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SDGs(持続可能な開発目標)

2016年11月11日 (金)

10. REDUCED INEQUALITIES〜人や国の不平等をなくそう

 第45代トランプ米国大統領誕生。

 大方の予想を覆す結果に、ここ数日、徒らにメディアが騒ぎ立てている。この騒ぎ、近いところではBrexitの顛末を彷彿とさせる。「こうであろう」と安穏とあぐらをかいていると、しっぺ返しを食らい、「さぁ、どうしようか…」と今から戸惑い始めるのである。どうも世界は多重人格者のようで、口とは裏腹な結果を望み、真意がどこにあるのか掴みきれない。

 ただ、この男だけは「第45代トランプ米国大統領誕生」を(望んではいなかったけども)予言していた。アポなし突撃取材で名を馳せたドキュメンタリー映画監督マイケル・ムーアである
(ハフィントンポスト:マイケル・ムーア「ドナルド・トランプが大統領になる5つの理由を教えよう」
 その言葉が予言を超えて確信めいていたのは、母国アメリカを危惧する思いからであっただろうし、そして殻を破って外側から覗いてやろうという彼独特のアイロニーが常に利いていたからである。

 今年公開された映画『マイケル・ムーアの世界侵略のススメ』はまさにその真骨頂と言える。侵略戦争を進めてもなんら一向に良くならないアメリカ合衆国に業を煮やし、マイケル・ムーア自身が新たな“侵略者”となって、世界の「幸せ」を根こそぎ略奪してくるという荒唐無稽なストーリー!?
 彼の持ち帰った戦利品は、有給休暇8週間昼休み2時間のイタリアであったり、宿題なくして学力世界一になったフィンランドであったり、麻薬使用を合法化して麻薬使用率を減らしたポルトガルであったり…それらアメリカの非常識は、世界の常識であったことに驚くマイケルだが、実はそれらの多くはアメリカ発のアイデアであったのだということにも気づかされる。

 「このドキュメンタリー映画のモチーフはイソップ童話『北風と太陽』なのでは?」と、鑑賞後、ふと思った。アメリカが今やっていることの裏返し(逆転の発想)が幸福の源泉となっており
、皮肉なことに、かの地ではそれが結果として現に出てているのだ。そして、このことは世相をも表している。

 つまり、Brexitもトランプ大統領誕生も(そして安倍長期政権も)その文脈で語ることができ、力でねじ伏せられるという幻想にすがりたい集団心理と、ポピュリズムや内向き志向が背景にある。他人や他国の格差や不平等など気にも留めず、周りを顧みずに自国の都合のいいようにカスタマイズしてしまう社会にある中で、人々はより意固地になっていく。
 しかし、その根本的な解決策は、どうも閉じる方向にあるのではなく、許すことや緩むことであったり、いっそのこと無くしてみたり、権利を試しに与えてみたり、解き放つ方向にあるようなのだ。しかも、頑なになった人々の中に、実はすでに解決策は内在していて、それを自ら開放するのが待たれているだけなのだ。少なくともアメリカにはそれがあったことはれっきとした事実であるのだし。
 マイケル・ムーアがこの映画でもっとも言いたかったのは、つまりそこに踏み込めるのかどうなのか、「するのか?しないのか?」という挑発である。

 選挙戦から、メキシコ国境に万里の長城を築くとか、ムスリムの入国禁止を宣言するとかの暴言はじめ、女性蔑視の発言も散見されたトランプ氏、いや、トランプ新大統領。「人や国の不平等をなくそう」というフレーズからはまるで真逆に位置するこの男、一見、期待ゼロのように思えるが、意外と狡猾なところもあるのではと(なってしまった以上)思えてもきている。富の象徴で華やかに見えるトランプタワー、中に入ってみると意外に虚無感が漂っているんじゃないの?なんても思ったりする。そこにすら入れない凡人の自分は確かめようもないのだけど(笑)、むしろそうであってくれた方が彼に人間味を覚える。きっと彼も北風の部分と太陽の部分とを持ち合わせているのだろうから、せめてもそのどちらかを選択するか、逡巡ぐらいはしてほしいものである。

