、身内に亡くなったものがある児童生徒がいれば、これまた全校で読経をする。そんな朝礼を終え、規律正しく教室に入っていく子どもたちを見ていると、この国のGNHに対する本気さを感じさせられる。

 その本気さは夕方に行われたGNHのレクチャーからも同様に感じられるものだった。GNH CommissionのChencho(チェンチョ)さんのお話は、次回以降に書こうと思う。

Img_3571
 

2012年4月28日 (土)

飯能まちなか測定室準備会

 前回ブログで森井さんからもらったコメントに深く考えさせられている。ちょうど、新学期が始まり、自分の講義(あるいはゼミ)がどれだけ学生たちを思索の道に引き込めていけるか考えていた時だっただけに、余計に身が引き締まる思いだった。

 コメントのもとになったのは、4月17日付の朝日新聞夕刊
(地方によっては掲載日は異なる)、東大の政治学者・藤原帰一氏のコラム「時事小言」である。「『いまあるもの』を受け入れ、それ以外の選択を排除することだけが仕事なら、大学教員、さらに役人、政治家、マスコミ関係者の声が国民に届かないのは当然だろう」という自省も込めた彼の言葉は、自分に直接向けられたようでもあった。そこで紹介されている立教大学・吉岡知哉総長「『考える』という営みは既存の社会が認める価値の前提や枠組み自体を疑うという点において、本質的に反時代的・反社会的な行為であるという言葉は非常に腑に落ち、自分でも首肯できるだけに、そうした批判性をきちんと持てているかと言えば、怪しさもあった。それが口先だけのものであれば、なんの意味も持たないのだ。講義を通して、学生たちとともに“考える”ということは、それだけの気概を持ち合わせていなければいけない真剣勝負であるべきなのだ。

 また、4月27日付の朝日新聞オピニオン面「記者有論」では、「大学教育の質 外圧受ける前に自ら動け」との見出しで、学生の自発的な学習を促すために教員たちが授業の組み方、教え方を互いに顔を突き合わせて議論しているのかと疑義を投げかけられてもしていた。

 新学期の時期だからこそ、現場に発破をかけるようなこうした記事が多いのだろう。それらを真摯に受け止め、応えていこうとするのであれば、ひとつ、確固として言えることがある。それは子どもと親の関係と一緒で、学生たちは教員の背中を見て育ってもいる。そして、その見ている教員の背中の大きさによって、彼らの成長の度合いも変わってくる。まだ十分でない実績からのなんとなくの経験則であるけども、私はそう感じている。
 であればこそ、私にかかる責任は小さくはなく、もっともっと大きな背中を見せてあげねばと思う。それは、教室の中ではない、むしろ外である実社会に晒された教員自身がどう振る舞えるか次第なのである。

 そういった意味でも自分はまだたいそうなことはできておらず、ボチボチといったところなのだ。

 昨年は、地元で『うまれる』という映画の上映会を企画した。子を持って初めて見えてきたことだが、想像以上に母親たちが地域で孤立していたから、そこに問題意識を持ち、妻とママ友たちとともに上映実行委員会を立ち上げた。
 なにせ勢いで始めてしまったので、当日は借りたホールの席が埋まるか、本当に心配だったが、幸い、午前午後の部両方とも会場はほぼ満杯になってくれた。

 うちら夫婦はこれまで何かするとなれば都心に出かけていったのだったが、結婚後は生活の場において地に足をつけた活動をしたかっただけに、ここでネットワークがつくれたことは大きな収穫だった。

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 Img_2279 Img_2278

【写真左】会場入り口付近
【写真中】開演前の受付、物販コーナーの様子
【写真右】子どもたちともお揃いにしたスタッフTシャツ


 そして今年。去年のアクションが地元でのネットワークの広がりにあれよあれよという間につながり、今、市民による放射能測定の場を作ろうという人たちの輪に入れてもらっている。
 先週の日曜日22日には、その動きに弾みをつけようと、東林間放射能測定室代表の高岡章夫氏に来ていただき、講演会を催した
(写真下)。大入りとはいかないまでも関心を持った40名弱の市民の方々にお集まりいただいた。さっそく6月2日にも第2弾として内部被曝に関しての講演会をすることになっているが、今後に向けた活動の励みになった。