 さて、もっと大事なのは、これは対岸の火事ではないということだ。我々の中に起こっているトランプ現象をどう鎮火させ、次のフェーズに持っていくのかということを胸に手を当てて問うていかなければならない。

【参考】
◆映画『マイケル・ムーアの世界侵略のススメ』 http://sekai-shinryaku.jp/

◆ハフィントンポスト:マイケル・ムーア「ドナルド・トランプが大統領になる5つの理由を教えよう」
http://www.huffingtonpost.jp/michael-moore/5-reasons-why-trump-will-win_b_11254142.html

2016年11月 6日 (日)

8. DECENT WORK AND ECONOMIC GROWTH〜働きがいも経済成長も

※ SDGsの17のテーマを必ずしも番号順ではなく、タイムリーな話題順に展開します点、何卒ご了承ください。

 冒頭から嚙みつくが、17あるテーマのうち、この8番目だけはどうにも解せない。働きがい(DECENT WORK)と経済成長(ECONOMIC GROWTH)を「も(AND)」でつないで同列には扱えないのではないかと思うからだ。どうも経済成長することが働きがいに直結するようなイメージを起こさせ、違和感を抱かざるをえない。働きがいが経済成長につながるものもたしかにあろうが、経済成長とは別次元で働きがいを感じる職業も山とあるはずなのだ。むしろ、2030年をターゲットとするのであれば、経済成長ではない指標のもとで働きがいを覚える仕事・雇用の創出を図るべきではないか。

 先日、ゼミ生たちと映画『何者』を観に行った。新進気鋭の作家・朝井リョウの同名小説が原作になっている、就活がモチーフの映画である。彼は、2009年、早稲田大学在学中に『桐島、部活やめるってよ』で小説すばる新人賞を受賞して脚光を浴び、この『何者』で直木賞まで受賞することになるが、自身の就活体験が反映されていないわけがない。Twitterをベースにストーリー展開していく様は、今の若者たちの“らしさ”を強調し、就活をめぐる5人の若者たちの群像劇は隠しカメラでライブ映像を観ているかの如く、リアリティがあった。彼らが互いに傷つけあい、疲弊してく顛末は決して後味のいいものではないが、「あぁ、これが“シューカツ”ってやつなんだな」と、まともに就職活動をしないままにオトナになった私はしみじみと思ったのだった。
 鑑賞後、学生たちと焼き肉をつつきながら、漏れてきた感想は「先生、やっぱシューカツってあんな感じになっちゃうんですかねぇ? なんかエグいっすよね」だった。人を幸せにしないシステムってなんなんだろうって思う。

 ゼミ生たちが映画『何者』を観に行こうと言い出したのは、社会に飛び出す前に覚える不安と恐怖からだったにちがいない。少しでも向かうべきところの状況を分かって不安をできるだけ和らげておきたいのだ。
 しかし、実際に飛び込んでくるのは、電通の女性社員過労死のニュースだったりする。そして、「月当たり残業時間が100時間を越えたくらいで過労死するのは情けない」なんて某大学教授がそれに毒づいたりするのだ。それもこれもみんな「経済成長しよう!」というスローガンのもと、右肩上がりの階段を登らされているから、そんなニュースが日常茶飯事になってしまう。それは、延々動き続けていなければならない回し車に乗せられたハムスターのようであって、明確なゴールもなく、いや、「その先に幸福がある」との幻想に目をくらませられ、ただただ困憊していく仕組みにも思える。