Img_2984_2
 リオ+20の国際会議が開かれる今年、こうした小さな取り組みが津々浦々で行われるにちがいない。そうした点の集まりが地球儀を覆うようなムーブメントにになっていってほしいと願う。
 そうした
広がりの今こそある臨場感を学生たちと感じ取っていければ、自分の背負う責任が少しずつ和らいでいくのだろうと思う。

2011年11月17日 (木)

ゼロ・オプション

 手が回らない、とはこういう状態を言うのだろう。

 昨日、帰りの電車の中で手帳を開き、「やるべきこと」を小さなポストイットに書き込み、「やり終える期日」までに貼り並べると、まるで“手が回らない”状態があからさまになった。どう見ても、期日内にやり終えられない仕事量・仕事数が各日のマスに貼られている。唖然とする私…。
 こんなブログを書いているのが見つかれば、「そんなもの、書いてる場合じゃないだろ!」と四方八方からお叱りの矢が飛んでくるのは目に見えている。が、実はそう戦略的・作為的にしているところもある。むしろ見つかってほしいのだ。

 私はこの場を借りて“公開謝罪”する。
 「もういっぱい、いっぱいです」と。
(あ〜、なんとかっこわるいことか)

  「育児」という今の私の人生において最重要のシゴトが加わったからということもあるが、それを差し引いても手が回らない。それが分かっていても、いや、分 かっているからこそなのか、人は合理的・論理的ということとは、まるでかけ離れた行為に打って出るものだ。端から見れば理解不能でも、破綻しかけている人 からすれば、そんなカンフル剤を打つしか手はないのである。今、ブログを書いているのは、つまり劇薬なのである。状況が改善するとは到底思えないが、痛快 ではある(笑)。

  で、これから寝ないで仕事を片付けるかというと寝ないわけにはいかない。ここだけはなぜか冷静で、合理的になれる。どんなビジネス書も自己啓発書も、 徹夜で作業することがいかに非効率なことかを力説している。睡眠不足は、いい仕事をする上で最大の敵なのだ。そこだけは深く納得し、愛娘とともに9時か10時に眠りに就く(でも3時ごろに起きて仕事はしてるんです!←言い訳)
 人は生命を維持する都合上、寝ないわけにはいかないのである。背に腹はかえられない。

 先日、ニュースを見ていたら、次のニュースが流れてきて、やるせなくなった。関東ローカルだったし、翌朝の朝刊にも掲載されていなかったので、それほど大きく報じられてはいなかっただろう。

「震災で失業し覚醒剤密売」…宮城出身容疑者(読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20111110-OYT1T01241.htm?from=navr

 彼にとって、被災したことは犯罪を犯すことを自分の中で正当化でき、“背に腹はかえられない”事態だと納得できたのだろうか。震災さえ彼に降り掛からなかったら、そうしたことにはなっていなかったのだろうか。切なくもそんな疑問も湧く。

  おそらく、震災さえなければ、彼はそうなっていなかったのだ。密売など闇の世界に手を染めるなんてシナリオは決して描いていなかっただろう。
 たしか に同情はするが、抱く思いはそれだけではない。被災していない身で高みからモノを言うのは憚れる。今回の大震災がどんなに大きく、あらゆるインパクトを人 に与えたか、推し量りきれないが、それでも他に選択肢はなかったのかと思う。あることは想像できたいたのかもしれないが、“たやすさ”を優先させてしまったのだろうか。

 劇的に変化することに期待を寄せてはいけない。あくまで、変化というものは自分に感知できない程度に起こっている。感知しづらいが故、「変化している」ということを信じるほかない。その愚鈍なまでの自分への信用だけが、ゴールへの方向性を保証する。

 今の手が回らない状況から、いつの間にか解放されていることを私は確信しているのだが。
(お叱りの矢を放った皆様、今しばらくお待ちくださいませ)