 そもそも資本主義という競争を煽るシステムにおいて、「みんな、成長しようよ。成長できるよ、きっと!」という掛け声は矛盾に満ち溢れていて、学生たちは不安を覚えながらもその胡散臭さには勘づいている。だから故か、学生たちはふるいにかけられても必死にしがみつき、「私は負け組でない」とそのシステムに乗り遅れまいという心境に追い込まれるのである。
 そうした皮肉の上に入社してからも「がむしゃらに働け!」という理不尽に遭遇する。つまり、それは「考えなくていいから、とにかく働け」という思考停止に陥らせる社員のバカ扱いである。そうした形でしか会社を成立させられないのは、おおよそブラック企業と言われる部類の会社である。しかし、そんな会社はあと何年も持つことはない。そうした思考停止させた状態で成り立つ仕事は、早々にAI(人工知能)に取って代わられるからだ。

 私は、半ば強制的にそうした地獄に彼らを送り込む閻魔大王になりたくはない。大学は、学生が不安と恐怖に怯えたままではなく、彼らに希望と可能性を抱かせて社会に送り出す機関でなくてはならないのだ。そして、大学は新しい社会のあり方やライフスタイルをどんどん提示していくべきだし、私たちは「仕事は楽しいよ!」とそもそも自身が言葉ではなく、背中で見せていくことが必要なのだ。

 まだまだ途上国では経済成長が必要なところもあるだろうが、少なくともここ日本においては、もう十分ではないかと思う。
 「明日も仕事が楽しみ♪」とか「同僚たちと明日はどんな仕事ができるだろう」とか、ワクワクする気持ちはまさに働きがいの持続可能性にあたるが、経済成長はやはりそれとは別のベクトルにあると思わざるをえない。そうであれば、冒頭に噛み付いた解せなさの払拭は、「働きがいか、経済成長か(DECENT WORK OR ECONOMIC GROWTH?)」と一語変えるだけで済む話なのかもしれない。
 


〈補足〉
 「日本の労働人口の49%が、将来はAIやロボットに置き換えられる可能性が高い」と話す英オックスフォード大学のマイケル・オズボーン教授は、それで残るのは「人間にとって楽しい仕事だ」と述べている。
 また、週休3日制の導入を検討しているヤフーは「作業はAIや機械学習に任せて、人間は創造性の豊かなことをしていく。それによって週休3日を実現していきたい」と話している。
(参照:朝日新聞2016年10月26日)

2016年10月23日 (日)

1. NO POVERTY〜貧困をなくそう

 貧困について書こうと思ったら、時宜よく、世界銀行から最新の報告書のニュースが入ってきた。1日当たり1ドル90セント未満で暮らしている「極度の貧困層」が、世界で7億6700万人に上るというものだ。これは2013年時点での調査結果だが、その前年に比べて13%も減少していたという“朗報”である。
 ただし、その層の世界人口に占める割合は10.7%に及び、大半がサハラ砂漠以南のアフリカに集中する。中国、インド、インドネシアなどアジアにおいては経済成長に伴って貧困層は半減したが、一方、アフリカの貧困にあえぐ人々自体はあまり減っておらず、状況が改善しているとは言い難い。

 このような現状にある国際社会が掲げた「貧困をなくそう」という壮大な目標は、果たして現実的に実現可能なものなのであろうか。

 そもそも人類の歴史は常に貧困と対峙してきた。大げさでもなんでもなく、これまでに貧困のない時代などなかったのである。狩猟採集を主とした旧石器時代は常に死と隣り合わせの不安定な時期であったし、古代においては階級社会が生まれ、生きていくための最低限のものを確保することに必死な奴隷や零細農家がほとんどであったと考えられている。中世においては封建制が進む中で、都市に住む者の多くが屋外で寝起きしていたとも言われ、近代においては産業革命が起き、資本家階級が誕生し、搾取される労働者階級は貧困にあえいだ。植民地以前は経済にも精通し、豊かな土地柄であったアフリカは、欧米列強による侵略と略奪により、現代においては貧困の象徴のように捉えられてしまっている。