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先日、家族で昭和記念公園のいちょう並木を
歩いてきました(キレイなので載せたまでです)

2011年10月14日 (金)

隠蔽体質

 どうも世田谷のホットスポット騒動は、原発とは関係のないラジウムだということで落ち着きそうである。とはいえ、近隣のほうぼうから「通常より数値が高い」という情報が洩れ聞こえ、被曝の恐れから免れたわけではない。神経質に聞こえるかもしれないが、乳幼児をもつ親は特に、そうならざるをえないし、予防原則の前提に立つべきだと思う。

 妻の友人が「幼稚園の園庭の放射線量を測ってほしい」と園にいくらかけあっても「それはできない」との一点張りで、「測定させてくれない」と嘆いていたらしい。園ばかりでなく、周りの親たちもあまり関心はないようで、「なにもそこまで…」といった素知らぬふうなのだそうだ。

 測定して、高くなければ安心して子どもを園庭でのびのびと遊ばせてあげられるし、高ければ、そんなところに放置してはおけず、除染なりなんなりの対策をとればいい。ただそれだけのことなのだ。それは親の常であり、園の責務ではないかと私は思う。
 被曝するかもしれないという以上の何を恐れているかが、私にはさっぱり分からない。

 その友人以外の親御さんたちだって、我が子を被曝させたいなどとは決して思っていない(はずだ)。ただ、急に降って湧いた原発事故という非日常を受け入れたくなく、あるいは信じ難く、自分が“被害者”であるという悲劇の範疇に入ってしまうのが嫌なのだ。あくまで、自分の周りには日常が流れていて、今まで通りの生活が保証されている。そう思いたいだけなのだ。

 しかし、それが数値として明らかになれば、否が応でもその居心地のいい現実逃避からは連れ戻されるわけで、一時の安心は水泡に帰する。
 変化を恐れ、安定を求めるのは、人間の本性だと心理学が語っていたが、現実を見据えないでそうするのであれば、しっぺ返しのほうが怖い。

 親という個人であろうが、幼稚園という組織であろうが、放射線量という数値に対処するのではなく、現実がどうであるかということへ対処し、責任を持つべきである。それは、数値に対して怯えるのではなく、現実に対して怯えるほうが賢明ではありませんか、とも言い替えたい。

 私たちには、現実を覆い隠し、自分に都合のいい仮想現実に身を置いておきたいという“隠蔽体質”の傾向がある。とかく、政治家や企業を非難の的とするが、それは私たちが醸成し、生み出した産物であることを肝に銘じておくべきだと思う。

2011年6月19日 (日)

情報は際にある

 2年前も京都で学会があったが、観光した記憶はない。おばんざいを出してくれる居酒屋をフロントで紹介してもらい、(独り寂しくはあったが)おいしくお酒を飲んだのが、しいて言えばの観光だった。今回は、朝のジョギングで、たまたま東寺(これ、世界遺産だったって、今、HPを見て気づく…)の周りを走ったのがそれにあたるだろうか。厳粛な読経の声だけがそれらしい京都の思い出となってくれた。
 20年以上も前、修学旅行で来た時の“京都観”とはまるで違う。特別感が薄れていくのは、大人(オジサン)になるということなのかもしれない。今、缶ビールを片手に柿ピーをつまみ、ほどよい虚脱感を覚えている。それが、オジサンの今の至福なのだ。オジサンの旅は、単に物理的な移動であることが多く、どこへ行ったのかは気にしない。プロセスさえ楽しければ、京都であろうが、ニューヨークであろうが、片田舎であろうが、行った先は問題にしない。


(筆を進めるより、つまむ方がせわしないので、前置きを書いている間にYEBISUを飲み干してしまった…只今、名古屋通過)

 さて、本題に入ろう。
 今週末、京都で行われたのは、日本国際理解教育学会第21回研究大会。自分の発表は好評とも不評ともつかず、なんとも微妙なものだったが、とりあえず発表しきったので良しとする。「参加することに意義がある」とは前に書いた通りだ。