 辛辣な言い方をすれば、社会は貧困層という“必要悪”を作り出すことで、それを踏み台に自分にとって居心地のいい社会を積み上げてきた。そこには宮沢賢治の言う「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という思想はなく、あえて貧困には目をやらなかったのである。否、踏み台にしていることすら知らずにここまで来てしまっているのかもしれない。

 「知りながら」であろうが、「知らずに」であろうが、いずれにせよ、非はある。しかし、そこを責める以前に、その構造自体を問題視せねばなるまい。

 貧困には絶対的貧困と相対的貧困とがあるが、「貧困をなくそう」との壮大な目標を成就するにはそのどちらへのアプローチも必要になってくる。主には、途上国にある絶対的貧困と先進国にある相対的貧困の問題の二つに対して、ということになる(もちろん、途上国における相対的貧困と先進国における絶対的貧困の問題もある。そもそも「途上国」「先進国」といった言葉でカテゴライズする意味がますます薄くなっているのだが)。

 とりあえず、そう紋切り型に捉えたとすると、現代の日本で議論していく貧困の問題は相対的貧困ということになるだろう。
 記憶に新しいところでは、8月に放送されたNHKのニュースで「こどもの貧困」を取り上げた際、実名で登場した女子高生が1,000円以上のランチを食べているとか、身の回りが嗜好品で溢れているとかで、「彼女は決して貧困ではない」とネット上で炎上していることが話題になった。さらには、片山さつき参議院議員がこれに噛みついたことで、“貧困”とは何か?といった議論を再燃させることともなった。

 平たく言えば、相対的貧困とは、ある社会の中にいる他の誰かと比べた場合に自分が貧しさを覚えるという状態のことである。それは、必ずしも食うや食わずの状態に常にあるわけでない。飢餓やホームレスのような「見えやすい貧困」(絶対的貧困)は問題意識をもってもらうことは比較的できるが、「見えにくい貧困」は可視化されにくく、違う意味で根深い問題なのである。「明日死ぬかもしれない」という身体的に限界に近い状態と、「明日生きていたくない」という社会的、心理的に切羽詰まった状態は、生命の持続可能性という意味では、どちらのほうが重いとか軽いとか比較できる問題ではない。
 しかし、認識されなければ、または共感を得られなければ、政策は打ち立てづらい。そして、何よりも今回のように「あれは決して貧困とは言えない」などとバッシングを受け、二重に社会から見放されることになる。

 相対的貧困とは、前述したが、文字どおり、他者と比べての貧しさのことである。よくOECDの定義が用いられるが「等価可処分所得(世帯の可処分所得を世帯人数の平方根で割って算出)が全人口の中央値の半分未満の世帯員を相対的貧困者」であるとするものだ。つまるところ、所得格差の問題だ。日本では122万円のところに相対的貧困のラインが引かれ、それにあたる割合は実に16.1%にのぼる。すでに6人に1人が貧困状態にあるということになる(2012年国民生活基礎調査)。

 この所得という視点ではかる相対的貧困の考え方は、常に貧困層を生じさせる。100%完璧な社会主義、共産主義でない限り、相対的貧困とは貧困を「あるもの」として対置させることを前提としているからだ。相対的貧困が「所得」という観点で見る狭義のものである以上、それは決してなくなりはしないものになる。

 だから、何かを踏み台にして成立する枠組み、それ自体をなくしてしまうことが、問題解決の打開になりはしないだろうか。つまり、相対的に見るのではなく、相対主義的に物事を見ていくのである。

 無論、貧困層を現状のままに留めてよいとするのでは決してない。経済的な視点も放念してよいものではないが、それだけでは計測できない豊かさにも力点を置いて、政策立案するなり、価値観やライフスタイルの転換を図っていくなりする先に”NO POVERTY”の社会が実現していくような気がする。
 「相対的貧困とは何か?」との問いに行き詰まり、定義しきれなくなった時、つまり誰かと比べて良いとか悪いとか、高いとか低いとか言えなくなった時、この問題の解決に光が差すのではないかと思う。「みんなを金持ちにしちゃおうぜ!」というという方向性よりは、こっちのほうがよりプラグマティックで、実現可能性がある気がするのだが。

 もし、今の貧困層にあたる人たちのGDPが今の富裕層のレベルになった時、まだ見上げる人々がいるのであれば、彼らは何を思うのだろうか? そもそも富裕層の生活が、人が目指すべきゴールとしていいものだろうか? そこは果たして桃源郷なのだろうか?

 人は他者との比較をしたがるもの。永遠にその「人と比べる」という呪縛から逃れられなければ、世界は青天井への階段をひたすら昇り続けなければならない。それよりもそろそろ踊り場で歩を止めて、互いが優雅にダンスする様を眺め合っていているほうが私はいいと思うのだが。
 貧困の対義語は、豊かさではなく、多様さなのだ。試しにそう言ってみたら、世界は肩の荷をだいぶ下ろすことができるのではないだろうか。

2016年9月30日 (金)

連載「SDGs」を始めます!

 新しい千年紀を迎えた西暦2000年、国際社会はこれまでに山積していた課題を次こそは解決せんと「ミレニアム開発目標(Millennium Development Goals)」、略称MDGsとしてゴールを掲げた。それは2015年までに達成すべきものとして、8つの目標と21のターゲット項目が挙げられたが、一定の成果はもたらしたものの、到底やすやすとはクリアできるものでなかった。まさか千年もかけて解決しようと悠長なことを思ってMillenniumなどと銘打ったわけではあるまいが、わずか15年で解決しようという設定もあまりに現実的でなかった。

 そこで、MDGsの期限とされた2015年、それを継承するものとしてSDGs(持続可能な開発目標 Sustainable Development Goals)が国連総会で採択され、新たな目標を国際社会は設定することとなった
(詳細は文末のリンク参照)。17の目標と169の達成項目で構成されるSDGsは、MDGsと並べれば、より複雑で、難解な印象を与える。しかし、MDGsという理想(否、空想!?)を掲げた国際社会が経験した15年をふりかえれば、その直面した現実が素直に反映されているとも言える。今を生きる私たちの前には、それほどは大きな壁が立ちはだかっているのだ。

 これから本ブログでは、「SDGs」というカテゴリーを設け、このSDGsで掲げた17の目標ひとつひとつを“翻訳”していこうと思う。なぜならば、MDGsに比して見たときのSDGsの特徴が、こうした問題群を途上国に起因するのではなく、地球社会全体の責任として先進国も含めた取り組みへと位置付けたからである。つまり、他人事とせずに我々の問題として展開していかなくては本質的な解決には至らないとみんなが決意したということなのである。だから、各々で「自分は何をすべきなのか、何ができるのか?」と常に自問する必要があり、遠くかけ離れた問題として見ないフリをするのではなく、“自分事”としていかなければならない。そうした当事者性を持つことではじめて、このSDGsという難題に立ち向かう資格を有する。その上で、国連が掲げた崇高な理念として理解するのを放棄するのではなく、自分の言語(日常)に落とし込んで解釈する作業が、地球に住まう我々には課されている。

 ただし、それは「十字架を背負う」などといった人類の重い宿命とするのではなく、誤解を恐れずに言えば、きっと乗り越えていけるのだという“軽やかさ”を持ち合わせたほうがいい。そうしたポジティブなマインドこそが重篤な症状を駆逐していくのだから。
 これもまた、「真面目さこそが正義」という思い込みで取り組んできた我々が乗り越えていくべきことで、「バカらしさをバカ真面目にやってみる」という腹積もりと鷹揚さが要求されているのだとも思う。

 いずれにせよ、SDGsについて思うことを軽やかに徒然と書いていこうと思う。(できれば年内をめどに17目標すべてについて)


【参考】
 ◆持続可能な開発目標(SDGs)ー国連広報センター
  http://www.unic.or.jp/activities/economic_social_development/sustainable_development/2030agenda/