 初日(9/18)午後に行われたのが、「9.11後の平和教育の成果と課題ーグローバル化の下で、戦争をどう伝え、どう教え、どう学ぶか」と題されたシンポジウム。おおよそシンポジウムとは退屈なものだが、「戦争と原発はウソをつく」と言い切るフリージャーナリスト・西谷文和氏の歯に衣着せぬ物言いは、場を刺激的なものにした。

 これまで戦地で取材し、米軍の放つ劣化ウラン弾に断固としてNOを突きつけてきた彼は、生まれつき眼球や肛門のない赤ちゃんや大きな腫瘍がお尻にできた赤ん坊の映像を我々に見せた。最初、
それは頭と見まがうほどの大きさで、ギョッとし、目を疑った。それは他人事ではないと、西谷氏はフクシマの子どもたちの5年後を心配していた。5年経つとガンの発症率がグンと上がるのだと言う。徒に恐怖心を煽るつもりはないが、そういう意味で、フクシマは“戦地”にあるのだと認識したほうがいい。あとあと後悔するぐらいなら、そうした思いで対処しておきたい。

 また、テレビのニュースで流れた彼の取材映像もいくつか見せてくれた。劣化ウラン弾による被害の実状をありのままに伝え、かなり突っ込んだ内容にも見えたが、西谷氏に言わせれば、これでは「充分ではない」という。
 そのニュース番組は曜日ごとに担当ディレクターが変わるのだそうだが、稼いだ視聴率の積算で評価されるため、“視聴率至上主義”がまかり通っている。数字に追われるディレクターたちは、ノリピーの覚醒剤事件を普天間のニュースより重宝し、アフガンのニュースはさらにその下の扱いにしていく
(紹介したニュース映像が、裏でワールドカップの日本対パラグアイ戦が行われる昨年6月29日にあてられたことを西谷氏は意味深に語っていた)。そうした状況下で、劣化ウラン弾の被害を克明に伝えようとしてくれたことには一定の評価はできる。だが、それはあくまで自分たちに影響の及ばない“米軍のこと”だからすることなのだ。劣化ウラン弾の材料となるものが、「どこそこの国の核燃料サイクルの廃棄物かもしれない」というところはアンタッチャブルであって、自らに火の粉が降りかかるような馬鹿なマネは決してしない。テレビ局にとって、大スポンサーである電力会社様を怒らせはしないのだから、一般市民は箝口令が敷かれた状況下にいるに等しい。

 西谷氏は、その後も「なぜ、選択する自由がなく、契約する電力会社は決まっているのに、あんなに電力会社のCMが流れているのか」と私たちに投げかけ、そのカラクリを紹介してくれた。
(→カラクリはこちら参照)

 彼の話を聞けば聞くほど、憤りが沸々と湧いてくる。と同時に、自分の無知さにも呆れてくる。ただ、そうした本当に欲しい情報にはなかなかアクセスできない。たまりかね、終了時間を気にする司会者の「よくてあと一人…」と言いたげな表情をさえぎり、挙手をした。「どうしてもマスメディアの流す情報を伝える二番煎じに成り下がってしまう教員は、どうしたら本当に欲しい情報にアクセスできるのか」との私の質問に、西川氏は次のように助言をくれた。

 ・海外メディアをチェックすること
 ・地域のネットワークを大事にすること

 自分に害のない報道には、メディア人の使命感、正義感が機能するのだろう。海外メディアの報道はありがたいことだが、そこに通底するのは残念ながら一緒の体質だ。日本のメディアも海外の情報に対してはそれができる。自国でそれができればいいのだが、理想論にすぎないのだろうか。
 必要な情報は「際(きわ)にあるものだ」ということが鉄則になるのであれば、なんとも皮肉なことだ。嘆いてばかりはいられないので、際にいる自分たちでアンテナを張って情報を集めるしか今は手段がない。

P.S. あ、品川駅通過。もう東京駅に着いちゃうよ…。